ライアスのいない公都(ノエル視点)
【ノエル視点】
ライアスが出陣して、数日が経った。
朝、執務室の机の上に、一通の手紙が置かれていた。
グラントが届けてくれたものだった。
「閣下からでございます」
ノエルは手紙を手に取った。
封を開けた。
中身は短かった。
「移動は順調だ。領地に変わりはないか。以上」
(以上って言ってる)
(戦場に向かう手紙が、以上、で終わっている)
(閣下らしいといえば、閣下らしい)
(閣下らしいが、もう少し何か書けないのか)
ノエルは手紙を机の引き出しにそっとしまった。
仕事を始めながら、ふと気づいた。
しまった手紙を、また取り出していた。
もう一度読んだ。
内容は変わらなかった。
(わかってた)
またしまった。
◇
それから数日後のことだった。
グラントが新聞を持ってきた。
「王国軍が隣国と交戦に入ったとのことです」
ノエルは新聞を受け取った。
(始まった)
ノエルは新聞を置いた。
頭の中で、ゲームの知識を引き出した。
(ライアスもアルベルトも、この戦争では生き残る。ゲームの開始時期は、この戦争の後だ。それは確かだ)
(でも、ゲームと展開が変わっている)
(変わっているから、何が起きるかわからない)
わかっている。
それはわかっている。
しかし、不安が消えなかった。
「ベルナード嬢」
グラントが静かに言った。
「はい」
「閣下は必ずお帰りになります」
ノエルはグラントを見た。
グラントはいつも通りの顔をしていた。
しかしその目が、珍しく、少しだけ、遠くを見ていた。
(グラントさんも、心配している)
(ただ、それを表に出さない)
「はい」
ノエルは答えた。
「そうですね」
二人とも、しばらく黙っていた。
◇
午後の仕事を一段落させた頃、バルトが厨房から顔を出した。
「ベルナード嬢、少し食べていけ」
「え、でも」
「戦が始まったと聞いた。腹が減っては仕事もできん」
バルトが、テーブルに小皿を置いた。
パンケーキだった。
「……ありがとうございます」
「閣下は強い。そう簡単にやられん」
バルトが腕を組んだ。
「俺は長年あの方の飯を作ってきた。あの方がどれほどの人間か、ちゃんと知っている」
ノエルはパンケーキを食べた。
甘さとしょっぱさが、口の中で広がった。
最初にバルトと一緒に作った、あの味だった。
ライアスが伝言をくれた、あの朝の味だった。
(閣下)
ノエルは静かにそう思いながら、パンケーキを食べた。
ミルダも顔を出した。
「ベルナード嬢、お疲れが出ていませんか」
「大丈夫です」
「無理しないでくださいよ」
ミルダが穏やかに言った。
「私たちも、ここで待っています。一緒に」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
(みんな、待っている)
(私だけじゃない)
ノエルは深呼吸をした。
仕事に戻った。
◇
翌日のことだった。
「孤児院の様子を見てきます」
ノエルはグラントに言った。
「かしこまりました」
グラントが答えた。
「クラウスに同行してもらってください」
「一人で大丈夫ですよ」
「ベルナード嬢」
グラントが静かに言った。
「閣下がご不在の間は、外出の際は必ず護衛をつけてください。これは閣下のご指示でもあります」
「……かしこまりました」
クラウスが準備をしながら、小声でノエルに言った。
「俺も同行した方がいいと思いますよ、ほんとに。ノエルさんに何かあったら、閣下、戦場にいても帰ってくるかもしれないですよ」
「まさか、そんなことないですって」
ノエルはあっさりと受け流した。
クラウスがグラントを見た。
グラントがクラウスを見た。
二人とも、微妙な表情でノエルを見つめた。
ノエルは気づかなかった。
「……行きましょう、クラウス」
「……はい」
◇
孤児院に着くと、カルロスが入口に立っていた。
「来たか」
「様子を見に来ました。皆、どうですか」
「変わりない」
カルロスが短く言った。
「子供たちは元気だ」
少し、間があった。
「……戦が始まったと聞いた」
カルロスが続けた。
「公爵はどうしている」
「出陣されました。今は戦場にいます」
カルロスが、左の袖が折り畳まれた腕を見た。
「俺も、戦場にいたことがある」
カルロスはそれ以上は言わなかった。
しかしその顔が、少し、遠くを見ていた。
(カルロスさんも、心配している)
(言葉にはしないが、している)
イルマが奥から顔を出した。
「ノエルさん、よかった。今日はゆっくりしていってください。ちょうど昼ごはんの準備をしていたところで」
「お邪魔でなければ」
「邪魔なわけないでしょう」
イルマが笑った。
「子供たちも喜びます」
レントが書類仕事をしながら、ノエルを見た。
「戦が始まったと聞いた」
「はい」
「公爵は以前から、王国内でも指折りの戦力と呼ばれていた」
レントが静かに言った。
「騎士団にいた頃、そういう話が回ってきたことがある。そう簡単にやられる人間じゃない」
それだけ言って、また書類に目を戻した。
素っ気なかった。
しかしその言葉が、妙に、胸に響いた。
(レントさんも、心配している)
(ただ、こういう形でしか言えない)
子供たちが、ノエルを見つけて走ってきた。
「ノエルさんだー!」
「ごはん一緒に食べていって!」
「今日はイルマさんのスープだよ!」
ノエルはしゃがんで、子供たちを受け止めた。
◇
昼食の後、ノエルは外の日向で、レイと並んで座っていた。
レイは特に何も言わなかった。
ノエルも、しばらく黙っていた。
しばらくして、レイが言った。
「……あいつは」
「ん?」
「あいつは、無事に帰ってくるか」
あいつ、という言葉だった。
声のトーンが、いつもより、少し低かった。
心配している声だった。
クラウスが横から口を挟んだ。
「レイ、もう公爵様って知ってんだろ。あいつ呼びはさすがにまずいだろ」
「……うるさい」
「いやほんとに、さすがに」
「うるさいって言ってる」
レイが顔を背けた。
しかし耳が、少し赤かった。
(レイが、心配している)
(あいつ呼びのままだが、心配している)
ノエルは少し、前を向いた。
「きっと帰ってきます」
レイがノエルを見た。
「根拠は」
「約束してくれたから」
ノエルは答えた。
「あの人は、一度した約束を守る人です。それは、私が一番よく知っています」
レイが、少し黙った。
「……そうか」
それだけ言って、また前を向いた。
しかしその横顔が、少しだけ、柔らかくなっていた。
(レイも、信じている)
(言葉にはしないが、信じている)
ノエルはそれを見ながら、静かに思った。
(私も、信じている)
(信じると決めた)
(だから、ここで待つ)
◇
屋敷に戻った夜。
ノエルは机に向かった。
引き出しから、白い紙を取り出して、羽ペンを手に取った。
しばらく、紙を見た。
それから、書き始めた。
「閣下へ」
次の言葉を考えた。
色々と浮かんだ。
ライアスの馬上姿が格好よかったこと。
ノエル人形という言葉がまだ頭から離れないこと。
孤児院でレイが心配していたこと。
レントが公爵の評判を話してくれたこと。
バルトのパンケーキが、あの朝の味がしたこと。
全部、書こうとした。
しかし、書けなかった。
一つひとつが、書こうとすると、うまく言葉にならなかった。
ノエルは少し考えた後、書いた。
「領地は問題ありません。使用人たちも、孤児院の皆も、元気にしております。閣下のことを、皆が心配しております。私も、心配しております」
少し、止まった。
それから、もう一行書いた。
「必ずお帰りください。お待ちしております」
ペンを置いた。
紙を見た。
少し、照れくさかった。
(これを閣下が読む)
(あの無口な閣下が)
(この手紙を)
ノエルは顔を両手で覆った。
(送る)
(送るが)
(閣下の返事は、また短い一文かもしれない)
それを思ったら、少し、笑えた。
笑いながら、封をした。
机の上に置いた。
明日、グラントに渡して、郵送してもらおう。
ノエルは観察日誌を開いた。
いつものように、書き始めた。
しかし今日は、書き出しが少し違った。
「本日の報告。戦争が始まった。閣下は今、戦場にいる」
一行空けて、続けた。
「いつもなら、ここに尊い何々版と書くところだが、今日は少し違う気持ちで書いている。理由はわからない。ただ、はやく帰ってきてほしいと思っている。それだけだ」
もう一行、書いた。
「ライアス人形を作ったのは正解だった。閣下が持っていってくれた。それだけで、少し、安心した。なぜ安心したのかは、よくわからない。よくわからないが、安心した」
ペンを置いた。
窓の外を見た。
夜の公都が、静かだった。
(閣下)
ただそれだけを、心の中で思った。
返事はなかった。
当たり前だ。
しかしノエルは少し、笑った。
その笑い方が、推し活の笑い方とは、だいぶ違うことに。
本人は、まだ気づいていなかった。




