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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果


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8/14

残る者、去る者、そして(ノエル視点)

【ノエル視点】


 ダンカンを処断した翌日、ノエルは厨房へ向かった。

 マーガへの対応が、今日の最初の仕事だ。


 グラントとの相談で、マーガへの話は自分が直接するということになった。


「グラントさんは同席されないんですか」


「あなたの方が話しやすいでしょう」グラントは静かに言った。「マーガはプライドが高い。上から言われるより、対等な立場で話した方が届きやすい」


(グラントさんの人物分析は鋭い)


 ノエルはそう思いながら、厨房の扉をノックした。


「どうぞ」


 バルトの声だった。


 中に入ると、朝の仕込みが始まったばかりの厨房に、数人の料理人がいた。

 マーガは奥の作業台で、黙々と野菜を刻んでいた。


「おはようございます」


「……おはようございます」


 マーガの返事は短かった。

 刃の動きは止まらなかった。


「少しお時間をいただけますか」


「今は仕込み中です」


「お時間をいただけますか」


 刃が止まった。

 マーガがゆっくりとノエルを振り返った。


 その目には、昨日とは違う色がある。

 反発ではなく、覚悟のような、何かだった。


(何かを知っている、あるいは何かを聞いたか)


 ノエルは静かに続けた。


「閣下のご判断を、お伝えしたいと思っています」


 マーガの顔が、わずかに強張った。


「……解雇ですか」


「いいえ」


 マーガが、少し眉を動かした。


「新しいお役目をお願いしたいと思っています。厨房の隅で話せますか」


 バルトがさりげなく若い料理人たちを別の作業へ誘導した。

 この人は、空気が読める。


 マーガとノエルは、厨房の隅に移動した。


「マーガさんの二十三年の経験を、若い料理人たちに伝えていただきたいと思っています」


 マーガは黙っていた。


「仕入れの判断だけではありません。食材の目利き、季節ごとの仕入れの変動、取引先との関係、全部です。マーガさんの頭の中にあるものを、次の世代に引き継ぐ仕組みを作りたい」


「……それは」マーガがゆっくりと言った。「私を、お払い箱にするということですか」


「違います」ノエルははっきりと言った。「マーガさんにしかできない仕事があります。それが後進の育成です」


「若い子に教えたら、私の仕事がなくなる」


「なくなりません。むしろ増えます」


「……どういうことですか」


「今のマーガさんは、仕入れの判断を全部一人でこなしています。それを若い料理人と分担できるようになれば、マーガさんは今より難しい判断に集中できます。一人で全部抱えなくて済む」


 マーガは黙っていた。


(ここが正念場だ)


 ノエルは続けた。


「マーガさんが二十三年かけて積み上げてきたものは、本物です。それは私には作れないし、今すぐ他の誰かにも作れない。だからこそ、それを記録して、伝えて、残してほしいんです。マーガさんがいなくなったとき、この厨房が困らないように」


「……私がいなくなるとき、ですか」


「いつかは必ずあります。マーガさんも、私も」


 沈黙があった。

 マーガは視線を作業台に落とした。

 しばらく、何も言わなかった。

 ノエルも、何も言わずに待った。


 そのとき、若い料理人の一人が、少し離れた作業台で野菜を刻みながら、こちらをちらりと見た。

 目が合った。

 その料理人が、小さく、しかしはっきりと笑った。


(仕入れのこと、ずっと教えてもらえなくて、と言っていた子だ)


 マーガもその視線に気づいたのか、わずかに首を動かして、その若い料理人を見た。

 少しの間があった。


「……その子は」マーガが静かに言った。「仕入れを覚えたいと思っているんですか」


「はい。あなたに教わりたいと言っていました」


「……私に」


「マーガさんから直接教わりたいと」


 マーガの目が、少し揺れた。

 長い沈黙があった。


「……紙に書き出す作業は、私にはできません」


「私がします。マーガさんが話してくれたことを、私が整理します」


「記録の形は」


「マーガさんが使いやすい形にします。最終的にマーガさんが確認して、これで合っているという形になるまで直します」


 またしばらく黙っていた。


「……わかりました」


 マーガの返事は短かった。

 しかし今度は、覚悟ではなく、何か別のものが声に混じっていた気がした。


「ありがとうございます」


「……お礼を言われることではありません」マーガは視線を戻しながら言った。「ただ、一つだけ言わせてください」


「はい」


「あなたは、私のやり方を否定しなかった。それは……少し、意外でした」


「否定する理由がありません。二十三年間、支えてきたやり方ですから」


 マーガは何も言わなかった。

 しかし作業に戻る前に、若い料理人の方をもう一度見た。

 その目が、少しだけ、柔らかくなっていた。


 マーガとの話が終わったとき、バルトが厨房の入口でノエルを待っていた。


「……うまくやったな」


「バルトさんのおかげです。場を作っていただいて」


「俺は何もしてない」バルトは鼻を鳴らした。「ただ、マーガの目が変わったのは見た」


「よかったです」


「あの子に、ちゃんと仕込みを教えてやってくれと、マーガには前から言ってたんだがな」バルトは少し間を置いた。「なかなか動かなかった」


「今は動けると思います」


「……そうだな」


 バルトはそれだけ言って、踵を返した。

 厨房に戻りかけて、ふと立ち止まった。

 しばらく間があった。


 バルトはノエルの方を向かずに、ぽつりと言った。


「……ありがとよ」


 声が、わずかに小さかった。

 口の中で転がすように、しかし確かに言った。

 そのままさっさと厨房に消えた。


(バルトさん……)


 ノエルは背中を見送りながら、胸の奥が温かくなった。


(こういう人が推しの屋敷にいる。本当に良かった)


     ◇


 問題は、次だった。


 ヘルガへの対応は、グラントが同席することになっていた。


「ヘルガはマーガとは違います」グラントは事前にそう言っていた。「外面は柔らかいが、芯は頑固です。感情で動かそうとしてくる。一人では捌ききれない可能性があります」


 しかしグラントが把握していなかったことが、一つあった。

 ノエルは聞き取りの際に、ヘルガについてある種の確信を持っていた。


 ヘルガは単に厳しい管理職ではない。

 弱い立場の人間に無理難題を押し付け、困り戸惑う姿を見て、それを楽しむ人間だ。

 若い使用人が困れば笑顔で見守り、ミスをすれば皆の前で指摘する。

 シフトを意図的に操作して特定の部下を消耗させる。

 それは指導でも管理でもない。

 支配だ。


(グラントさんは気づいていない。気づかせないように外面を整えてきたんだろう)


 ノエルは洗濯・縫製部門の一室に、ヘルガを呼んだ。

 ヘルガは笑顔で来た。


「お呼びですか。何でしょう」


 その笑顔が、最初から少し硬かった。


「閣下のご判断をお伝えしたいと思って」


「左様でございますか」


 笑顔のまま、椅子に腰を下ろした。

 余裕の体を装っていたが、目だけが、少しだけ探っていた。


「ヘルガさんには、縫製の実務に移っていただきたいと思っています。部門の取りまとめについては、別の方にお願いすることになります」


 笑顔が、一瞬だけ固まった。


「……それはつまり、降格ですね」


「役割の変更です」


「同じことではないですか」笑顔が戻ってきた。しかしその笑顔の質が、少し変わっていた。「長年ここを仕切ってきた私に、ですね」


「ヘルガさんの縫製の腕は確かです。その腕を活かしていただきたいと思っています」


「まあ」ヘルガが少し首を傾けた。「管理の仕事を取り上げられて、縫製だけをしていろ、ということですね。それは……寂しい話です」


(この言い方が、このタイプだ)


 ノエルは内心で思った。

 直接反発するのではなく、感情に訴えて相手を動かそうとする。


「シフトの問題と、部下への指導の方法について、改善が必要だと判断しました」


「まあ、シフトに問題が」ヘルガは少し目を丸くした。「誰かがそんなことを言っていましたか。困りますね、告げ口なんて」


「複数の方から同様の話を伺いました」


「あの子たちは大げさで困ります」ヘルガは笑顔のまま首を振った。「私は懸命に指導をしてきたつもりなんですが、若い子には伝わらないこともあって。難しいですよね、指導というのは」


「体調が悪くても休みを申請しにくい職場になっていました」ノエルは静かに、しかしはっきりと言った。


「まさか」ヘルガの笑顔が、わずかに揺れた。「私がそんなことを……休みたければ申請すればいいだけです。止めたことはありません」


「ヘルガさんに嫌みを言われるから休めない、と言っていた方がいます」


「嫌み、ですか」ヘルガの笑顔が消えた。「それは誤解です。私は適切に指導をしていただけで、嫌みなんて……」


「誤解であれば、そう感じさせてしまった時点で、管理職としての課題があります」


 ヘルガが黙った。

 その沈黙の中で、何かが変わった気がした。

 外面の柔らかさが、少しずつ剥がれていくような。


 やがてヘルガが、ゆっくりと顔を上げた。


「グラントさん」


 グラントを見た。


「こんな若い方に言われなければならないのでしょうか。私が長年ここでやってきたことを、否定されるということですか」


「否定ではありません」グラントは静かに言った。「役割の変更です」


「同じことです」ヘルガの声に、じわりと険が滲んだ。「それならば……」


 一拍あった。


 ヘルガは、少し間を置いてから、ゆっくりと言った。


「辞めてもいいんですよ、私」


 その言い方が、引き留めを期待していた。

 切り札として置いた言葉だとわかった。


「わかりました」ノエルは静かに言った。


 ヘルガが、少し固まった。


「辞表はグラントさんにお渡しください。退職に際しての手続きはグラントさんが案内します」


「……え」


「ヘルガさんのご判断を尊重します」


 ヘルガの顔に、初めて本物の動揺が走った。


「あの……引き留めていただけない、ということですか」


「辞めてもいい、とおっしゃいましたので」


「そ、それは……」


「ヘルガさんが辞めると判断されたなら、それはヘルガさんの意思です。尊重します」


 ヘルガは口を開いたが、言葉が出てこなかった。

 切り札が、切り札として機能しなかった。

 その事実が、ヘルガの表情に静かに刻まれていった。


 長い沈黙があった。


 やがてヘルガが、ゆっくりと立ち上がった。


「……わかりました。辞めます」


 声が、先ほどより低かった。


「手続きはグラントさんに伺います」


 ヘルガはグラントに向かって深々と頭を下げた。ノエルには、最後まで視線を向けなかった。


「グラント様、長年お世話になりました」


 そして踵を返しながら、吐き捨てるように言った。


「……私がいなくなれば、わかります。私がどれだけこの部門を支えてきたか。どれだけ大変な思いをしてきたか」


 扉に手をかけながら続けた。


「誰も私をちゃんと見てくれなかった。評価もされなかった。これだけ尽くしてきたのに……あなたたちは、こうやって最後は人を使い捨てにする」


 扉が閉まった。

 部屋が静かになった。


 グラントが、静かに息を吐いた。


「……長年、見誤っていました」


 その言葉が、静かに落ちた。


「グラントさん……」


「外面が柔らかく、上の者には従順でした。私はそれを誠実さと見ていた。しかし実際は……」グラントは窓の外を見た。「弱い立場の者に何をしていたか、私は気づけなかった」


 ノエルは何も言わなかった。


 グラントは続けた。


「長年苦しんでいた使用人がいたということです。私が目を向けていれば……もっと早く動けたかもしれない。それが……悔やまれます」


「グラントさんが悪いのではありません」


「そうは言えません」グラントは静かに続けた。「管理する立場の人間が、見抜けなかった。それは私の問題でもあります」


 ノエルは少し考えてから、言った。


「グラントさん。今後は、私が定期的に各部署の話を聞く機会を作ります。グラントさんには言いにくいことも、私なら言える場合があります。二人で補い合えれば」


 グラントは長い沈黙の後、静かに頷いた。


「……お願いします」


 その言葉は短かったが、重かった。


     ◇


 夕方、ノエルは気晴らしに屋敷の外周を走ることにした。

 今日は色々ありすぎた。


 マーガの目が柔らかくなった瞬間、バルトの照れくさそうな「ありがとよ」、そしてヘルガの最後の捨て台詞。

 走れば、頭が整理される。


 夜の庭に出ると、空気が少し冷たかった。

 それが心地よかった。


 走り始めて十分ほど経った頃だった。


「お前のせいだ!」


 声が飛んできたのと、気配が迫ったのが、ほぼ同時だった。


(ダンカン!?)


 振り返る間もなく、腕を掴まれた。

 ダンカンだった。

 目が血走っていた。

 二日以内に出て行けと命じられ、荷をまとめていたはずの男が、なぜかここにいた。


「お前が余計なことをしなければ! 全部お前のせいだ!」

「ダンカンさん、落ち着いて」

「うるさい!」


 掴まれた腕を引き抜いた。

 ダンカンが正面に回り込んでくる。


 視線が地面を走った。

 木の枝があった。

 太めの、折れた枝だ。


(もらっていきます)


 反射的に拾い上げた。

 前世でやり込んだキャンプと、この世界のキャラクター補正か、短剣術の腕前がある体が、自然に構えを取った。


「っ……なんだ、その枝は」

「護身です」

「女のくせに! 偉そうに! お前みたいなのが来てから何もかもが狂った! 俺は何も悪くない!」


 ダンカンが踏み込んできた。

 枝で受けた。

 力が強かった。

 じりじりと押される。


(体格差がある。長くは持たない)


 そう思ったとき。


「そこまでだ」


 低い声が、夜の庭に響いた。


 その声で、ノエルの体から力が抜けた。


(この声を、知っている)


 ダンカンも反射的に動きを止めた。

 音もなく現れた人影が、ダンカンに向かって一直線に踏み込んだ。

 銀色の髪が、夜の光にわずかに輝いた。


(ライアス様だ)


 ダンカンが何かを言う間もなかった。

 片手でダンカンの腕を掴み、流れるような動作で足を払い、地面に組み伏せた。

 ダンカンが地に叩きつけられる音が、夜の庭に響いた。


 ライアスはダンカンの腕を押さえたまま、無表情でいた。

 しかしその目の底に、ノエルが今まで見たことのない種類の色が宿っていた。


(あ、安心した)


 ノエルの体から、一気に力が抜けた。

 膝がくずおれた。

 その場にへたり込んだ。


「離せ! 離せよ!」ダンカンが叫んだ。「なんだよこの屋敷は! 俺は何も悪くない! 俺が横領した? 笑わせるな! お前ら貴族が俺たちをこき使って、搾取して、それで文句を言うな! 何年尽くしたと思ってるんだ! 正当な報酬だろうが!」


 ライアスは何も言わなかった。


「お前もだ!」ダンカンがライアスを見上げた。「あんたが領地を放り出して戦場ごっこをしてる間、俺たちがどれだけ苦労したか! 感謝もしない、見もしない、それで横領だ解雇だ! ふざけるな! あんたのせいだろうが! あんたが当主の仕事をしてれば、こんなことにはならなかった!」


 ライアスの眉が、わずかに動いた。


「あの女も同じだ!」ダンカンがノエルを指差した。「お前みたいな小娘が来て、何でもかんでも引っかき回して! 俺の仕事を奪って! お前のせいで俺の人生が狂った! 絶対に許さない! 覚えておけ!」


 夜の庭に、罵声が響き渡った。


 ライアスは、最後まで黙って聞いていた。

 しかし、その静けさの中に、ノエルは何かを感じた。

 いつもとは違う、何かを。


 ライアスが口を開いた。


「貴様の言い分は聞いた」


 声が、いつもより、わずかに低かった。


「言い分の一部に正しいことがある。私が目を向けていなかったことは、事実だ」

「だったら……」

「しかし」ライアスは続けた。「その怒りを、女一人に向けて夜に襲いかかる理由にはならない」


 ダンカンが黙った。

 守衛が駆け寄ってきた。

 庭の騒ぎに気づいたらしい。


「ダンカンを空き部屋に閉じ込めておけ」ライアスは静かに言った。「二日以内に出て行けと命じたにもかかわらず、屋敷内に留まり、使用人に危害を加えようとした。明朝、改めて処遇を決める」

「かしこまりました」


 守衛がダンカンを引き立て始めた。


「離せ! 俺は悪くない! あの女が! あの公爵が! こんな屋敷、潰れちまえ! 覚えておけよ、絶対に!」


 罵声が夜の庭に響きながら、遠ざかっていった。

 静かになった。


 ライアスが、ノエルに振り返った。

 地面にへたり込んだノエルを見て、ライアスの眉がわずかに動いた。


「怪我は」

「……ありません。ただ、少し足に力が入らなくて」

「わかった」


 ライアスがノエルの前に屈んだ。

 手が差し伸べられた。


「掴まれ」

「あ、はい」


 手を取った。引き上げられた。

 しかし立ち上がったとき、まだ足元が定まらなかった。

 ライアスが、ノエルの手を放さなかった。

 もう片方の手が、ノエルの腰を支えた。


「大丈夫か」


 その声が、至近距離で聞こえた。

 ノエルは顔を上げた。


 至近距離に、ライアスの顔があった。

 眉がわずかに寄っていた。

 心配の色が、いつもより濃く、その目に宿っていた。

 腰に回った手の感触が、確かにあった。

 自分の手を握る手の力が、確かにあった。


 ノエルの脳内で、回路が一つひとつ順番に焼き切れていった。


(推しが)

(心配顔で)

(至近距離で)

(私の腰と手を)

(支えている)

(夜の庭で)

(二人きりで)

(ゲームのスチルにこんなシーンがあった気がする)

(いやこれはスチルではなく現実だ)

(現実にこれが起きている)

(でも待って、閣下のこの心配顔の解像度が)

(至近距離で浴びる破壊力が)

(腰に回った手の体温が)

(私の処理能力を完全に超えて)

(いる)


 ぶっ、と音がした。

 鼻血だった。

 それも、勢いがよかった。


 ライアスの目が、丸く見開かれた。


「っ……」


 ノエルは鼻血が出ていることに気づきながら、しかし顔だけは必死に笑顔を作った。


「大丈夫です!!」


 笑顔だった。鼻血を垂らしながら、満面の笑顔だった。


「走ってきたので体が熱くて、のぼせたみたいで、本当に大丈夫です、ご心配なく、ありがとうございました、失礼します!!」


 一息で言い切った。

 懐からハンカチを取り出して鼻を押さえながら、ライアスの手をそっと外して、ノエルは走り出した。

 夜の庭を、全力で駆け抜けた。


 背後で、ライアスが何かを言いかけた気がした。

 聞こえなかった。

 聞こえなかったことにした。


(速く! 速く走れ私の足! 今夜だけはヲタク活動よりも逃走を最優先とする!)


 鼻にハンカチを当てながら、満面の笑みを浮かべながら、夜の庭を走り抜けるノエルの背中が、やがて闇の中に消えた。


 庭に一人残ったライアスは、しばらく、ノエルが消えた方向を見ていた。

 夜風が、静かに吹いた。

 ライアスは、手を、ゆっくりと、下ろした。


(……なぜ鼻血が出るんだ、あの娘は)


 答えは出なかった。

 今夜も、出なかった。


     ◇


 その夜の観察日誌の余白には、震える字でこう書いた。


「本日、マーガさんとヘルガさんへの対応完了。バルトさんが照れくさそうに礼を言った。尊い。グラントさんが静かに後悔していた。胸が痛かった。夜、ダンカンに襲われた。木の枝で応戦した。ライアス様がダンカンをねじ伏せてくださった。その場でヘナヘナと腰が抜けた。引き上げていただいた。腰と手を支えていただいた。至近距離で心配顔を向けていただいた。鼻血が出た。勢いよく。笑顔で誤魔化して逃げた。以上。詳細は記録する気力がない。ただ一点だけ記録する。ライアス様の心配顔の破壊力は、今夜で人生最大を更新した。なお腰に回っていた手の体温については、記録したいが記録すると今夜眠れなくなるので、明日以降の課題とする。おやすみなさい」


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