悪役令嬢(ノエル視点)
【ノエル視点】
出陣の準備が始まって、一週間が経った。
屋敷の空気が、少しずつ変わっていた。
騎士団への連絡、兵站の確認、不在期間中の領地管理の引き継ぎ。
やることは山ほどあって、ノエルは毎日書類と格闘していた。
そんな日の午後のことだった。
廊下を歩いていたノエルは、グラントとすれ違った。
「グラントさん、本日はどなたか来られたのですか?」
「ああ、ベルナード嬢」
グラントが少し、足を止めた。
「本日、エリナ・フォルセア様がいらっしゃいました」
ノエルは一瞬、止まった。
(エリナ・フォルセア)
(きたーーーーーー!!)
(悪役令嬢キャラきたーーーーーー!!)
(フォルセア侯爵家! 近衛騎士団長の娘! ライアスルートの悪役令嬢!)
(ゲームで何度見たか! あのキャラが! 現実に! 来た!)
「……そうですか」
ノエルは平静な声で言った。
「戦場での合流のために、先に来られたのですね」
「さようでございます。閣下と応接室でお話し中です」
「わかりました。ありがとうございます」
グラントが歩いていった。
ノエルは書類を抱えたまま、少し廊下に立っていた。
(落ち着け。これはゲームではなく現実だ)
(ゲームのエリナが現実にいる。それだけだ)
(ゲームでのエリナ・フォルセアの性格は把握している。表向きは完璧な騎士令嬢。裏では非常に傲慢で、欲しいものは手に入れるタイプ。邪魔者は精神的に追い詰めて排除する。超ハラスメント令嬢)
(ライアス様に惚れていて、正妻の座を狙っている)
(そして、ゲームのライアスルートでは、ヒロインを徹底的に追い詰めてくる)
(まあ、私はヒロインではないので関係ない話だが)
ノエルは気を取り直して、書類整理に戻ろうとした。
そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。
応接室の方向だった。
ノエルはそのまま歩き続けようとした。
しかし。
「少し、よろしいですか」
声がした。
ノエルは足を止めた。
振り返った。
廊下に、一人の女性が立っていた。
背が高かった。
騎士の訓練を積んだ体つきをしていながら、令嬢としての所作が完璧に備わっていた。
深い赤みがかった茶色の髪が、きっちりと結い上げられていた。
顔立ちは整っていた。
凛とした、高潔な印象を与える顔だった。
(エリナ・フォルセアだ)
ゲームで何度も見たキャラクターが、目の前に立っていた。
現実のエリナは、ゲームのスチルよりも少し背が高かった。
そして、ゲームのスチルよりも、目が笑っていなかった。
「貴方が、ノエルさんですか」
エリナが言った。
声のトーンは穏やかだった。
上品な笑みだった。
「はい。ノエル・ベルナードと申します」
「やはり」
エリナが少し、目を細めた。
「優秀な事務官がいると聞いておりましたので」
「恐れ入ります」
「ライアス様から、伺っておりました」
ライアス様から、という部分を、エリナはさりげなく強調した。
さりげなく、しかし確実に。
(来た)
(ゲームのエリナのやり口だ)
(ライアス様から、という言葉を使って、自分がライアスと近しい関係であることを示した)
ノエルはそれを受け流しながら、にこやかに答えた。
「閣下にそのようにおっしゃっていただけているとは、光栄でございます」
「謙遜なさらなくても」
エリナが続けた。
「公爵領の改革を推進されたと聞いています。女性でそれだけの実務をこなせる方は、なかなかいらっしゃらないと思いますわ」
「お褒めいただきありがとうございます」
「どちらのご出身ですか」
「ベルナード家でございます」
「ベルナード……」
エリナが少し、考えるような顔をした。
「伯爵家でしたか」
「はい」
「なるほど」
エリナはそれだけ言った。
それだけだったが、その目が、一瞬だけ、何かを整理するように動いた。
(値踏みしている)
(伯爵家と聞いて、何かを判断した)
(ゲームのエリナは、立場と家格で相手を測るタイプだ)
エリナが、また笑顔を向けた。
「公爵家の事務を支えてくださっているのですね。大切なお仕事ですわ」
「ありがとうございます」
「ライアス様もご信頼されているようで、嬉しく思います」
また、ライアス様という言葉が出た。
今度は、さらりと、しかし確実に。
(この人は、ライアス様との近さを言葉に滲ませている)
(ゲームのヒロインは、ここで動揺していた)
(しかし私は、ヒロインではない)
(動揺する理由が、特にない)
(……ない、はず、だ)
「フォルセア様も、戦場では大変なご活躍をされると伺っております」
ノエルは言った。
「どうかご無事で」
「ありがとう」
エリナが少し、笑みを深めた。
「ノエルさんも、お体に気をつけて。閣下のご不在の間、領地をよろしくお願いしますわね」
それだけ言って、エリナは廊下を歩いていった。
足音が遠ざかっていった。
ノエルはしばらく、その場に立っていた。
(……)
(今の何だった)
(褒めているようで、測っていた)
(ライアス様から、という言葉を二度使った)
(伯爵家と聞いて、何かを判断した)
(最後は、閣下のご不在の間、よろしく、と)
(つまり、お前はここで留守番をしていろ、という意味でもある)
(全部、上品な言葉でやった)
ノエルは書類を抱え直した。
(ゲームのエリナそのままだ)
(外面は完璧。内面は全然別物)
(まあ、私はヒロインではないので、本格的に排除対象にはならないはずだが)
(それにしても)
ノエルは歩き出しながら、頭の中でエリナの言葉を反芻した。
ライアス様から、伺っておりました。
(閣下が、エリナに私の話をした)
(仕事の話として、当然そういう流れになったのだろう)
(当然だ。おかしくない。何もおかしくない)
そう思いながら。
なぜか、胸の中に、小さな何かが引っかかっていた。
それが何かを、ノエルはまだ言葉にできなかった。
できないまま、廊下を歩いた。
今夜の観察日誌は、エリナについての考察で終わりそうだった。




