公爵家の家令として【グラント視点】
【グラント視点】
夜が更けた。
執務室の隣、私に与えられた小部屋で、グラントは静かに筆を執った。
日課ではない。
しかし今夜は、何かを書き残したい気持ちがあった。
理由はわからない。
ただ、今日という日が終わる前に、自分の中を整理しておきたかった。
筆が、紙の上を動き始めた。
私の名はグラント。
ヴァルトハイン公爵家に仕えて、四十三年になる。
父もまた、この家に仕えた人間だった。
先々代の公爵に随行し、長年忠勤を尽くした。
その貢献を買われ、私は十七の年に家令見習いとして公爵家に入ることを許された。
父はその知らせを受けたとき、何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げた。
私にはその意味が、当時まだわからなかった。
今はわかる。
家令という仕事は、主家への奉仕だけではない。
先代から受け継いだものを、次の世代に渡すことも、仕事のうちだ。
父は自分の生涯をかけて積み上げたものを、息子に託した。
その重さを、頭を下げることで示したのだと思う。
私は父の背中を見て育った。
口数の少ない人だったが、仕事は丁寧で、主家への敬意を一度も忘れなかった。
その姿が、私の手本だった。
見習いとして入った頃、先代の公爵はまだご壮健だった。
厳しい方だったが、筋の通った方だった。
理不尽な叱責はなく、しかし曖昧さも許さなかった。
私が失敗をすれば、その場で正された。言い訳は通じなかった。
「グラント、お前は正しいことをしているが、なぜ一人で抱えようとする」
何度言われたかわからない。
今でも、その声が耳に残っている。
先代が私に教えてくれたことは、仕事の技術だけではなかった。
人を見ること。
屋敷全体を一つの生き物として捉えること。
どこかが歪めば、必ずどこかに皺が寄る。
それを早めに見つけて、静かに直す。
それが家令の仕事だと教えてくれた。
私はその言葉を、今でも胸に抱いている。
先代の奥方は、穏やかな方だった。
坊ちゃんが生まれたのは、私が公爵家に入って十年ほど経った頃だ。
坊ちゃん、と私は呼んでいた。
生まれたばかりの頃は小さく、しかし目だけは鋭かった。
先代の目を受け継いだのだと、誰もが言った。
魔力が多すぎるせいで、幼い頃の坊ちゃんはよく熱を出した。
私はその度に、寝室の前で待機した。
できることは限られていた。
侍医の指示を伝え、薬を手配し、使用人たちの動きを整える。
しかし本当はただ、そこにいたかった。
先代ご夫妻は多忙だった。
見舞いに来られることもあったが、長くはいられなかった。
坊ちゃんの寝室の前に、長い時間いたのは、私だった。
あるとき、坊ちゃんが熱の中で目を開けた。
「グラント……また熱が出た」
「はい、坊ちゃん」
「……お父様とお母様は」
「ご公務がございます。後ほどいらっしゃいます」
坊ちゃんは何も言わなかった。
ただ目を閉じた。
その小さな横顔を見ながら、私は何も言えなかった。
言えることが、なかった。
体が丈夫になった頃から、坊ちゃんは変わった。
表情が減った。
口数が少なくなった。
感情を外に出すことを、しなくなった。
それが何を意味するのか、私にはわかっていた。
傷ついた子どもが、自分を守るために作った壁だ。
しかし私には、その壁を崩す言葉がなかった。
家令として、主家の人間に深く踏み込むことは、越えてはならない一線がある。
その一線が、もどかしかった。
王太子殿下と親しくなられた頃、少しだけ安心した。
あの方は、坊ちゃんが体が弱い頃から対等に接していた。
坊ちゃんに必要なのは、そういう人間だと思っていたから。
◆
先代ご夫妻が逝ったのは、昨年の秋だった。
視察の帰路、馬車が崖から落ちた。
知らせを受けたとき、私は執務室で書類を整理していた。
使いの者が息を切らして駆け込んできた言葉を聞いた瞬間、私は書類を持ったまま、しばらく動けなかった。
先代への想いを今ここに書き記すと、筆が止まりそうなので、詳しくは書かない。
ただ、あの日から、坊ちゃんが当主になった。
いや、もう坊ちゃんとは呼べない。
ライアス様だ。
しかし私の中では、今でも時折、坊ちゃんという言葉が浮かぶ。
熱の中で目を開けて、「また熱が出た」と言った、あの小さな顔が。
ライアス様が当主になってから、私は屋敷を必死に支えようとした。
若い当主が戦場に出ることを選んだのは、逃げではないと思っていた。
いや、逃げであることはわかっていた。
しかし責める気にはなれなかった。
悲しむ暇もなく全てを背負わされた人間が、逃げ場を求めるのは、当然のことだと思っていた。
だから私は、屋敷を守ることだけに集中した。
一人で抱えようとする癖は、先代に何度も指摘されていた。
それでも直らなかった。
全部頭に入っていれば、何かあったときに動ける。
誰かに委ねて、その人間がいなくなったとき、困るのは公爵家だ。
そう思っていた。
今にして思えば、それは自分を守るための理屈でもあった。
私がいなければ回らない屋敷を作ることで、自分の存在意義を確かめていたのかもしれない。
先代に言われた言葉が、今更になって刺さる。
「グラント、お前は正しいことをしているが、なぜ一人で抱えようとする」
屋敷の中で、少しずつ、問題が積み重なっていった。
わかっていた。
わかっていながら、動けなかった。
ライアス様に進言しようとするたびに、あの方の顔が浮かんだ。
両親を亡くし、当主の重圧を一人で背負い、それでも前を向こうとしているあの顔が。
これ以上重いものを乗せてはいけない、と思った。
結果として、問題は溜まり続けた。
ダンカンのことも、ヘルガのことも、私は薄々気づいていた。
しかし動かす根拠が弱かった。
あるいは、自分が動けなかっただけかもしれない。
◆
そこへ、ベルナード嬢が来た。
正直に書くと、期待はしていなかった。
十六の令嬢が、公爵家の事務を担えるとは、頭ではわかっていても、実感を持てなかった。
伯爵家での実績があると伺ってはいたが、所詮は地方の小さな領地の話だ。
公爵家とは規模が違う。
そう思っていた。
しかし三日で、その考えは覆された。
屋敷の全体図を頭に入れ、各部署の問題点を洗い出し、改善案を持ってきた。
しかも的外れではなかった。私が長年気づきながら放置していた部分を、正確に突いてきた。
優秀だということは、すぐに認めた。
ただ、困惑もあった。
色分けした紙による仕分け。
珠を使った計算道具。
業務の流れを一枚の紙に図示する方法。
そのどれもが、私が長年やってきたやり方とは違った。
違う、というだけではない。
私には思いつかなかった発想だった。
それが、少し怖かった。
新しいやり方が正しいのだとわかる。
実際、成果も出始めている。
しかし同時に、私のやり方が古くなっていく感覚がある。
四十三年かけて積み上げてきたものが、少しずつ形を変えていく。
それは正しいことだ。屋敷のためになることだ。
わかっている。
しかしその感覚を、どう言葉にすればいいのかわからない。
時代に取り残されていくような、あの感覚を。
ベルナード嬢は、私に言った。
「グラントさんがいなければ、この屋敷はとっくに立ち行かなくなっていたと思います」
その言葉を聞いたとき、私は何も言えなかった。
否定する気にはなれなかった。
かといって、素直に受け取ることも、できなかった。
長年一人で抱えてきた人間に、その言葉がどれほど沁みるか。
沁みるからこそ、怖かった。
その言葉に甘えてしまうと、自分が止まる気がした。
ベルナード嬢のやり方を全て受け入れ、彼女に任せてしまえば、私は何をする人間になるのか。
その問いに、まだ答えが出ていない。
しかし今夜、一つだけはっきりしていることがある。
ベルナード嬢は、ライアス様の屋敷を、より良くしようとしている。
それは確かなことだ。
そして私が四十三年守ろうとしてきたものと、その方向は同じだ。
方法は違う。
速さも違う。
発想も違う。
しかし向いている先は、同じだ。
それだけで、今は十分かもしれない。
坊ちゃん、いや、ライアス様が、少しずつ屋敷に向き合い始めている。
それを支える人間が、私一人ではなくなった。
それを、喜ぶべきなのだろう。
喜べているかどうかは、正直まだわからない。
しかし、嫌ではない。
それが今夜の、正直な気持ちだ。
◆
筆を置いた。
妻と子の顔が浮かんだ。
屋敷の外に暮らす家族に、最後にゆっくり会ったのはいつだったか。
父もそうだった。
公爵家に仕えることが全てで、家族とゆっくり過ごすことが少なかった。
私も同じ道を歩んでいる。
それが誇りでもあり、少し、寂しくもある。
蝋燭の炎が、静かに揺れた。
グラントは書いた紙を、静かに折り畳んだ。
誰かに見せるためではない。
ただ、書いたことで、少し楽になった気がした。
明日も、この屋敷のために働く。
それだけは、変わらない。




