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5話 医局内抗争

 河合が事務長を務める本院の埼玉賛善会病院は、92年12月に行われた教授選のあおりで不穏な空気が漂い始めていた。


 関東大学の教授選は、僅少差で東都大学出身者が新教授に選出されたのだ。中尾教授は、自らの推す現職助教授を当選させられなかった。


 教授を頂点とした教室は、教授が変わることによってその陣容が一変する。助教授がそのまま教授に昇格すれば、講師が助教授に、助手が講師にと順に繰り上がる。しかし他大学の候補者が選ばれると、助教授以下の陣容が再編される。よほどの功績でもない限り簡単には格上げされないのだ。新任教授に認められなければ、元助教授は関連病院などに左遷されることになる。


 医療法人賛善会の山梨理事長は、中尾教授の同期生だった。賛善会の病院は、2人が同期生であるよしみで、医師の派遣を中尾教授の医局にすべてを頼りきっていた。このために中小の病院が医師獲得に躍起となっている時勢にあっても、病院は安閑としておれたのだ。


 山梨理事長は中尾教授に電話を入れた。


「中尾先生、教授選、残念なことになりましたね」


「私の力不足ですいません。ご迷惑をおかけします」


 中尾教授は力なく答えた。


「うちの医局はどうなるんでしょうか。先生が頼りですから」


 山梨は、今まで通り医師を大学から派遣してもらえるかどうかが心配だった。


「私からも新任教授に頼んでおきますが。教授選のしこりもありましてね・・・」


 中尾は言葉を濁した。


 東都大学出身者が後任教授になれば、退任後に中尾教授の影響力が低下するのは必至だった。


 中尾の頼りない返事に山梨は不安を感じた。新任教授の協力が得られるか否かは、2つの病院を経営する山梨理事長にとっては死活問題だったのだ。




 3月末になって、山梨は手土産をもって教授室を訪れた。既に新任教授の荒井保男が、教授室に陣を構えていた。先客がいるらしく中から話声が聞こえた。


 山梨は遠慮がちにドアをノックした。


「はい」


 低音でよく響く声だった。


 ドアを少しだけ開けて名前を名乗ると、


「少しお待ちください」


とだけいって、先客との話は続いた。


 しばらくして、製薬会社のプロパーらしき先客は、ぺこぺことへつらうようにお辞儀をして出ていった。


 ドアを開けて中に入ると、がっちりとした大柄な荒井教授は、ソファーに座ってタバコを吹かしていた。教授室には豪奢な調度品がしつらえてあった。


 山梨を見るとタバコの火を灰皿でもみ消し、ゆっくりと立ち上がった。


 山梨は上着の内ポケットから名刺を取り出し、


「賛善会理事長の山梨です」


「荒井です。どうぞお掛けください」


 山梨は手土産を差し出し、ソファーに腰を掛けた。


「お気遣いくださり恐縮です」


 荒井教授は礼をいうと、テーブルの脇にその手土産を置いた。


「この度は、教授就任おめでとうございます。今まで、賛善会病院は関東大学から医師を派遣していただいています。これからも引き続きよろしくお願いいたします」


 山梨はソファーから軽く腰を浮かせ、頭を下げた。


「中尾教授からもその話は聞いています。今のままの人事で行こうと思っていますが、何か不都合はありますか」


 荒井教授は少壮気鋭の外科医らしく、張りのある声で心得顔にいった。


「いいえ特にありません」


「医局員も年々変わっていきますから、それに応じて少しずつ変更していきます」


 荒井教授のこの言葉に、山梨は安堵の胸をなで下ろした。


「ところで金子院長はしっかりやっていますか」


「彼は10年近く当院を支えてくれた優秀な医師です。私は院長としてふさわしいと評価していますが」


「そうですか。それなら結構ですが・・・」


 賛善会病院の金子仁志院長は、中尾前教授の門下生だった。新任の荒井教授は、金子院長とは面識がなかった。荒井教授のこの言葉に、意味ありげな響きを山梨は感じていた。


「今後ともよろしくお願いします。医師が充足するか否かは、当院の命運にかかわります」


「承知しています」


 荒井教授は終始、丁寧な態度で山梨に接した。


 医師の世界には、出身大学が別でも、卒業年度の古い年長者を尊ぶ慣例があった。荒井は、自分より1回りも年長の山梨を気遣って接したのだ。


 賛善会病院は、教授交代のあおりをほとんど受けることなく済むかに見えた。




 4月から大学医局に新体制が敷かれた。ご多分にもれず、助教授以下の陣容は大きく変わった。落選した助教授は、大学関連病院の院長として転出させられた。 新助教授は、荒井教授自身が東都大学から連れてきた腹心の部下が就任した。医局全体を統括する医局長も、教授とともに赴任した医局員が抜てきされた。


 大学医局の陣容が変わると、医師派遣を受けている配下の病院人事にも大きな変化が生じる。医師の工面がつかず診療科目の縮小を余儀なくされたり、極端な場合、病院が閉鎖に追い込まれることさえあるのだ。


 幸いなことに、荒井教授が山梨理事長に約束した通り、賛善会病院への派遣医師に大きな変更はなかった。


 しかし賛善会病院の平穏な日々は、つかの間のことだった。


 5月に荒井教授から電話が入った。


「いつもお世話になっています」


 山梨理事長は丁重な物いいで電話に出た。


「相談ですが、新しくそちらに派遣する伊良部利男君を、副院長に推薦したいんですが」


 推薦とは控えめな表現ではあったが、ほぼそれは命令に等しかった。


「はあ、副院長なら特に問題はないと思いますが」


 副院長という役職は病院内の規定である。医療法には院長は医師でなければならないとあるが、副院長についてはその規定はないのだ。だから病院によっては副院長に看護婦を起用しているところもある。


「じゃあ来月からは、伊良部君を副院長にしてください」


 山梨は荒井教授の真意をはかりかねたが、医局員たちの了解さえ取れれば大きな支障はないと考え、二つ返事で承諾した。




「金子院長、それでいいですね」


 山梨は、賛善会病院の金子仁志院長に、いちおう儀礼的に相談した。


「大学からの依頼では断れませんねぇ」


 中尾元教授の下にいた金子は、しぶしぶそれを受け入れた。


 これを糸口に、徐々に荒井教授派の若手の医師たちが、賛善会病院の医局に増えていった。伊良部副院長は医局員を束ね、大学の医局長に内情をちくじ報告して、病院の実権を掌握していった。




 夏も終わりかけた8月の末、賛善会病院の理事長室で、山梨理事長と副院長の伊良部はテーブルをはさんで対座していた。


「金子院長は独断過ぎますよ」


 伊良部は声を荒げた。


「医局員たちの意見に耳をかしません。この間もだれにも相談せずに、勝手に夜7時から、医局の抄読会を始めたんです。7時からですよ!」


 話すごとに伊良部の顔が紅潮していった。


「そんな遅い時間、みんなそれぞれやることがありますよ。それでいて自分は急用があるといって、勝手に休んだりするんですから」


 憤懣やるかたないといった表情をした。


 山梨は困り顔で、


「金子院長はあなた達より古い世代だから、昔風のやり方なんだね」


「これは私ひとりの意見ではないんですよ」


 伊良部は山梨をにらみすえた。


 1970年代、田中角栄内閣の時、1県1医大政策が始まった。それまで全国に30校ほどしかなかった医科系大学が、80校まで増設されたのだ。新設医大出身の医師が大量に輩出される中で、少しづつ医療界の体質も変わっていった。


 金子院長は年齢が50代で、白衣の威厳を重んじる旧来タイプの医師だった。しかも関西の大学から新設の関東大学の医局に入局した医師だったのだ。


 出身大学が同じなら先輩後輩の強いきずながあるが、他大学の出身者ではそれも希薄で、時がたつほど大学医局とは疎遠になっていった。


「金子院長も今までよく頑張ってきてくれました。私からもあなた達の要望を伝えておきますから、何とか穏便にやってくださいよ」


 山梨はそういうと、なだめるように伊良部の両肩に手を置いた。


「理事長、あまり悠長に構えていない方がいいと思いますよ」


 何かいわくありげに伊良部はポツリといった。


 賛善会病院では、伊良部副院長に同調する医師たちが増えるに従い、金子院長はしだいに医局内で孤立していった。まさに医局内の権力闘争が始まったのだ。


 医療法人賛善会の牙城たる本院にも、内紛という暗雲が立ち込め出していたのだ。



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