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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

オオカミの棲む山

作者: Setaria.v
掲載日:2026/09/08


 神田智大は、長年ハンターをしていた。その日も、自分の山の罠を見回り、空弾きをした罠を仕掛け直したところだった。


「こんばんは」


 人里離れた一軒家に来たのは、一人の妙齢の女性。神田はこの時点で尋常な者とは思っていなかった。しかし、外には猟犬も繋いでいる。何かされる前に、自分の監視下に置きたかった神田は、素早く銃の位置を確認すると「どうぞ」と彼女を招いた。


「やっと見つけました」


 神田の家の玄関で女性はそう言ってフードを脱いだ。まだ三月、玄関からの冷気は肌寒く、神田は「早く上がれ」と彼女を急かした。


「で、何の様だ」


「あなたに会いに来ました」


「俺に?」


 神田は見知らぬ女性が会いに来る理由が分からず、首を傾げた。女性は一息吐くと、思ってみない事を言い始めた。


「神田智大、67歳。実家から勘当され、妻にも逃げられ、天涯孤独の身。猟友会には所属せず、明日とも知れぬ日々を、ずっと狩猟に費やし続ける。まさに狩人」


「何が言いたい」


 神田の疑問に、女性はずいと顔を寄せた。


「私の伴侶に相応しい」


 女性は神田が何を言う暇もなく、神田の懐に潜り込んだ。歳の離れた女性に劣情を抱くはずもなく、神田はただ困惑するばかりであった。


「冷やかしなら帰ってくれ」


「もっと効率的な狩りがしたい」


 女性は、神田の秘めた願望を言い当てた。しかし神田は簡単には認めたくなくて「やめろ」と女性を脇に置こうと肩に手を掛けた。

 しかし、女性の方が力が強く、そのまま神田は押し倒されてしまった。


「何なら、銃もそんなに好きではない。シカやイノシシの血を直に浴び、その内臓の温かさで暖を取る時、心臓を素手で引きちぎった時、本当の生を感じる気がするから」


「だからなんだ」


「私は、それが叶えられます」


 女性は舌舐めずりをしながら、神田の枯れた肢体を眺めた。遅ばせながら、神田は自分が狙われていることを悟った。


「別に叶えてもらわんでいい」


「私には時間がない」


 ふぁさり、と足に何かが当たる感覚があった。しかし、押し倒されていては確かめようがない。


「やっと見つけたんダ。ここで逃す訳に……グルルゥ……いくか」


 女性の息に唸り声が混じる。神田は身を捩って本気で逃げようとするも、彼女の力の前には無力だった。


「少し……寝ていてくれ」


 女性は何かを口に含み、そのまま神田に顔を近づけた。神田が面食らっている内に、女性は神田の口を割ってその何かを飲み込ませた。

 薄れゆく意識の中、足に当たる獣の一部だけがずっと片隅に残り続けた。



「起きてくれ」


 女性の声に、ピンと耳が立った。湿った匂い、落ち葉と雨の名残り。両手を突き出して伸びをすると、尻尾が横にゆるりと揺れた。


「わふぅ?!」


 喉から出たのは、まるで犬の鳴き声のようで、よく見ると手ではなくて犬の前脚のようだ。視点も低く、俺はまるで悪夢のようだと身体を捩った。


「落ち着いて」


 実際には言葉ではないが、そう言われているのは分かる。隣のオオカミは、暗い茶色の毛をふさふさと蓄えた立派なメスだった。メスは神田の鼻筋をぺろりと舐め、俺も興味本位でぺろりと舐め返すと、くすぐったがっていた。


「まだお前は話せないだろうから、私が説明しよう」


 そこで語られたのは、衝撃の事実だった。


「日本をはじめ、世界では食物網のバランスが崩れている。人間も対策をしている様だが、まるで追いついてはいない。このままでは、人間社会で暮らす人外も困ったことになる。そこで、白羽の矢が立ったのが、絶滅寸前だった我々だ」


 メスはそこで言葉を切り、俺の目を覗き込んだ。


「我々は、古くから動物の皮を借りて変身をする一族の末裔だった。とある方法を使えば、一族に人を引き込むことができる。そうして、お前を私と同じ存在とした」


「うぁは?」


「同意がなかったことは謝る。だが、これだけ血に塗れながらも人の姿を保っていたお前が、私には窮屈に見えたのだ。それに、訓練すれば人間の姿にも戻れるはずだ」


「うぉふ、ふぉう、ふぁ?」


「本当だとも」


 メスは誇らしそうに背を張った。俺はその姿に愛らしさを感じた自身に驚いた。


「ふぁ、ふぉ、ひょふぇゔぁ」


「何と呼べば、か。私のことは、ルーとでも呼んでくれ」


 そして、ルーとの共同生活が始まった。

 幸いなことに、俺を訪ねる人間はそう多くはなく、ルーに印刷してもらった旅行のパンフレットを机に置いて誤魔化せた。

 税金や諸々は面倒でカード引き落としにしていたことも功を奏した。


「ウォン」


 俺はシカの群れの前で一声鳴いた。驚いたシカは「ピッ」と鳴き、回れ右をして駆け出した。だがその先に待っていたのはもう一頭のオオカミだった。

 ルーは一頭の尻に噛み付いた。振り落とされそうになるルーに、俺は首に噛みついて加勢した。途端に口内に溢れる温かい血に、興奮が高まる。

 シカは俺たちを振り落とせず、そのまま衰弱して絶命した。

 俺はまず、ルーに内臓を譲った。ルーの一撃が無ければ仕留められなかったからだ。ルーはいいのという顔をしたが、俺は顎で彼女を促した。

 シカの一番のご馳走は、肉よりも内臓、特にレバーや心臓だった。人間の頃は肉の方が好きだったのだが、とろけるような旨味のあるレバーは何物にも代え難いご馳走であることをこの身体は教えてくれた。

 ルーは「ハフゥ」と一息吐き、俺を鼻で突いた。見れば、食べかけの肝臓が置かれている。俺は「グルゥ」と礼を言い、とれたての肝臓に舌鼓を打った。


 お腹いっぱい食べた後は、二頭で川まで行き、水を飲んだ。沢の水は冷たくてうまい。ついでに俺は毛皮についた血を洗い流すと、ルーは「人間の癖が抜けてないのね」と笑う。


「仕方ないだろう。汚いのは嫌だ」


「そうなの?」


 日本語ではないが、俺は彼らの言葉をようやく覚えてきていた。オオカミの姿でも、しっかり意思疎通が取れるように、だ。


 俺はまず、オオカミになってから躓いた。物理的に足が絡まって動けなくなったのだ。そもそも人間の足と作りが違いすぎるのが悪い。俺は言葉にならない悪態を吐きつつ、慣れない感覚の波に抗って乗りこなしていった。


 言葉が話せるようになるまでも暫く時間がかかった。こうして狩りができるようになるのは、もっと時間がかかった。俺がオオカミになったのは三月の頃なのに、既に暦は秋になっていた。

 最初はルーに子鹿を襲ってもらっていた。目の前に放り出された死体に、最初は戸惑うものの、身体は正直に肉を求めた。なるべく頭で考えないようにしながら生肉を引き裂いて食べる内に、自分が本当に食べたかったのは、やりたかったのは、こうした狩りではないかと思い始めた。


 そして、念願の人間の姿もやっと戻れた。戻れたというのは語弊があったが。鏡で見た俺は、人間というよりも野生動物のような険しい容姿となっていた。これは元々でもあり、更に山に籠ったからと何とか言い訳をして信じてもらえるレベルのものだった。


「ピッ!」


 繁殖期を迎えたオスのシカはとにかく匂う。だが、その立派なオスに囲われたメスは非常に食べ頃だ。俺は襲い来るオスの角をひらりと避け、ガラ空きになったその首に一つ噛み付いた。そして「グェエ」と唸りつつも首を離す。ものすごい性臭に吐き気を催した。

 その内に芳しい血の匂いがした。ルーが一頭仕留めたのだろう。俺は怒り狂うシカを避けつつ、ルーの元に駆け寄った。

 本日、ルーが仕留めたのは今年産の子鹿だった。まだやっと鹿の子柄が消えたくらいの子鹿を引き摺って、安全な場所へと向かうところだった。


「任せた!」


 俺はオスジカにもう一撃入れると、血の泡を吹いていたオスはどうと倒れた。この肉は、他の生き物にやろう。そう思い、俺はルーの匂いを辿って落ち葉を踏んだ。


 ルーは子鹿の喉に噛みついて血を楽しんでいた。俺は狩りの特権だと、それを座って眺めていた。ルーは俺に気づくと恥ずかしそうにし、そのまま内臓に頭を埋めるようにして齧り始めた。


「どうして俺を選んだんだ?」


 俺はずっと気になっていたことをルーに聞いた。ルーは「ふぇ」と間の抜けた声を出し、尻尾を丸めて恥ずかしがっている。


「その、ごめんなさい」


「俺は怒っていない。ほら分かるだろう」


 俺の匂いを嗅がせ、言葉が本当だと気づいたルーはやっと安心して話し始めた。


「あのね、私ね、実はあなたを山で見かけたことがあったの」


「そうなのか?!」


 俺は大層驚いた。


「それでね、人間という枠に押し込められたあなたが、すごく窮屈そうに見えた。だから、私の伴侶にした」


「それがどうして、こんなジジイを選んだんだ」


「おじいさんなのか?」


 ルーは俺の尻の匂いを嗅いだ。俺は「やめてくれ」と言ったが、彼女はやめる気がないようだ。


「おじいさんの匂いじゃないから大丈夫だ」


「そういう問題じゃないんだがなぁ」


 俺は俺の尻の匂いを嗅いでみるが、他の若いオスの匂いも嗅いだことがないので分からない。ついでにルーの尻の匂いを嗅ぐが、健康的な若いメスということしか分からない。


「そんで、最初時間がないと言っていたのは何だ」


「それはね、私が人間になれる時間が少なかったって話」


「なるほど。それで尻尾を出していた訳か」


 ルーは「そうだ」と頷く。俺はついでに気になっていたことを色々と聞くことにした。


「俺はもう年なんだが、あとどれくらい生きられる?」


「分からないな。私の一族は、多くが人間社会に毒されるか、オオカミとしての生を貫くかで、サンプルが少ない。ただ、魔女の助けも借りてお前には特殊な方法を試したから、あと何十年かは生きるかもしれない」


 俺はその言葉にとても困った。もう後十年も生きられればいいと思っていたところで、謎の寿命の伸びがあったからだ。


「それにその、魔女達というか、お前達は何を考えて俺をオオカミとした。毎日のようにシカを狩って生きているんだが、それでいいのか」


 俺の言葉に、ルーは頷いた。


「それで、今更だが、伴侶というのは何をする。このまま二頭だけの群れとして、俺の敷地で暮らすのも悪くはないが」


「伴侶は伴侶だ。お前も時期が来ればよく分かるだろう」


 ルーは意味深な言葉を残して、耳を傾けた。そして、「人間が来たぞ」と山を降りていった。俺の耳にも、喧しい車のエンジン音と臭い排気の匂いが感じ取れた。

 俺は、人間の姿を取り戻してから、まずは家の側の山の中に小さな小屋を建てた。途中でオオカミの姿に戻りつつも、何とかボルトを締めて作ったその小屋に、俺はまずは洋服ダンスを置いた。

 つまりは、オオカミの姿から人間の姿に変わるための更衣室である。


「うぉふ、ふぅ……」


 何とか今日も人間の姿になるも、気を抜くと尻尾や耳が出てしまいそうになる。だが、ルーは人間に存在がバレたら最後、その人間を殺せとまで言う。


「ただ、写真とかで撮られない限りは大丈夫だけどね。後はメディアがもみ消してくれるし、質の悪いAIで話は済むわ」


 ルーはオオカミだが、意外と現代の人間社会に精通していた。


「あなた」


 車から降りたのは、俺の元妻だった。


「お前は、どうして」


「あなたの家が空き家として紹介されてたから、死んだのかと思って土地の権利書を取りに来たのに、残念だわ」


「そうか」


 俺は言葉少なに引き戸を閉めようとするも、元妻はガッと止めた。


「あなたね、養育費の払い込みが足らないんじゃないの?」


「ちゃんと20歳になるまで入れていただろ」


「金目のものあるんじゃないの」


 元妻は無理やり家の中に入ろうとするので、俺は「お引き取り下さい」と力尽くで扉を閉めた。一度は情を交わした女性だったが、今では何の魅力も感じられなかった。香水と白粉ばかりで顔を隠し、よく分からない布を纏い、足音もうるさくて動きも不恰好だ。

 そうして元妻を見る視点がまるで野生動物であることに俺は気づき、苦笑してから小屋へと戻った。

 煩わしいばかりの服を脱ぎ、きつかった直立歩行をやめれば、すぐそばにはルーがいる。

 俺がルーのマズルを甘噛みすると、ルーも俺の鼻先を舐めてきた。そうして、俺とルーは仲を深めていった。


 腰がむず痒くなるような、覚えのある衝動がやってきたのは、二月の頃だった。人間の、特に若い頃にずっと頭を支配していた、青臭い繁殖欲。オオカミになってなくなったと思っていたそれは、単に繁殖期でなかったという理由で消えていただけだったらしい。

 最初は良かった。何とか耐えられる程度であったが、無視しようとする度に頭が焼き切れるような衝動に突き動かされる。特に、ルーが隣にいる時がいけない。同種のメスの存在に、腰が浮き上がるような、熱にうなされるような感情が止まらない。それは、ルーも同じなのだと気づいた時、俺の中の歯止めが吹っ飛んだ。

 結論から言うと、俺はルーと愛し合った。ルーが俺を伴侶と呼んだ意味がよく分かった。俺たちは伴侶で、シカを狩る。命をいただく。そうして、次の命を授かって、次の世代に繋ぐのだ。


 二月後、ルーが産気づいた。俺がはらはらしている内に、彼女は三頭の仔を産んだ。俺は彼女を毛繕いしつつ、彼女のために捕まえた生まれたばかりのイノシシの子どもをルーの前に置いた。


「ありがとう」


「こちらこそ、ありがとう」


 俺は最大限の感謝を込めて、ルーの前で腹這いになった。小さなばかりの命は、ルーの頑張りによって生まれたものだ。俺はペロペロと我が子を舐め、その愛おしさを十全に感じていた。


「なぁ、聞いてもいいか」


 ルーは顔を上げ、俺の方を向いた。


「彼らも、人間の姿になれるのか?」


「才能があれば、かな? 神秘が薄くなった現代では、オオカミと人間の間には大きな隔たりがあるの。私みたいに、どちらでもない存在の方が珍しいくらい」


「俺に使った方法は?」


 彼女はゆるく首を振った。


「あれは、私のお爺さんの遺骨を使った特別な儀式だったの。だから、何度も使える方法ではないし、人間であなたほどオオカミの適正がある人は少ないわ」


「それもそうか」


 俺はゆるく笑う代わりに、一つ遠吠えをした。返す者はまだいないが、暫くすれば、いくつもの声が返ってくるようになるだろう。


「ただ、怖いから俺も含めて狂犬病とかのワクチンを打ちに行こうな」


 俺が冗談めかしてそう言うと、ルーも優しく目を細めた。

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