表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/17

公爵家の家令として【グラント視点】

【グラント視点】


 夜が更けた。


 執務室の隣、私に与えられた小部屋で、グラントは静かに筆を執った。


 日課ではない。


 しかし今夜は、何かを書き残したい気持ちがあった。


 理由はわからない。


 ただ、今日という日が終わる前に、自分の中を整理しておきたかった。


 筆が、紙の上を動き始めた。


 私の名はグラント。


 ヴァルトハイン公爵家に仕えて、四十三年になる。


 父もまた、この家に仕えた人間だった。


 先々代の公爵に随行し、長年忠勤を尽くした。


 その貢献を買われ、私は十七の年に家令見習いとして公爵家に入ることを許された。


 父はその知らせを受けたとき、何も言わなかった。


 ただ、深く頭を下げた。


 私にはその意味が、当時まだわからなかった。


 今はわかる。


 家令という仕事は、主家への奉仕だけではない。


 先代から受け継いだものを、次の世代に渡すことも、仕事のうちだ。


 父は自分の生涯をかけて積み上げたものを、息子に託した。


 その重さを、頭を下げることで示したのだと思う。


 私は父の背中を見て育った。


 口数の少ない人だったが、仕事は丁寧で、主家への敬意を一度も忘れなかった。


 その姿が、私の手本だった。


 見習いとして入った頃、先代の公爵はまだご壮健だった。


 厳しい方だったが、筋の通った方だった。


 理不尽な叱責はなく、しかし曖昧さも許さなかった。


 私が失敗をすれば、その場で正された。言い訳は通じなかった。


「グラント、お前は正しいことをしているが、なぜ一人で抱えようとする」


 何度言われたかわからない。


 今でも、その声が耳に残っている。


 先代が私に教えてくれたことは、仕事の技術だけではなかった。


 人を見ること。


 屋敷全体を一つの生き物として捉えること。


 どこかが歪めば、必ずどこかに皺が寄る。


 それを早めに見つけて、静かに直す。


 それが家令の仕事だと教えてくれた。


 私はその言葉を、今でも胸に抱いている。


 先代の奥方は、穏やかな方だった。


 坊ちゃんが生まれたのは、私が公爵家に入って十年ほど経った頃だ。


 坊ちゃん、と私は呼んでいた。


 生まれたばかりの頃は小さく、しかし目だけは鋭かった。


 先代の目を受け継いだのだと、誰もが言った。


 魔力が多すぎるせいで、幼い頃の坊ちゃんはよく熱を出した。


 私はその度に、寝室の前で待機した。


 できることは限られていた。


 侍医の指示を伝え、薬を手配し、使用人たちの動きを整える。


 しかし本当はただ、そこにいたかった。


 先代ご夫妻は多忙だった。


 見舞いに来られることもあったが、長くはいられなかった。


 坊ちゃんの寝室の前に、長い時間いたのは、私だった。


 あるとき、坊ちゃんが熱の中で目を開けた。


「グラント……また熱が出た」


「はい、坊ちゃん」


「……お父様とお母様は」


「ご公務がございます。後ほどいらっしゃいます」


 坊ちゃんは何も言わなかった。


 ただ目を閉じた。


 その小さな横顔を見ながら、私は何も言えなかった。


 言えることが、なかった。


 体が丈夫になった頃から、坊ちゃんは変わった。


 表情が減った。


 口数が少なくなった。


 感情を外に出すことを、しなくなった。


 それが何を意味するのか、私にはわかっていた。


 傷ついた子どもが、自分を守るために作った壁だ。


 しかし私には、その壁を崩す言葉がなかった。


 家令として、主家の人間に深く踏み込むことは、越えてはならない一線がある。


 その一線が、もどかしかった。


 王太子殿下と親しくなられた頃、少しだけ安心した。


 あの方は、坊ちゃんが体が弱い頃から対等に接していた。


 坊ちゃんに必要なのは、そういう人間だと思っていたから。


 ◆


 先代ご夫妻が逝ったのは、昨年の秋だった。


 視察の帰路、馬車が崖から落ちた。


 知らせを受けたとき、私は執務室で書類を整理していた。


 使いの者が息を切らして駆け込んできた言葉を聞いた瞬間、私は書類を持ったまま、しばらく動けなかった。


 先代への想いを今ここに書き記すと、筆が止まりそうなので、詳しくは書かない。


 ただ、あの日から、坊ちゃんが当主になった。


 いや、もう坊ちゃんとは呼べない。


 ライアス様だ。


 しかし私の中では、今でも時折、坊ちゃんという言葉が浮かぶ。


 熱の中で目を開けて、「また熱が出た」と言った、あの小さな顔が。


 ライアス様が当主になってから、私は屋敷を必死に支えようとした。


 若い当主が戦場に出ることを選んだのは、逃げではないと思っていた。


 いや、逃げであることはわかっていた。


 しかし責める気にはなれなかった。


 悲しむ暇もなく全てを背負わされた人間が、逃げ場を求めるのは、当然のことだと思っていた。


 だから私は、屋敷を守ることだけに集中した。


 一人で抱えようとする癖は、先代に何度も指摘されていた。


 それでも直らなかった。


 全部頭に入っていれば、何かあったときに動ける。


 誰かに委ねて、その人間がいなくなったとき、困るのは公爵家だ。


 そう思っていた。


 今にして思えば、それは自分を守るための理屈でもあった。


 私がいなければ回らない屋敷を作ることで、自分の存在意義を確かめていたのかもしれない。


 先代に言われた言葉が、今更になって刺さる。


「グラント、お前は正しいことをしているが、なぜ一人で抱えようとする」


 屋敷の中で、少しずつ、問題が積み重なっていった。


 わかっていた。


 わかっていながら、動けなかった。


 ライアス様に進言しようとするたびに、あの方の顔が浮かんだ。


 両親を亡くし、当主の重圧を一人で背負い、それでも前を向こうとしているあの顔が。


 これ以上重いものを乗せてはいけない、と思った。


 結果として、問題は溜まり続けた。


 ダンカンのことも、ヘルガのことも、私は薄々気づいていた。


 しかし動かす根拠が弱かった。


 あるいは、自分が動けなかっただけかもしれない。


 ◆


 そこへ、ベルナード嬢が来た。


 正直に書くと、期待はしていなかった。


 十六の令嬢が、公爵家の事務を担えるとは、頭ではわかっていても、実感を持てなかった。


 伯爵家での実績があると伺ってはいたが、所詮は地方の小さな領地の話だ。


 公爵家とは規模が違う。


 そう思っていた。


 しかし三日で、その考えは覆された。


 屋敷の全体図を頭に入れ、各部署の問題点を洗い出し、改善案を持ってきた。


 しかも的外れではなかった。私が長年気づきながら放置していた部分を、正確に突いてきた。


 優秀だということは、すぐに認めた。


 ただ、困惑もあった。


 色分けした紙による仕分け。


 珠を使った計算道具。


 業務の流れを一枚の紙に図示する方法。


 そのどれもが、私が長年やってきたやり方とは違った。


 違う、というだけではない。


 私には思いつかなかった発想だった。


 それが、少し怖かった。


 新しいやり方が正しいのだとわかる。


 実際、成果も出始めている。


 しかし同時に、私のやり方が古くなっていく感覚がある。


 四十三年かけて積み上げてきたものが、少しずつ形を変えていく。


 それは正しいことだ。屋敷のためになることだ。


 わかっている。


 しかしその感覚を、どう言葉にすればいいのかわからない。


 時代に取り残されていくような、あの感覚を。


 ベルナード嬢は、私に言った。


「グラントさんがいなければ、この屋敷はとっくに立ち行かなくなっていたと思います」


 その言葉を聞いたとき、私は何も言えなかった。


 否定する気にはなれなかった。


 かといって、素直に受け取ることも、できなかった。


 長年一人で抱えてきた人間に、その言葉がどれほど沁みるか。


 沁みるからこそ、怖かった。


 その言葉に甘えてしまうと、自分が止まる気がした。


 ベルナード嬢のやり方を全て受け入れ、彼女に任せてしまえば、私は何をする人間になるのか。


 その問いに、まだ答えが出ていない。


 しかし今夜、一つだけはっきりしていることがある。


 ベルナード嬢は、ライアス様の屋敷を、より良くしようとしている。


 それは確かなことだ。


 そして私が四十三年守ろうとしてきたものと、その方向は同じだ。


 方法は違う。


 速さも違う。


 発想も違う。


 しかし向いている先は、同じだ。


 それだけで、今は十分かもしれない。


 坊ちゃん、いや、ライアス様が、少しずつ屋敷に向き合い始めている。


 それを支える人間が、私一人ではなくなった。


 それを、喜ぶべきなのだろう。


 喜べているかどうかは、正直まだわからない。


 しかし、嫌ではない。


 それが今夜の、正直な気持ちだ。


 ◆


 筆を置いた。


 妻と子の顔が浮かんだ。


 屋敷の外に暮らす家族に、最後にゆっくり会ったのはいつだったか。


 父もそうだった。


 公爵家に仕えることが全てで、家族とゆっくり過ごすことが少なかった。


 私も同じ道を歩んでいる。


 それが誇りでもあり、少し、寂しくもある。


 蝋燭の炎が、静かに揺れた。


 グラントは書いた紙を、静かに折り畳んだ。


 誰かに見せるためではない。


 ただ、書いたことで、少し楽になった気がした。


 明日も、この屋敷のために働く。


 それだけは、変わらない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ