公爵家の改革(ノエル視点)
【ノエル視点】
朝のランニングを終えて汗を拭いながら、ノエルは廊下を歩いていた。
早朝の公爵邸は静かだ。
使用人たちがそれぞれの持ち場で動き始める、その少し前の時間。
この時間帯が、ノエルは好きだった。
好きだった、のだが。
(……おかしい)
ノエルは立ち止まった。
廊下の突き当たり、備品庫の前に、二人の使用人が立っていた。
若い方が何かを抱えており、もう一人の年配の使用人が首を振っている。
「だから、それは東棟の備品庫に戻してと言っているんです」
「でも昨日は西棟に入れるよう言われましたよ」
「昨日と今日で担当が違うんだから、やり方も違って当然でしょう」
二人は小声で言い合いながら、どちらも動けずにいた。
(あー……)
ノエルはそっとその場を離れた。
責めるつもりはない。二人とも悪くない。
ただ、備品の管理ルールが担当者によって異なっているという事実が、静かにそこにあった。
自室に戻りながら、ノエルは脳内でメモを走らせた。
(備品管理、要確認。統一ルールが必要)
一週間前から、ノエルはひそかに屋敷の中を観察し始めていた。
観察日誌は推しのためのものだが、業務用のメモは別に存在する。
前世の癖で、気になることは全て書き留める。
書き留めた内容は、すでに相当な量になっていた。
厨房の仕入れは料理長のバルトが独自の判断で行っており、記録が口頭ベースで引き継がれている。
洗濯担当の使用人は三人いるが、シフトの重複と空白が同時に発生している。
来客記録は担当の使用人が個別に手控えを持っているが、形式が統一されておらず、後から参照しにくい。
備品の管理場所が担当者によって異なる。
どれも致命的な問題ではない。
しかし積み重なると、無駄が生まれる。人が疲弊する。小さなトラブルが連鎖する。
(グラントさんは、これを全部把握した上で回してきたんだ)
ノエルは率直にそう思っていた。
明文化されたルールがない状態で、これだけの規模の屋敷を回してきたということは、グラントをはじめとするベテランの使用人たちが、長年の経験と記憶でカバーしてきたということだ。
それは、すごいことだ。
本当に、すごいことだ。
(だからこそ、難しい)
ノエルは羽ペンを手に取った。
今日、グラントに話を持っていくつもりだった。
◇
グラントを捕まえたのは、昼前のことだった。
「少しよろしいでしょうか、グラントさん」
「はい、何でしょう」
グラントはいつも通りの、穏やかで揺るぎない表情だった。
この人の表情は、本当に読みにくい。
五十年の奉公が、感情を完璧に制御する術を身につけさせたのだろう。
「屋敷の運営について、少し確認させていただきたいことがあって」
「左様でございますか」
グラントは静かに頷いた。その目が、ほんの少しだけ、注意深くなった気がした。
「今すぐでなくて構いません。お時間のある際に、三十分ほど時間をいただけますか」
「……本日の夕刻以降でしたら」
「ありがとうございます。では夕刻に」
◇
夕刻、グラントが小部屋を訪ねてきた。
ノエルはすでに、手書きでまとめた紙を数枚用意していた。
「お時間をいただきありがとうございます」
「いえ」グラントは椅子に腰を下ろした。「それで、確認とは」
「はい」ノエルは紙を一枚、グラントの前に置いた。「先週から一週間、屋敷の中を少し観察させていただきました。気になった点をまとめたものです」
グラントが紙を手に取った。
静かに、しかし丁寧に、目を通していく。
ノエルはその間、余計なことを言わずに待った。
グラントが紙を置いた。
「……拝見しました」
「いかがでしょうか」
少しの間があった。
「正確です」グラントは静かに言った。「書かれていることは、全て事実です」
「はい」
「私も、把握していたことです」
その言葉に、ノエルは頷いた。
「存じておりました。グラントさんがご存知ないはずがないと思っておりましたので」
グラントが、わずかに目を細めた。
「では、なぜ」
「改善の提案をしたいのではなく」ノエルは言葉を選んだ。「グラントさんのお考えをお聞きしたかったんです」
「……私の、考えを」
「はい。これらの問題点を、グラントさんはどう見ておられるか。改善したいとお考えでしたか、それとも現状で十分と判断されていましたか」
グラントはしばらく黙っていた。
「……現状で十分とは、思っていませんでした」
「そうですか」
「ただ」グラントは続けた。「閣下が領地経営に関心を持たれる時期がなく、私一人で動くには限界がありました。優先順位をつけた結果、改善が後回しになっていた部分もございます」
(ライアス様が、領地から逃げていた頃の話だ)
ノエルは胸の奥で静かに思った。
ゲームの世界線では、ライアスは両親を亡くして間もなく戦場へ向かった。
グラントたちは、当主不在のまま、公爵家を守り続けていた。
(それで、どれだけ大変だったか)
「グラントさん」ノエルは言った。「一つ、お聞きしてもいいですか」
「はい」
「この屋敷が今もちゃんと動いているのは、グラントさんをはじめとする皆さんが、長年かけて積み上げてきたものがあるからだと思っています。私はそれを否定したいわけでも、変えたいわけでもありません」
グラントが、静かにこちらを見た。
「私がしたいのは、その積み上げてきたものを、もっと使いやすい形に整えることです。グラントさんたちが頭の中で管理してきたことを、紙の上に移す。それだけです」
「……紙の上に移す」
「はい。グラントさんが異動になっても、新しい人が入っても、誰でも同じように動ける状態にする。それが目的です。グラントさんの仕事を奪いたいのではなく、グラントさんが今まで一人で抱えてきた部分を、屋敷全体で分担できるようにしたい」
グラントはしばらく、何も言わなかった。
長い沈黙だった。
ノエルは待った。
「……一つ、お聞きしてもよいですか」グラントがゆっくりと言った。
「もちろんです」
「ベルナード嬢は、私がこれまでのやり方に固執していると、お思いですか」
ノエルは少し考えた。
「固執している、とは思っていません」ノエルは答えた。「ただ、変化には不安があると思います。それは当然のことです。特に、長年うまく回してきた方ほど」
「……」
「それに」ノエルは続けた。「グラントさんが不安に思われることは、正しい感覚だと思います。私が提案することが、全て正しいとは限りません。現場を知らないまま紙の上だけで考えた改善案には、必ず穴があります」
グラントが、わずかに表情を動かした。
「だから」ノエルは言った。「グラントさんに間違いだと思ったら、言ってほしいんです。遠慮なく」
「……遠慮なく、とは」
「はい。私の案に問題があれば、はっきりおっしゃってください。私もグラントさんの経験から学びたいと思っています。逆に、私が気づいたことで改善できる部分があれば、ご提案させてください。どちらが上でも下でもなく、屋敷を良くするために一緒に考えたい」
また、沈黙があった。
今度は、少し短かった。
「……ベルナード嬢」
「はい」
「一つだけ、申し上げてもよいですか」
「もちろんです」
グラントは、今日初めて、少しだけ表情を崩した。
崩した、というより、緩んだ、という方が近かった。
「先代公爵がご存命の頃、私はよく叱られました。『グラント、お前は正しいことをしているが、なぜ一人で抱えようとする』と」
「……」
「私は、人に任せることが苦手です。自分でやった方が早いと、思ってしまう性分で」
「そうですか」
「その癖が、今の状態を作った一因でもあります」グラントは静かに続けた。「ベルナード嬢の言う通り、頭の中に入っていることを紙に移すべきだと、私自身も思っていました。ただ、一人では動けなかった」
(グラントさん……)
ノエルは胸の奥が温かくなるのを感じた。
この人は、ずっと一人で抱えてきたんだ。
当主が逃げている間も、先代から引き継いだものを守るために、全部自分の中に収めて、回してきた。
「グラントさん」ノエルは言った。「一緒にやりましょう」
「……左様でございますか」
「はい。私が紙に書き出す作業をします。グラントさんに確認していただいて、間違いや現場と合わない部分を教えてください。最終的にグラントさんが納得できる形にならなければ、採用しなくて構いません」
グラントは少し考えた後、静かに頷いた。
「……わかりました」
「ありがとうございます」
「ただ」グラントは言った。「一つだけ条件がございます」
「なんでしょうか」
「進める順番は、私が決めさせてください。現場への影響が少ない部分から手をつけたい」
(それは当然だ。現場をいちばんわかっているのはグラントさんだから)
「もちろんです。全面的にお任せします」
グラントが、今日二度目の、しかし今度はもう少しはっきりとした表情の変化を見せた。
「……では、明日から始めましょうか」
「はい。よろしくお願いします」
◇
グラントが退室した後、ノエルは一人で小部屋に残った。
窓の外はもう暗くなっていた。
(よかった)
単純に、そう思った。
グラントは頑固な人だと思っていた。
実際、頑固な部分はある。
しかし、それ以上に、誠実な人だった。
間違いは間違いだと認められる人。
変化を恐れながらも、必要だとわかれば動ける人。
そして、長年仕えてきたこの屋敷を、心から大切に思っている人。
(この屋敷が今もちゃんとあるのは、グラントさんのおかげだ)
ノエルはそろばんをしまいながら、今夜の観察日誌に何を書くか考えた。
推しの観察記録ではなく、今日の業務記録を書くことにした。
珍しいことだったが、今日はそういう気分だった。
紙を広げて、書き始めた。
「本日、グラント家令と協議。屋敷改革の方針について合意。進める順番はグラント氏が決定する。私の役割は提案と書き出し、グラント氏の役割は確認と判断。良い分担だと思う」
少し考えてから、一行付け足した。
「なお、会話の中でライアス様の領地経営への態度が話題に上った。ゲームの世界線との一致を確認。ただし現状は改善に向かっている。問題ない」
さらに一行。
「グラントさんは、本当に良い人だ。推しに仕える人間がこういう人で、良かった」
ノエルは羽ペンを置いて、小さく息をついた。
明日から、本当の意味での改革が始まる。




