個別に面談(ノエル視点)
【ノエル視点】
グラントとの協議から三日後、ノエルは各部署への聞き取りを始めた。
グラントが決めた順番は、厨房、洗濯・縫製部門、備品・倉庫管理の三つだった。
いずれも日常業務の基盤となる部署だ。堅実な選択だと思った。
ただ、グラントは出発前にひとこと添えた。
「ベルナード嬢、各部署には長年勤めている者がおります。やり方には、それぞれ理由がございます」
「承知しております」
「……うまくやってください」
その言葉の含みを、ノエルは正確に受け取った。
(つまり、一筋縄ではいかない、ということだ)
グラントの目が、微妙に「お手並み拝見」の色をしていた。
五十年の奉公人が、一ヶ月そこらの新入りをどこまで信頼できるか。
それを見極めようとしている目だ。
(それで構わない。私も信頼は実績で積み上げるタイプだ)
ノエルは小さく頷いて、厨房へ向かった。
ところで、ノエルの立場について、一つ重要なことがある。
公爵家の使用人たちは、ノエルが伯爵家の令嬢であることを知らない。
これはライアスとグラントが意図的に決めたことだった。
屋敷に引き抜かれた経緯を告げる際、グラントがこう説明した。
「閣下のご判断で、ベルナード嬢の身分については公表しないこととなっております。貴族の令嬢が、夫人でも婚約者でもないにもかかわらず公爵家の内部運営に関わるとなれば、使用人たちの動きが複雑になります。令嬢を前にして率直な意見を言いにくくなる者もおりますし、逆に身分を盾に取られても困る。閣下はその点を考慮されました」
「……閣下がそこまで考えてくださったんですか」
「はい。対外的には、有能な事務方として雇い入れた、とだけ伝えております」
(推しの気遣いが細やか過ぎて、若干昇天しそうになったが堪えた)
おかげで使用人たちはノエルを「ノエルさん」と呼び、身分の差を意識せず話してくれる。
それはノエルにとっても、仕事を進める上でありがたかった。
ただ、だからこそ、向こうも遠慮なく突っぱねてくる。
最初の壁は、厨房だった。
厨房には、バルトの下に数人の料理人がいる。
その中に、マーガという五十代の女性がいた。
仕入れの記録管理を担当しているらしく、長年の経験から仕入れ量の判断を全て頭の中でこなしている。
ノエルが「仕入れ記録を紙に残す仕組みを作りたい」と切り出したとき、マーガの反応は明快だった。
「必要ありません」
笑顔だった。笑顔で、はっきりと言った。
「私がここで働いて二十三年です。仕入れのことは全部ここに入っています」
自分のこめかみを人差し指でとんとんと叩きながら、マーガは続けた。
「あなたみたいな若い方がいくつ記録の紙を作っても、現場のことはわかりません。紙を作る手間が増えるだけです」
周りの若い料理人たちが、微妙な表情で視線を泳がせていた。
(ああ、この空気は知っている)
ノエルの脳内に、前世の記憶が滑り込んできた。
前世の職場にも、こういう人がいた。
経理部の先輩だった。
勤続十五年のベテランで、会社の経費処理のルールを全部自分の頭だけで管理していた。
新しいシステムを導入しようとするたびに「今のやり方で問題ない」と突っぱね、それを上司が止められなかった。
問題は、その先輩が突然体調を崩して一ヶ月入院したときに発覚した。
誰も経費処理ができなくなったのだ。
ノエルが一から全部調べ直して、一人で残業を続けた、あの一ヶ月を今でも覚えている。
(「私がいればいい」は、組織にとって最大のリスクだ)
しかし今は、そこまで踏み込む必要はない。
ノエルは笑顔を崩さずに言った。
「そうですね、マーガさんが全部把握されているのはよくわかります。二十三年の経験は、本当に貴重だと思います」
「当然です」
「ただ、一つだけ教えていただけますか」
「何を」
「マーガさんが急なご病気などでお休みになった場合、仕入れの判断は誰がされるんでしょうか」
マーガの笑顔が、一瞬だけ固まった。
「……私はそう簡単に倒れません」
「もちろんそう思います。ただ万が一の場合の話です。その場合、バルト料理長がご判断されるのでしょうか」
マーガの隣で、バルトが微妙な顔をした。
(バルトさんは仕入れの詳細を把握していない、ということだ)
ノエルは静かに続けた。
「記録を作ることは、マーガさんの仕事を否定することではありません。マーガさんが長年積み上げてきたノウハウを、形として残すということです。マーガさんが万が一いなくなったときに困るのは、厨房の皆さんであり、公爵家です。それを防ぎたいんです」
マーガはしばらく黙っていた。
「……私のやり方が間違っていると言いたいんですか」
「いいえ」ノエルははっきりと言った。「マーガさんのやり方は正しいです。二十三年間、それで回ってきた実績がある。ただ、それが紙になっていないだけです」
「紙にする必要はない、と言っています」
「なぜですか」
「私がいれば事足りるからです」
(そこだ)
ノエルは少し間を置いた。
「マーガさんはずっとここにいられますか」
「……何が言いたいんですか」
「二十三年後も、マーガさんはここで働いていますか。あるいは、マーガさんの次に仕入れを担当する人が、同じようにできますか」
マーガの表情が、わずかに揺れた。
「今日すぐに結論を出す必要はありません」ノエルは言った。「少し考えてみてください。私はマーガさんの仕事を奪いたいのではなく、マーガさんが積み上げてきたものを次の世代に残したい。それだけです」
その日、マーガからの返答はなかった。
しかし、若い料理人の一人が、帰り際にこっそりノエルに声をかけてきた。
「あの……ノエルさん」
「はい」
「仕入れのこと、私、ずっと教えてもらえなくて。マーガさんに聞くと『まだ早い』って言われて……」
その言葉で、ノエルは状況の全体像を掴んだ。
(なるほど。技術の囲い込みだ)
意図的かどうかはわからない。
しかし結果として、マーガ以外の誰も仕入れ判断ができない状態が二十三年続いていた。
◇
洗濯・縫製部門は、また別の種類の壁だった。
部門の取りまとめをしているのは、ヘルガという六十代の女性だ。
物腰は柔らかく、一見すると話しやすそうだった。
「あら、ノエルさん。何かご用ですか」
「シフトの調整について、少しお話を聞かせていただけますか」
「シフトですか」ヘルガは笑顔のまま言った。「特に問題はありませんよ。長年こうやってきましたから」
「重複している日と、手が足りていない日があるようで」
「あら、そうですか」
笑顔は変わらない。しかし目が、笑っていなかった。
「誰かそんなことを言っていましたか」
「いいえ、記録を見て気づきました」
「記録ですか」ヘルガは少し首を傾けた。「でも現場は私が一番よくわかっていますから、大丈夫ですよ」
(このタイプは、正面から話しても動かない)
ノエルは話題を変えることにした。
「ところで、ヘルガさんは長年ここで働かれているんですね。大変なこともあったのでは」
話題が変わった途端、ヘルガの表情が緩んだ。
「そうなんですよ、大変なことばかりで。特に若い子たちが……」
そこから、堰を切ったように話が出てきた。
聞きながら、ノエルは静かにメモを取った。
ヘルガの話の端々に、いくつかのことが見えてきた。
シフトの重複と空白の原因が、少しずつ見えてきた。
ヘルガは気に入らない部下のシフトを意図的に多く入れる。
繁忙日に集中させて、消耗させるのだ。
逆に自分は、都合の良い日だけ出てくる。
結果として、特定の使用人に負担が集中し、ヘルガの出勤日と休みの日で業務量が大きく変動するシフトが生まれていた。
また、新しく入った若い使用人に対して、細かいミスを他の使用人の前で大声で指摘する癖があった。
本人は「指導」と思っているが、当事者たちは萎縮していた。
それ以上に気になったのは、若い使用人の一人が「体調が悪くても休みを申請しにくい」と零したことだ。
理由を聞くと、「ヘルガさんに嫌みを言われるから」とだけ答えて、口を閉じた。
(前世でも見た光景だ)
ノエルは内心で静かに息を吐いた。
前世の職場にも、ヘルガに似た人がいた。
庶務担当の年配の女性で、自分の気に入らない相手には仕事の情報を渡さず、ミスをした若手を全員の前で詰める人だった。
ノエル自身も、その人に何度かターゲットにされたことがある。
書類の場所を教えてもらえなかった。
会議の変更を伝えてもらえなかった。
それを上司に報告すると「あなたの確認不足でしょ」と言われた。
あのときの理不尽な悔しさは、今でも少し、胸の奥に引っかかっている。
(だから、こういう状況は放置できない)
ただ、感情で動くつもりはなかった。
今日は聞くだけでいい。
処分はノエルが決めることではない。
必要な情報を集めて、正しい人に、正確に伝える。それだけだ。
◇
備品・倉庫管理の担当は、ダンカンという四十代の男性だった。
最初から敵意が見えていた。
「何が問題なんですか」
ノエルが部屋に入った瞬間、そう言われた。
「改善したいと思ったら問題があるってことでしょう。私のやり方の何が悪いんですか」
「悪いとは言っていません。確認させてください、と申し上げました」
「同じことです」
(直接的だ)
ノエルはこの手の人の扱いを知っていた。
前置きや遠回しな表現が逆効果になるタイプだ。
「では直接お聞きします。備品の保管場所が担当者によって違うのは、何か理由がありますか」
「私が決めたことです」
「なぜそう決めたのかを教えていただけますか」
「使いやすいからです」
「誰にとって使いやすいですか」
ダンカンが黙った。
「私にとって、です」
少なくとも、正直だった。
「ダンカンさんが使いやすい配置と、他の方が使いやすい配置は、一致していますか」
「私が管理しているんだから、私が使いやすければいい」
「ダンカンさんがいないときに備品を探した方が困っている、という話を聞いたのですが」
ダンカンの目が、すっと細くなった。
「誰がそんなことを言いましたか」
その問いの温度が、一度下がった。
(この問い方は、情報源を特定して後で圧力をかけるためのものだ)
「特定の方からではなく、複数の方から同様の話を伺いました」ノエルは答えた。「ダンカンさん個人を責めているのではなく、仕組みとしての問題を確認したいんです」
「仕組みを変えるつもりですか」
「ご提案はします。最終的に決めるのはグラントさんと閣下です」
ダンカンはしばらく黙っていた。
「……好きにしてください」
話は終わった。
しかし帰り際、廊下で若い使用人が小走りで追いかけてきた。
「あの、ダンカンさんのこと……」
その使用人は、声を潜めながら話した。
備品を探せなかった使用人が、ダンカンに聞くと「そんなことも知らないのか」と言われること。
ミスをすると、他の使用人たちの前で長々と責め立てられること。
ダンカンが気に入らない使用人には、必要な備品の情報が回ってこないこと。
さらに、倉庫の鍵を自分一人で管理しており、ダンカンがいないと倉庫に入れない状況が常態化していること。
「……私、ここで働くのが怖いときがあります」
その言葉が、静かに刺さった。
さらに一拍おいて、その使用人は続けた。
「あと……たまに、備品の数が合わないことがあって。私が数え間違いをしたってダンカンさんに言われるんですけど、何度確認しても合わなくて……」
(備品の数が合わない)
ノエルは表情を変えずに頷いた。
しかし脳内では、一つのフラグが静かに立ち上がった。
(これは、単なるハラスメントだけの問題ではないかもしれない)
◇
その夜、ノエルはメモを整理した。
三部署、三人。それぞれ問題の質が違う。
マーガは悪意がない可能性が高い。
ただ「自分がいれば事足りる」という思い込みが、結果として技術の囲い込みになっている。
本人が自覚していないだけに、むしろ対処しやすい部類だ。
ヘルガは無意識かもしれないが、シフトの恣意的な操作と、部下への見せしめ的な叱責が職場環境を悪化させている。
体調不良でも休みを申請しにくい環境は、長期的に人材を潰す。
ダンカンは最も深刻だ。
情報の囲い込みが意図的で、鍵の独占管理がある。
そして備品の数の不一致という、見過ごせない問題が浮上している。
(ダンカンについては、もう少し丁寧に確認が必要だ)
ノエルは正直にそう思っていた。
三人とも、クビにすればいいとは思わない。
マーガには後進の育成を担当させればいい。
二十三年の経験を若い料理人に伝えることが、彼女の新しい役割になりえる。
ヘルガは配置転換が必要かもしれない。
部下を持つポジションから外して、縫製の腕そのものを活かせる仕事に移す。
対人管理ではなく、手仕事に集中させる。
ダンカンについては、備品の不一致という問題を含めてグラントに判断を委ねるべきだ。
(ここから先は、私の権限ではない)
ノエルは翌朝、グラントに時間をもらうことにした。
◇
翌朝、ノエルはグラントに一時間かけて、全ての情報を伝えた。
感情を入れず、事実だけを並べた。
誰がどういう発言をして、どういう状況があるか。
具体的に、正確に。
そして最後に、備品の数の不一致についても、淡々と報告した。
グラントは黙って聞いていた。
全て話し終えると、長い沈黙があった。
「……把握していた部分と、把握できていなかった部分がございます」
「はい」
「ヘルガについては、以前から懸念を持っておりました。ただ、動かす理由として十分な根拠がありませんでした」
「今は、あります」
「……左様でございますね」
グラントは少し考えてから、続けた。
「ダンカンについては……備品の不一致は、私も把握できておりませんでした」
その言葉に、わずかな重みがあった。
五十年の奉公人が、見落としていたことへの、静かな自責がにじんでいた。
「グラントさん」ノエルは言った。「これはグラントさんの失態ではありません。ダンカンさんが鍵を一人で管理していた以上、外から確認できなかったのは当然です」
「……」
「ただ、確認は必要だと思います。数の不一致が単純なミスか、それとも別の問題があるのかは、帳簿と実数を照合しなければわかりません」
「閣下にご報告する必要がありますね」グラントは静かに言った。
「はい。人事については閣下のご判断が必要かと思います。備品の不一致については、特に」
「ベルナード嬢はどう思われますか」グラントが静かに聞いた。「率直に」
ノエルは少し考えた。
「マーガさんは、後進の育成という役割を与えれば、良い仕事をされると思います。ヘルガさんは、部下を持つポジションから外した方が、本人にとっても周りにとっても良いと思います。縫製の腕は確かですから、そちらで活かせる場があれば」
「ダンカンは」
「帳簿と実数の照合結果を見てから、判断していただいた方がいいと思います。もし不正がなければ配置転換で対処できるかもしれません。ただ、もし不正があれば……それは私が判断できる領域ではありません」
「……そうですね」
「ただ」ノエルは続けた。「これは私の感想です。最終的な判断はグラントさんと閣下がされるべきだと思っています。私は情報を集めて整理することしかできません」
グラントは静かに頷いた。
「……ベルナード嬢」
「はい」
「一つ、教えてください」グラントは言った。「あなたは、なぜそこまで丁寧にやるのですか。もっと手短に済ませることもできたはずです」
ノエルは少し間を置いた。
「実家の伯爵家で、四年ほど事務を手伝っておりました」
「左様でございますか」
「小さな領地ですが、使用人も領民もいます。似たような問題が、伯爵家でもありました」
「……どのような」
「情報を渡してもらえなかったり、ミスを皆の前で責め立てられたりして、萎縮してしまう者がいました。相談しても『あなたの確認不足でしょ』と言われて終わりになることが多くて」ノエルは少し間を置いた。「そのとき、誰かが早めに動いてくれていれば、もっと楽になれた人がいたと思います」
グラントが、静かにこちらを見た。
「だから」ノエルは続けた。「怖いと言っている人を、見て見ぬふりはできません。ただ感情で動いたら判断を誤ります。だから丁寧にやることにしています」
長い沈黙があった。
「……わかりました」グラントは静かに言った。「閣下へのご報告は、私が行います。ベルナード嬢にまとめていただいた資料を持って」
「ありがとうございます」
「ただ」グラントは立ち上がりながら言った。「ベルナード嬢も同席してください。閣下は直接確認を取られると思いますので」
「かしこまりました」
グラントが扉に手をかけたとき、ノエルは思い切って言った。
「グラントさん」
「はい」
「今まで、一人で抱えてこられたんですね」
グラントは少し止まった。
「……ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではありません」ノエルははっきりと言った。「グラントさんがいなければ、この屋敷はとっくに立ち行かなくなっていたと思います」
グラントは何も言わなかった。
ただ、扉を開けて出ていく前に、ほんのわずかだけ、頭を下げた。
その仕草が、前世の上司には決してなかった類のものだったので、ノエルは少しだけ、胸の奥が温かくなった。
その夜の観察日誌の余白には、こう書いた。
「本日、三部署の聞き取り完了。グラントさんへ報告済み。近くライアス様への報告が予定されている。推しへの直接報告案件が発生した。有能な事務員として臨む。鼻血は出さない予定だが、ダンカン案件次第ではライアス様が動かれる可能性があり、その場合の閣下の表情次第では保証できない」。




