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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果


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適切な処置を検討(ノエル視点)

【ノエル視点】


 ライアスへの報告は、昼過ぎに設定された。


 執務室の扉の前で、ノエルはグラントと並んで立った。


「緊張していますか」グラントが静かに言った。

「していません」

「……顔が少し強張っています」

「推しへの報告案件なので、若干別の意味で緊張しています」

「……それは大丈夫なのですか」

「問題ありません。仕事中の私は有能です」


 グラントが何かを言いかけて、やめた。

 五十年の経験が「これ以上聞かない方がいい」と判断したのだろう。


(推しの顔を見ながら冷静に報告できるかという問題は確かにあるが、それは別の話だ。私は有能な事務員だ。仕事中は有能だ。有能でいられる。たぶん。おそらく)


 ノエルは心を整えた。前世の事務員魂よ、今こそ発揮されよ。

 グラントがノックした。


「入れ」


 ライアスの声が聞こえた。


(声だけで動揺しないこと。これが最初の関門だ。声は毎日聞いている。慣れた。慣れたはずだ。慣れていない)


 扉が開いた。

 執務室に入ると、ライアスは書類から顔を上げた。

 淡い寒色の瞳が、グラントとノエルを順に見た。


「報告か」

「はい、閣下」グラントが一歩前に出た。「ベルナード嬢から調査の報告を受けました。閣下にお伝えすべき内容がございます」

「聞こう」


 グラントが静かに話し始めた。

 厨房のマーガの件。洗濯・縫製部門のヘルガの件。そして備品・倉庫管理のダンカンの件。


 グラントの報告は的確だった。

 感情を排して、事実だけを淡々と並べる。


 ノエルはグラントの斜め後ろに控えながら、ライアスの表情を観察した。


(無表情だ。無表情なんだが……今日の光の入り方が絶妙で横顔が……あ、いかん。仕事中だ。観察はオフだ。オフにしろ私の観察回路)


 しかし回路はオフにならなかった。


(眉の角度が変わった。これは思考モードに入った眉の動きだ。攻略本に記載あり。攻略本に記載があるということは、私はこの表情を画面越しに何百回と見てきたということで、それが今目の前で生で展開されているわけで、解像度が段違いで、しかも今日の閣下は少し疲れているのか目元がわずかに……いやいや今は報告を聞く時間だ。聞け私の耳。動かすな私の脳のヲタク部分)


 グラントが一通り報告し終えたとき、ライアスが口を開いた。


「補足はあるか」


「はい」ノエルは一歩前に出た。


(前に出た。至近距離になった。落ち着け。落ち着くんだ。前世込み四十年超の社会人が、ここで崩れてはいけない)


「ダンカンについてのみ、一点追加がございます。備品の数の不一致について、複数の使用人から同様の証言を得ておりますが、現時点では帳簿と実数の照合ができていません。照合の許可をいただければ、具体的な数字を出すことができます」

「許可する」ライアスは静かに言った。「三人とも解雇でいいだろう。新しい人間を手配しろ」


(来た。地頭は良いのに人の機微に疎い、最短解決を好む設定がここで炸裂した。ゲームの攻略本に「ライアスは感情的に切り捨てるのではなく、論理的に最適解を選ぶ。しかしその最適解が往々にして人間関係を度外視した判断になる」と書いてあった。これがそれだ。この不器用さが、このギャップが……萌えポイントなんですよね閣下……)


「閣下」ノエルは口を開いた。

「なんだ」

「三人とも解雇、というのは少し待っていただけますか」


 ライアスがノエルを見た。


「問題のある人間を置いておく理由がわからない」

「問題のある人間というより、問題のある配置と状況が原因でございます」

「同じことだ」

「違います」ノエルははっきりと言った。


(ライアス様に向かって「違います」と言える日が来るとは。でもゲームの攻略本に「ライアスは根拠のある反論には耳を傾ける。正面から意見をぶつけることを臆病と見なさない」と書いてあった。だから言う。推しへの愛と攻略本への信頼に免じて言う)


「人は財産でございます。切って新しいものを入れれば解決、という単純な話ではありません」

「問題を起こした人間を財産とは言わない」

「起こした問題の種類によります」ノエルは続けた。「マーガさんは二十三年の経験を持っています。仕入れの知識は、今すぐ代わりの人間が持てるものではありません。解雇して新しい人間を入れれば、当面の間、厨房の仕入れ精度が落ちます。食材のロスが増え、逆にコストが上がります」


 ライアスは黙っていた。


(聞いている。聞いてくださっている。閣下が私の話を聞いてくださっている。その真剣な横顔が……今の眉の角度は「情報を処理している眉」で、攻略本のページでいうと……いや今は仕事だ集中しろ!)


「ヘルガさんは縫製の腕そのものは確かです。部下の管理に問題があるのであれば、管理職から外せば問題の大半は解消されます。解雇すれば縫製の戦力が一人減り、補充に時間がかかります」

「……続けろ」


 ライアスの声のトーンが、少し変わった。


(聞く気になってくださった。この声のトーンの変化、知っている。ゲームの中盤以降に出てくる「主人公の言葉を正面から受け取ったときの声」だ。実際に聞くと、画面越しより、ずっと……)


「ダンカンについては別の話です。横領の疑いがある以上、照合の結果次第で解雇が妥当だと考えます。ただ、三人を同じ扱いにするのは問題の種類が違いすぎます。マーガさんには後進の育成という役割を。ヘルガさんは管理職から外して縫製の実務へ。ダンカンについては照合の結果が出てから、改めてご判断をいただければと」

「……なるほど」


 ライアスが言ったきり、また黙った。

 考えている。

 ノエルは待った。


(考え込んでおられる。その眉間の縦皺が……あ、今日の縦皺は怒り版とも不服版とも少し違う。これは思考版の縦皺だ。新種だ。新種が出た。今すぐメモしたい。してはいけない。しかしこの微妙な角度の差を記憶だけで再現できるか自信が……)


 グラントが静かに咳払いをした。


「……ノエル嬢」


 ノエルは我に返った。


「大変失礼いたしました」


 グラントの目が、無言で何かを語っていた。

「今あなたは執務室で遠い目をしていましたよ」という目だった。


「マーガさんとヘルガさんの配置転換については、具体的な方法をグラントさんと相談しながら進めたいと考えております」

「……そうしろ」ライアスが言った。「お前の提案を採用する」

「ありがとうございます」

「グラント、以後こういった問題は早めに上げろ。私が聞かなかったとしても」


 グラントが、一拍置いてから頷いた。


「……承知いたしました」


 その返答の中に、五十年分の何かが込められている気がして、ノエルは少し胸が締め付けられた。


     ◇


 翌日、ノエルはグラントと二人で倉庫に向かった。

 ダンカンへの事前連絡はあえてしていなかった。

 グラントの判断だった。


 倉庫の前に着いたとき、ダンカンがちょうど外に出てくるところだった。

 グラントを見た瞬間、ダンカンの顔色が変わった。


「ダンカン」グラントが静かに言った。「倉庫の確認をします。鍵を」

「……何の確認ですか」

「在庫の照合です。帳簿と実数を合わせます」

「今日は少し……整理中でして」

「今から入ります」

「その必要はないと思いますが」

「ダンカン」グラントの声が、わずかに低くなった。「鍵を」


 ダンカンがノエルに視線を移した。


「ベルナードさん、あなたが余計なことを言ったんですよね。来たばかりの人間が、何も知らないくせに」

「事実を報告しただけです」

「ふん」ダンカンが鼻で笑った。「わかってないですね。この公爵家の倉庫管理が今まで問題なく回ってきたのは、私がいたからですよ。備品の把握、在庫の管理、発注のタイミング。全部私の頭の中に入っている。私がいなければ、この屋敷の備品管理は一日で崩壊しますよ」

「……」

「グラントさんも、それはわかってるでしょう。私がいるから今まで助かってきた。そうでしょう」


 グラントは無表情だった。


「ダンカン、鍵を出しなさい」


 ダンカンは舌打ちをして、鍵を投げるように差し出した。


 照合は一時間かかった。

 数が、合わなかった。


 グラントは照合の間、一言も余計なことを言わなかった。

 ただ丁寧に、一つ一つ、記録していった。


 全て終わったとき、グラントはダンカンを見た。


「確認が取れました。閣下にご報告します。ダンカン、あなたには後ほど閣下から呼び出しがあります」


 ダンカンは黙っていた。

 しかしノエルが帳簿を持って部屋を出ようとしたとき、背中に声が飛んできた。


「……後悔しますよ。私なしで倉庫が回ると思ったら大間違いだ」


 ノエルは足を止めずに廊下へ出た。


(まあ、やってみます)


 心の中で静かに答えた。


     ◇


 その日の夕刻、ライアスがダンカンを呼んだ。

 ノエルも同席した。


 照合結果を前にして、ライアスは淡々と事実を確認した。


「帳簿と実数の差を、どう説明するか」

「……数え間違いかと」

「複数の備品で、同じ方向に差が出ている。数え間違いなら、増える場合も減る場合もあるはずだ」

「……」

「倉庫の鍵は常に一人で管理していた。他の使用人は入れなかった。それはなぜか」

「管理上の都合です。私がいなければ倉庫の管理が成り立たない。それくらい私の仕事は公爵家にとって重要なんです。そこはわかってもらわないと」

「重要であることと、鍵を一人で独占することは別の話だ」

「いえ、私がいたからこそ今まで問題なく回ってきたんです。それを急に外部の人間が来て、あれこれ口を出して……」

「備品の不足を、どう説明するか」


 ダンカンが黙った。

 沈黙が続いた。


 やがてダンカンは、観念したように息を吐いた。


「……少し、融通を利かせました」

「融通ではない。窃盗だ」

「窃盗!」ダンカンの声が、突然跳ね上がった。「窃盗とは言いすぎでしょう! 私がここで何年働いてきたと思ってるんですか! 閣下は我々のことを、ちゃんと見てくれたことがありましたか!」


 ライアスが黙った。


「見てくれませんでしたよね! 領地のことも、屋敷のことも、使用人のことも! 丸投げして、知らん顔して! そういう状況で私たちがどれだけ苦労して、必死にやってきたか、わかってますか!」

「……」

「そんな状況で少し余分にもらって何が悪いんですか! 誰も見ていない、誰も気にしない、私がいなければ回らない現場で、それくらいの融通は当然でしょう! 給料だって安い、評価もされない、感謝もされない! そのくらいの見返りがあって何が悪いんですか!」


 部屋が静かになった。

 ライアスは、無表情のまま最後まで聞いていた。

 ダンカンが言い終えて、少し肩で息をしていた。


 ライアスが口を開いた。


「お前の言うことは、一部正しい」


 ダンカンが、意外そうな顔をした。


「私が領地と屋敷から目を背けていたのは事実だ。その間、使用人たちが苦労してきたことも、評価が十分でなかったことも、否定しない」

「では……」

「それとお前が窃盗をしたことは、別の話だ」


 ダンカンの顔が歪んだ。


「他の使用人も同じ状況で働いていた。お前だけが特別に苦労していたわけではない。しかし窃盗をしたのはお前だけだ。なぜ他の者はしなかったのに、お前はしたのか。その違いがどこにあるか、わかるか」

「……」

「記録に残す形で解雇とする。横領した分は給与から差し引く。差額が出る場合は追って請求する。二日以内に公爵家の敷地から出て行け」

「二日!」ダンカンが声を荒げた。「長年働いてきた人間に、二日ですか! 酷いにもほどがある! 閣下がちゃんと見ていてくれれば、こんなことにはならなかったんだ! 責任はそっちにもあるでしょう!」

「ある」ライアスは静かに言った。「だから今、お前の言い分は全て聞いた。その上で判断した。二日だ」


 ダンカンは何か言いたそうにしていた。

 しかし言葉が出てこなかった。


 やがて、最後の悪足掻きのように、ノエルを見た。


「……あなたのせいですよ。あなたが来なければ、こんなことにはならなかった」

「違います」ノエルは静かに答えた。「あなたが持ち出したからです。私が来なくても、いつかは明らかになっていました」

「……っ」

「ダンカンさん」ノエルは続けた。「あなたが長年この屋敷のために働いてきたことは本当だと思います。ただ、その苦労を理由にして、他の人が怖いと言う職場を作っていたことと、備品を持ち出していたことは、正当化できません」


 ダンカンは何も言わなかった。


「下がれ」ライアスが言った。


 ダンカンは何も言わずに出ていった。

 扉が閉まった。

 部屋が静かになった。


 ライアスがグラントを見た。


「新しい管理担当を早急に立てろ。ベルナード嬢と二人で、倉庫と備品の管理体制を一から見直せ」

「かしこまりました」

「ベルナード嬢」

「はい」

「管理体制の見直しは優先的に進めろ。必要なものがあれば言え」

「かしこまりました」


 ライアスはノエルをしばらく見ていた。


「……よくやった」


 その一言が、静かに落ちてきた。


(よくやった、と言われた。推しに。直接。至近距離で)


 ノエルの脳内で、何かに着火する音がした。


(閣下の「よくやった」は声のトーンが低めで、言葉は短いのに重みがあって、しかも今日の閣下は終始あの無表情で、それでも一部正しいと言ったときの目が、何というか……その、ゲームでは画面越しにしか見られなかった、あの……)


(鼻血は、出さない。今日だけは絶対に出さない)


 鼻は、辛うじて堪えた。

 しかし。


 ライアスの「よくやった」の余韻が、脳内でじわじわと広がっていく中で、ノエルは気づかなかった。

 口元が、緩んでいたことに。

 完全に、緩んでいたことに。


 気づいたのは、グラントがそっと、しかし素早く、ノエルの前に白いハンカチを差し出したときだった。

 無言だった。

 一切の説明も、コメントも、表情の変化もなかった。

 ただ静かに、ハンカチが差し出されていた。


 ノエルは一秒固まった後、ハンカチを受け取り、口元を拭った。


「……大変失礼いたしました」

「いいえ」グラントは静かに言った。「お気になさらず」


 ライアスが、わずかに眉を動かした。

 何かを言いかけて、やめた。

 やめたことが、かえって優しかった。


(グラントさん……本当に良い家令だ……)


 ノエルは心の底から、そう思った。


 そして今夜の観察日誌の余白に何を書くか、廊下に出る前からすでに決まっていた。


     ◇


 その夜の観察日誌には、いつもより長い記録が残った。


「本日、閣下への報告、倉庫照合、ダンカン問題の決着まで立ち会った。閣下は当初三名全員の即時解雇を命じた。地頭は良いが人の機微に疎いところが完全にゲームの設定通りで、若干萌えた。諫言したら聞いていただけた。ありがとうライアス様。途中、思考版縦皺という新種の表情を発見した。詳細は別紙参照。なお報告中に遠い目をしてしまいグラントさんに咳払いで軌道修正していただいた。グラントさんには申し訳ないことをした。しかし後悔はない。閣下から直接『よくやった』と言われた。その余韻でヨダレが出た。グラントさんにハンカチをいただいた。鼻血は出なかった。ヨダレは出た。成長の方向性が若干おかしい気がするが、鼻血よりはマシと思うことにする。グラントさんは本当に良い家令だ。推しに仕える人間がこういう人で、本当に良かった」。


 別紙には、今日のライアスの表情が四パターン、丁寧に描かれていた。

 うち一枚には「思考版縦皺(新種・初記録)」と書き添えられていた。

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