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1話 光と影-赤字転落

 横浜の中川井病院に、この2月(93年)ホスピス病棟をオープンしてから、6カ月が経とうとしていた。ホスピス病棟オープンは、役所による余剰ベッド削減を回避するための懐柔策という事情もあって、もともと強引な計画ではあった。


 ホスピス病棟(緩和ケア病棟)が厚生省に認可されるには、基準看護を取っていることが前提だったが、中川井病院は、基準看護が取れていないのにオープンを強行したのだ。


 高井院長は、役所に申請さえすれば基準看護はすぐにでも取れるものと、たかをくくっていた。それが大誤算だった。


 基準看護は、看護婦数はもとより、看護内容から看護日誌の書き方まで、その内容が事細かに決められていて、容易に取れるものではなかった。審査を受けるには半年単位の現場実績が必要なのだ。総婦長がたくさんの書類をもっては、足しげく役所に通い指導を受けなければならなかった。


 はたしてホスピス病棟は、毎月500万円近い赤字を生んだ。この出費は、1カ月の総収入が6000万円台の中川井病院にとっては大きな痛手だった。経営常識では、人件費が総支出の4割以内が健全な経営状態といわれる。中川井病院はそれが優に5割を越えてしまったのだ。


 高井はその赤字を埋めるために、午前中の外来を終えると、午後の診療時間の大半を手術と検査に費やした。手術や検査は時間当たりの保険点数が高く、収益性がいいのだ。特に大腸内視鏡検査は点数が高く、それだけでホスピス病棟の赤字分を埋めていた。


 経営をになった経験のない高井にとっては、その厳しさが身にしみた。経営者は病院一の稼ぎ頭であっても、給料の受け取りは最後になるのだ。時には欠配のことさえあった。


 ある日の責任者会議の席上だった。中川井病院では毎月1回、各部署の責任者が集まって、運営会議を開いていた。


 放射線技師長が口を開いた。


「先日、居酒屋で1杯飲んでいたら、顔見知りの客が後ろの席で、当て付けがましくいうんですよ」


 彼は埼玉賛善会病院から派遣された、腕の立つ技師だった。


「最近、中川井病院は料金が高くなったと、私に聞こえるように仲間と話しているんです」


 高井は不必要な診療までして、稼いでいるつもりはなかった。


「そんなことないでしょう。お酒に酔った勢いでいったんでしょうよ」


 総婦長は、しらけムードのその場を繕おうと口をはさんだ。


「オーバーにやっているつもりはないけど、そんな噂がたつとは気を付けないとね」


 高井は職員の士気をそがないように、婉曲にそういった。


 高井にも身に覚えがあった。


 中学校教師が39度の熱を出して入院した。高熱だけで入院する必要はないが、検査と点滴をするために入院させたのだ。教師も高熱で苦しく、職場を休むためにもその方が得策と考えて同意した。


 胸のレントゲン写真には異常なく、血液検査で肝障害が軽く見られた。


 何らかのウイルス性感染症と考え、ステロイド剤と抗生物質を使って4日ほどで熱は下がった。


「先生いつ退院できますか」


 教師は高井の回診の時、聞いてきた。


「肝障害があるからもう少しですね」


「そんなに学校は休めませんよ」


 教師は熱が下がってすっかり元気になったので、高井に退院を迫ったのだ。


「明日、肝機能の検査を見てからですね」


 高井はこれくらいの異常なら、外来でフォローできるとは思っていたが、入院日数をもう少し延ばしたかったのだ。


「いや明日退院させてもらいます!」


 教師は気色ばんで怒声を上げた。


 高井は教師とのそのやりとりを思い浮かべながら、


(ここまでしても赤字では、どうしょうもないなあ)


 いささか疲れを感じてため息をついた。




 高井は、理想の医療を目指していたはずの自分が、売り上げに翻弄されているのを見て悔しく思うこともしばしばあった。しかし、ホスピスという自らまいた種は自ら刈り取らねばならず、嘆いている暇は無かった。


 来る日も来る日も高井は、手術室と地下の検査室にこもった。古い建物の地下室は全体が薄暗く、検査室は6畳間ほどの狭い部屋だった。


「院長はこうもん(肛門)様だ」


 いつの間にか、大腸検査に明け暮れる高井にあだ名がつけられた。


 田上医事課長だけはその苦労を知っていた。高井が検査で疲れ果て、院長室に倒れ込んでいるのをしばしば見かけていたからだ。


 医事課は病院の売り上げを計算して保険基金に請求する部署だけに、病院の経営状況や、高井がホスピス病棟の赤字を手術や検査で埋めていることをつぶさに知っていた。


「院長先生お疲れ様です」


 田上はしばしば医事課の女性職員を誘って、高井にことあるごとに応援のメッセージカードを贈った。


 窮すれば通ずで、赤字に陥ってからの病院は、職員みんなで知恵をしぼる総力戦となった。


 田上は、たんぽぽ基金箱を受付に置いた。90年に中川井病院が倒産寸前に陥ったとき、患者たちの署名を集めたことを思い出したのだ。たんぽぽの実が風にのって大地に広がるように、ホスピス運動の輪が広がってほしいという思いで、たんぽぽ基金と名付けたのだ。


 高井は、患者からの謝礼をすべてこの基金に寄付した。時には、10万円単位の謝礼をくれる人もいた。


「いいんですか。院長先生も生活があるのでしょう!?」


 田上は心配気にそれを手に取った。高井の給料がしばしば欠配になっているのを知っていたからだ。


 日本航空のスチュワーデス2人が、ボランティアでたんぽぽ基金に協力してくれた。彼女たちは、病院の受け付け脇に設置したテーブルに、海外に渡航した際現地で買ってきたおみやげを陳列して販売したのだ。


 市民の会の世話人たちも、病院の診療を助けてくれた。木田医師は執刀医を補佐する前立ちとなって、高井の手術を手伝った。中川井病院で手に負えない患者が出ると、世話人のがんセンター医師がその患者を引き受けてくれたのだ。


 高井は知り合いの国会議員にも声をかけた。県に働きかけてもらうよう依頼したのだ。議員は高井の熱心な活動に共感し快く引き受けてくれた。


 まさしく八方、手を尽くして、総力戦を展開したのだ。




 93年暮れ、山梨理事長が突然、中川井病院を訪れた。理事長の電撃訪問に高井は緊張して、院長室に迎え入れた。


 山梨理事長はいくぶん硬い表情で、


「町田先生は?」


「今日は休みの日です」


「じゃあ、高井先生からも伝えて下さい」


 出されたコーヒーを一口飲むと、


「ホスピス、どうにかなりませんか」


 月例報告書を示して山梨理事長は話し出した。


「ホスピスをオープンして1年近くになりますが、中川井病院全体で毎月数百万の赤字を出していますね。ボーナス時期にはそれが1000万にもなります」


 高井は予期していたとはいえ、面と向かっていわれると心苦しかった。


「それは基準看護のせいで、認可されるまではどうにもなりません」


「先生も知っての通り、本院の方も医局騒動で院内がぎくしゃくしています。来院患者にも影響が出ているんですよ」


 医局騒動による職員の士気の低下が、診療にも影を落としていたのだ。


 山梨は一呼吸おいて姿勢を正すと、


「今日来たのは、あなたに話しておかなければならない重要なことがあるからです」


 神妙な面持ちでいった。


「中川井病院は近々競売にかけられます」


「競売?」


 高井がこれまでの人生において、初めて耳にする言葉だった。彼には皆目その意味合いが理解できなかった。


 競売とは、多くの買い手に値をつけさせ、最も高い値をつけた人に売却する方法をいう。法的には、債務者が借金の肩代わりに差し出した担保物件を、裁判所の権限で、値を競わせ、最高値をつけたものがそれを落札するという法的な整理方法なのだ。


 中川井病院の競売は裁判所が行う法的整理だった。90年に倒産寸前にあった中川井病院には複雑な裏事情があった。複数の関係者が病院に多額の貸し付けをしていたのだ。その担保に、病院の土地と建物が提供されていた。


 90年7月に賛善会理事長の山梨が中川井病院を引き継ぐとき、すでに病院はそれらの債権者によって法的整理の手続きが取られていたのだ。


 中川井病院の診療再開は、病院債務の法的整理と並行して行われていたのだ。山梨理事長は、債権者と病院の賃貸借契約を結び、家賃を払って病院を借り受けたのだ。


 高井にはこの事情は全く知らされていなかった。たとえ知らされていても経済事情にうとい医師などには、到底理解できない世界のことだった。


「病院は賛善会のものではないんですか」


 高井は驚きのあまり声がうわずった。


「違います。ただ借りているだけなんです」


 高井はそれ以上追求する気にはなれなかった。知ったとしても、雇われ院長にそこまで介入する能力はなかったし、すべて山梨理事長を信頼してやってきたことだからだ。


「その所は私の仕事なので、先生は心配しないで、今まで通り診療に専念してくれればいいんです」


「そうですね。私にはそういう話は分かりませんから」


「とにかくホスピス、しっかりやって下さい。お願いします。赤字が長く続けば閉鎖するしかありません」


 山梨は懇願するようにいった。


 山梨理事長が帰った後、


(競売になったら病院はどうなってしまうのだろう)


(経営者が代わってしまうのだろうか)


(ホスピスは閉鎖されてしまうのだろうか)


 経営には素人ながらも、高井は頭の中でさまざまなことを思い巡らせた。



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