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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果
第二章 隣国との戦争

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洗練された上品な笑顔(ノエル視点)

【ノエル視点】


 エリナ・フォルセアが公爵邸に滞在して、三日が経った。

 出陣まで、あと一週間ほどだった。


 ノエルは毎日通り、書類整理と引き継ぎ作業を続けていた。

 エリナとは、廊下ですれ違う程度の接触しかなかった。


 すれ違うたびに、エリナは上品な笑みを向けてきた。

 ノエルもにこやかに会釈を返した。

 表向きは、穏やかな関係だった。


(穏やかに見えるが、全然穏やかじゃない気がする)


 ノエルは書類を抱えながら、廊下を歩いていた。


(エリナは毎回、笑顔で上品に話しかけてくる。しかしその目が、毎回何かを測っている。ゲームのエリナそのままだ)

(まあ、私はヒロインではないので、本格的に何かしてくることはないはずだが)


 そう思いながら執務室に向かっていると、ライアスの執務室の前で、エリナとグラントが話しているのが見えた。


 グラントがノエルに気づいて、手招きした。


「ベルナード嬢、ちょうど良かった。先ほどの収支の件について、閣下に説明していただけますか」


「かしこまりました」


 ノエルは執務室に入った。

 ライアスが執務机の前に座っていた。

 エリナも入室した。


「先日ご報告した、領地の収支改善の件ですが」

 ノエルは書類を広げた。

「昨年比で、こちらの部署の支出が十五パーセント削減できております。来月以降はさらに」


「よくまとまっている」

 ライアスが書類を見ながら言った。


 そのとき、エリナが口を開いた。


「まあ」


 声のトーンは穏やかだった。

 笑みも完璧だった。


「これほどの書類を、事務の方がおまとめになったのですか」


 事務の方が、という部分に、ほんのわずかな間があった。


「ご苦労なことですわね」


 ご苦労、という言葉が、柔らかく、しかし確実に落ちた。


(来た)

(事務員の分際で、という意味を、上品な言葉で包んでいる)

(ご苦労、という言葉の選び方が絶妙だ。目上が目下をねぎらう時に使う言葉だ)

(しかしライアスとグラントの前では、表向きは褒めているように聞こえる)

(さすがゲームの悪役令嬢だ。やり口が洗練されている)


 ノエルは特に気にしなかった。


「ありがとうございます。事務の仕事ですので」


「ええ」

 エリナが続けた。

「ただ、このような数字の報告は、本来家令の方がなさるものではなくて?」


 グラントを見た。

 視線が、一瞬だけ、値踏みするような色を帯びた。


「グラントさんほどのお立場の方のお仕事を、事務の方が代わりにされているというのは、少し……不思議に思いまして」


 不思議、という言葉を、エリナは上品に微笑みながら言った。

 その目だけが、笑っていなかった。


(不思議、か)

(つまり、分を越えているのではないか、という意味だ)

(ライアスとグラントの前で、これを言ってくる)

(顔は笑顔のまま、声のトーンも穏やかなまま)

(完璧だ。本当に完璧だ)

(ゲームの攻略本にも「表向きは完璧な令嬢」と書いてあったが、現実で見るとより一層タチが悪い)


 グラントが静かに口を開いた。


「ベルナード嬢には、私がこれまで長年担ってきた業務を、はるかに超える精度でこなしていただいております。私の指示でお任せしている次第です」


「まあ」

 エリナが少し、目を細めた。

「それほどの方が」


「はい」

 グラントは表情を変えずに言った。

「公爵家にとって、なくてはならない方でございます」


 エリナが、わずかに止まった。

 笑顔は崩れなかった。


「そうですか。頼もしいですわね」


(グラントさんが、さらりと返した)

(グラントさんはいつも通りの顔をしている)

(しかしあの返し方は、完全に意図的だ)

(五十年の奉公人は伊達じゃない)


「ああ」

 ライアスが書類から目を上げずに言った。

「頼りにしている」


 それだけだった。

 しかしその一言が、静かに部屋に落ちた。


 エリナが、わずかに、ライアスを見た。

 笑顔のまま、しかしその目の奥に、何かが揺れた気がした。


(ライアス様の言葉が、エリナの想定外だったのかもしれない)


 ノエルはそれを横目で確認しながら、書類の説明を続けた。



 翌日のことだった。


 ノエルが廊下を歩いていると、エリナが反対側から歩いてきた。


「ノエルさん」


 声をかけてきた。


 周囲に、使用人が二名いた。


(人がいる場所を選んできた)

(ゲームのエリナのやり口だ)


「はい」


「昨日の収支の件、拝見しておりまして」

 エリナが続けた。

「少し気になった点がありまして」


「何でしょうか」


「整理の方法なのですが」

 エリナが上品に笑った。

「我が家では、まず大きな項目から分類して、細部は後からまとめる方法を使っておりますの。フォルセア家では代々そのやり方で、王都の複数の屋敷を管理してきました」


 フォルセア家では代々、という部分を、エリナはさりげなく強調した。


「公爵家ほどの規模でしたら、そちらの方が適切かと思いますわ。今のやり方では、少し……素朴すぎるかもしれませんね」


 素朴、という言葉を、エリナは微笑みながら言った。

 使用人二名が、視線を逸らした。


(素朴、か)

(つまり、洗練されていない、という意味だ)

(フォルセア家では代々、という言葉で家格の差も滲ませた)

(しかも使用人がいる前でやった)

(完璧なタイミングだ)

(ゲームの攻略本に「立場と家格を使った圧力が得意」と書いてあった通りだ)


 ノエルは少し、考えた。

 考えた結果。


「大きな項目から分類する方法は、確かに初期の把握には向いています」

 ノエルは答えた。

「ただ、公爵家の場合、部署が多く、複数部署にまたがる支出が頻繁に発生します。細部を後回しにすると、そこで漏れが出やすくなります。なので細部から積み上げる方法を選びました」


「……」


「フォルセア家のやり方が間違いというわけではございません。規模と構造によって、向き不向きがあるかと思います」


 エリナが、一瞬だけ、止まった。

 笑顔は崩れなかった。

 しかし目が、予想外のものを見たときの動きをした。


「……そうですか」

 エリナは言った。

「参考になりましたわ」


「お役に立てて光栄です」


 ノエルは一礼して、歩き出した。

 廊下を曲がったところで、ノエルは少し首を傾げた。


(なんか、変な間があった気がする)

(素朴すぎると言われたので、理由を説明したのだが)

(何か変なことを言っただろうか)

(まあ、気のせいかもしれない)


 ノエルはそのまま書類整理に戻った。



 さらに翌日のことだった。


 ライアスとグラントとノエルが揃って、出陣後の領地運営について話し合っていた。


 そこへ、エリナが書類を持って入ってきた。


「閣下、出陣の準備について一点確認させていただいてもよろしいでしょうか」


「構わない」


 エリナが入室した。

 話し合いの場に、自然に加わった形になった。


 エリナが地図を広げながら、ライアスに向かって言った。


「補給路の件なのですが」

 エリナは地図の一点を示した。

「こちらのルートでは迂回が多く、兵の負担が増えます。我が家の騎士団では長年このルートを使っておりまして、効率が格段に上がります」


 我が家の騎士団では長年、という部分を、エリナは自然な口調で言った。

 しかし意味は明確だった。

 騎士団の運営を代々担ってきたフォルセア家の知見、という意味だ。


「なるほど」

 ライアスが地図を見た。


 エリナがノエルをちらりと見た。

 その目が、一瞬だけ、どうだ、という色を帯びた。


(来た)

(今度は私の前で、自分の家格と実績を使ってきた)

(騎士団長の家柄、長年の知見、それをライアス様の前で示した)

(ゲームのエリナの三つ目のやり口だ)


 ノエルは地図を見た。

 見た瞬間、少し止まった。


(このルートは)


 ノエルは頭の中で、先月上がってきた報告書を引っ張り出した。


(この時期は川の水位が上がりやすい地点を通る。先月、その地域から増水の報告が上がっていた)


「閣下」

 ノエルが言った。

「このルートの途中に、先月増水の報告が上がっていた地点があります。書類をお持ちします」


 ノエルは棚から書類を取り出した。


「先月の第三週に、この地点で増水の報告がございました。この時期は例年水位が高くなる傾向があります。通行に支障が出る可能性があります」


 ライアスが書類を見た。


「……確かに」


 グラントが静かに頷いた。


「領地内の定期報告から拾った情報でございます」


 エリナが、地図と書類を交互に見た。

 笑顔は崩れなかった。

 しかし。


 その目の奥に、何かが走った。

 一瞬だけ。

 しかし確かに。


(あの顔だ)

(ゲームで見たことのない顔だ)

(ゲームのエリナは、思い通りにいかない場面では、もっと露骨に不満を見せていた)

(しかし現実のエリナは、崩れなかった)

(笑顔のまま、崩れなかった)


「……それは存じませんでした」

 エリナが言った。

「領地内の細かい情報まで、把握されているのですね」


「領地管理の仕事ですので」

 ノエルは答えた。

「フォルセア様のルート案は、水位が落ち着く時期であれば非常に有効だと思います。時期をずらして検討する価値は十分あるかと」


 エリナが、ノエルを見た。

 笑顔だった。

 完璧な笑顔だった。


 しかしその目の奥が、今日は少し違った。


(値踏み、ではない)

(何だろう、この目は)


「……勉強になりました」

 エリナが言った。

 その声は、珍しく、真っ直ぐだった。


 ノエルはそれに気づかないまま、書類を棚に戻した。

 グラントが、その様子を静かに見ていた。

 口元が、ほんのわずかに動いていた。



 その夜。


 ノエルは自室で観察日誌を開いた。


「本日の報告。エリナ・フォルセアとの接触が続いている」


 一行空けて、続けた。


「ご苦労なことですわね、という言い方。素朴すぎるかもしれない、という言い方。我が家の騎士団では長年、という言い方。全部、上品な言葉でやってくる。笑顔のまま、崩れないまま、やってくる。さすがゲームの悪役令嬢だ。本物だ」


「ただ、何度か、想定外の顔をしていた。ゲームで見たことのない顔だった」


 ノエルは羽ペンを止めた。

 少し考えた。


「ゲームのエリナより、現実のエリナの方が、できる人間かもしれない」


 別紙を取り出した。


「エリナ・フォルセア考察。第一回。タイトル:思ったより手強いかもしれない件について」


 ノエルは羽ペンを走らせた。

 今夜は長くなりそうだった。

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