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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果


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戸惑いの公爵(ライアス視点)

【ライアス視点】


 アルフレッドが公爵邸を訪れたのは、昼前のことだった。

 事前の連絡は一切なかった。

 突然現れて「近くを通ったから」と言いながら応接室のソファに腰を下ろすのは、子どもの頃から変わらない男の悪癖だ。


「で、本当のことを話してくれよ」


 お茶を一口飲んで、アルフレッドが言った。

 笑顔だった。しかし目が笑っていない。

 こういうときの彼は、情報を引き出しに来ている。

 長年の付き合いで、ライアスにはわかった。


「何がだ」

「公爵家の財政立て直しが、王宮の耳にまで届くほど急速に進んでいる件」アルフレッドは続けた。「帳簿の整理、業務フローの見直し、各部署のコスト削減。しかも短期間で。ライアス、君が一人でやったとは思えない」

「……人を雇った」

「誰を」

「事務の者だ」

「どんな人?」

「有能だ」

「それだけ?」

「……それだけだ」


 アルフレッドが、じっとライアスを見た。

 探るような目だった。いや、探ると言うより、すでに何かを掴んでいて、それを確認しようとしている目だ。


「ねえライアス」

「なんだ」

「何か隠してる?」

「隠してはいない」

「じゃあなんで歯切れが悪いの」

「……悪くない」

「悪いよ」アルフレッドはにこりと笑った。「いつもの君なら『ベルナード伯爵家から事務を雇い入れた、有能だ、以上』って三秒で終わる話だ。なのに今日はやけに言葉が少ない」


 ライアスは答えなかった。


「まさか」アルフレッドの笑みが、少し深くなった。「不正でもあった? 財政の立て直しが速すぎて、帳簿を操作されてるとか」

「違う」


 思ったより早く言葉が出た。


「……違う。不正はない。帳簿の精度は私自身が確認した。問題はない」

「ふうん」アルフレッドが顎に手を当てた。「そこは即答するんだね」


 ライアスは気づいた。乗せられた、と。


「……その人物の仕事の質を疑われるのは、不本意だ」

「仕事の質を」アルフレッドが繰り返した。「ねえライアス、その人、女性?」

「……なぜそう思う」

「君が人のことを庇うとき、その人のことをよく見てるときなんだよね。で、君が人をよく見るのは珍しいから」


 ライアスは少し黙った。


「……ベルナード伯爵家の令嬢だ。十六歳。事務として雇い入れた。それだけだ」

「十六歳の令嬢を」

「仕事の力量を買った。他意はない」

「もちろんそうでしょ」アルフレッドは肩をすくめた。「会ってみたいな」

「……必要か」

「必要かどうかじゃなくて、会ってみたい。ライアスがここまで言いにくそうにする人間を、僕は見たことがないから」


 ライアスは額を押さえたくなるのを堪えた。


「……呼ぶ」


 ノエルが応接室に入ってきたとき、ライアスは何となく、彼女の様子を確認した。

 表情は落ち着いていた。カーテシーも完璧だった。

 声も揺れていない。まがりなりにも伯爵家令嬢としての貴族教育が、こういうときに発揮される。


(よし。問題ない)


 ライアスは内心で頷いた。

 アルフレッドの前でも、いつも通りの有能な事務員として振る舞えている。


 紹介を終えると、アルフレッドが早速話しかけ始めた。

 財政の話、そろばんの話、パンケーキの話。

 ノエルは答えた。簡潔に、的確に、落ち着いて。


 ライアスは静かに頷いた。


(いい)


 この娘がどこへ出ても恥ずかしくない応対をする、ということは、雇い入れた当初からわかっていた。しかし改めて見ると、やはり対人能力が高い。アルフレッドの探るような質問にも、動じていない。


「君、面白いね」


 アルフレッドがそう言った。

 ライアスは静かに前を向いたまま、小さく頷いた。


 評価は正しい。事実、面白い人間だ。

 ただ。


(……なぜ、少し気になるんだ)


 アルフレッドが「面白い」と言った瞬間に、何か小さなものが胸の奥で動いた気がした。

 よくわからない何かが。

 気のせいだろう、とライアスは思った。


 問題が起きたのは、その少し後だった。


 アルフレッドの質問が続く中で、ノエルの様子が、少しずつ変わり始めた。

 最初は気のせいかと思った。

 しかし違った。


 答えている途中で、時々、目が遠くなる。

 いや、遠くなる、というより、内側に向いている。

 何かを脳内で処理しているような、膨大な情報を高速で整理しているような、そういう目だ。


 しかも時折、答えの中に妙な言葉が混じり始めた。


「視覚的な充実度が高く……眼福の供給を……」


(供給?)


「解析したくなるといいますか」


(解析?)


「人を惹きつける要素……最大の……」


 そこで一瞬、何かを堪えるように口を閉じた。


(……何を言いかけた)


 ライアスは眉を寄せた。

 いつもと違う。明らかに違う。

 有能な事務員の外面は保っているが、内側で何かが溢れかけている。

 その「何か」が何なのかが、全くわからない。


「観察者として、非常に眼福でございます」


 ノエルがそう言ったとき、ライアスは自分が対象に含まれているらしいことに気づいた。


(観察者として)


 以前、グラントから「観察記録をつけている」と聞いた。

 何の観察記録かは、教えてくれなかった。


(……まさか)


 考えかけて、やめた。

 考えてもわからないことは、考えても仕方がない。

 これ以上考えると、頭が痛くなりそうだった。


「お二人が並ばれたこの構図は……互いにとって最高の引き立て役といいますか……」

「引き立て役!」アルフレッドが嬉しそうに声を上げた。「ライアス、引き立て役らしいよ」

「……どちらがだ」

「両方だって言いたいんだよね、ノエル嬢?」

「……端的に申しますと、そうでございます」


 ライアスはアルフレッドを見た。

 アルフレッドが、楽しそうに笑っていた。


(……気に入っている)


 それは明らかだった。アルフレッドが本当に人を気に入ったときの顔を、ライアスは知っていた。

 社交の場での愛想笑いとは違う、純粋な興味と好意が混ざったときの顔だ。

 今がそれだった。


(……別に、構わない)


 構わない。

 ノエルは優秀だ。気に入られて当然だ。

 ただ。


(……なぜ、落ち着かない)


 また、あの感覚だった。

 胸の奥の、小さな、よくわからない何かが、微妙に騒いでいる。


 ライアスは静かに息を吐いた。

 気のせいだ。きっと気のせいだ。


     ◇


 ノエルが退室した後、応接室には二人だけになった。


 アルフレッドが伸びをしながら言った。


「いい子だね」

「……有能だ」

「有能、ね」アルフレッドが少し笑った。「ねえライアス、彼女のこと、もう少し教えてよ。どんな子なの、普段」

「……どういう意図で聞く」

「意図はないよ。純粋に気になった。君がここまで言いにくそうにする人間なんて、今まで一人もいなかったから」


 ライアスは少し黙った。


「……朝に走る」

「走る?」

「毎朝、夜明け前後に屋敷の外周を数周する。令嬢なのに、だ。夜は部屋で筋力の鍛錬をしている」

「ほう」

「馬の世話を手伝いながら使用人と話す。厨房で料理長と並んで料理を作る。何かを書き記した手帳を常に持ち歩いている。観察記録だと言っていたが、何の観察かは言わない」


 アルフレッドが黙って聞いていた。


「パンケーキの組み合わせも、あの娘の提案だ。さっきも意味のわからない言葉をいくつか使っていた。供給とか、解析とか、言いかけて途中で止めたものもあった。何を言おうとしていたのかは、わからない」

「ライアス」

「なんだ」

「君、すごく詳しいね」


 ライアスは口を閉じた。


「……把握しておく必要がある」

「把握」アルフレッドがゆっくりと繰り返した。「そうか」


 その「そうか」が、妙に楽しそうだった。

 ライアスは何も言わなかった。


「正直に言うと」アルフレッドがソファに深く座り直した。「王宮に欲しいくらいだよ、ああいう子」


 ライアスの思考が、一瞬、止まった。


「……何?」

「いや、だってあれだけ有能で、機転が利いて、コミュニケーション能力も高い。王宮の経理や庶務に入ってもらったら、相当助かる人材じゃないか。この国のためにもなるし」


 ライアスは何も言わなかった。

 しかし胸の奥で、あの感覚が、今日一番大きく動いた。


 落ち着かない。

 さっきまでとは違う種類の落ち着かなさだった。


 さっきはよくわからない何かが騒いでいた。

 今は、はっきりと、何かが嫌だと言っていた。


(……何が嫌なんだ)


「……ノエルは公爵家に必要だ」


 気づいたら、声に出ていた。


「そうかな」

「そうだ」ライアスは続けた。「財政の立て直しは途中だ。業務フローの改善も終わっていない。領地経営の問題点の洗い出しも、まだ半分も終わっていない。今動かすことはできない」

「なるほど」アルフレッドが頷いた。「業務上の理由で」

「……そうだ」

「業務上の理由で、ノエル嬢は公爵家に必要と」

「そうだと言っている」


 アルフレッドがライアスを見た。

 楽しそうな目だった。

 いや、楽しそうというより、何かを確認して満足しているような目だった。


「ライアス」

「なんだ」

「君、今すごく真顔だけど、耳が少し赤いよ」

「……気のせいだ」

「気のせいじゃないよ」

「気のせいだ」

「はいはい」アルフレッドは立ち上がり、伸びをした。「わかった。ノエル嬢は公爵家に必要なんだね。業務上の理由で」

「……そうだ」

「大切にしてあげてよ」

「……業務に支障をきたさない範囲で、適切に処遇する」

「そういう言い方しかできないの、本当に不器用だよね君は」


 アルフレッドが笑いながら言った。

 ライアスは何も言わなかった。


「また来るよ。ノエル嬢によろしく」

「……自分で言え」


 アルフレッドが、くすりと笑った。


「不器用だなあ、君は」


 そのまま、軽い足取りで応接室を出ていった。


 静かになった応接室で、ライアスはしばらく窓の外を見ていた。


(ノエルは公爵家に必要だ)


 言った言葉を、もう一度確認した。

 業務上の理由だ。それは本当のことだ。財政の立て直しは途中だし、業務フローも終わっていない。

 嘘は言っていない。


(……では、なぜ耳が赤くなった)


 答えは出なかった。


     ◇


 ノックの音がした。


「失礼いたします」


 グラントだった。いつものように書類を持って入ってきた老家令は、ライアスの顔を一瞬見て、何かを察したように目を細めた。


「殿下はお帰りになりましたか」

「ああ」

「左様でございますか」グラントは書類をデスクに置いた。「閣下、一つご報告がございまして」

「なんだ」

「先ほど、廊下でベルナード嬢とすれ違いました」


 ライアスの視線が、わずかに動いた。


「……様子は」

「それが」グラントは少し間を置いた。「壁に背中をつけて天を仰ぎながら、両手を胸の前で握りしめておられました。目が潤んでおられまして、口の中で何かをぶつぶつと呟いておられました。大変……独特のご様子で」

「…………」

「声をおかけしましたところ、『人生が最高でした』と」

「…………」

「続けて、『前世の給与三ヶ月分の元が取れました』と」

「…………」

「前世、という言葉の意味を尋ねましたところ、言葉の綾だとおっしゃっておりました」


 ライアスはしばらく黙っていた。


「……部屋に戻ったなら、いい」

「はい。その後自室へ向かわれるのを確認しております」


 グラントが退室した。扉が閉まった。


 静かになった執務室で、ライアスは額に手を当てた。

 先ほど言った言葉が、頭の中で響いた。


(ノエルは公爵家に必要だ)


 必要だ。

 それは、間違いない。

 ただ。


(……壁に背中をつけて天を仰ぎながら、目を潤ませて、人生が最高だと呟いていた令嬢が)


 ライアスは静かに、しかし深く、額を押さえた。


(……公爵家に必要と言ったのは、少し早まったかもしれない)


 今日一番の頭痛が、じわじわと始まっていた。

 しかし。


 今日のノエルの様子が、ふと、頭の中で再生された。

 目が遠くなるたびに、何かを必死に堪えていた顔。

 アルフレッドの質問に答えながら、言いかけた言葉を途中で飲み込んだ顔。

 それでも最後まで、完璧な事務員として応対しきった顔。

 そして、廊下で壁に背中をつけ、天を仰いで、目を潤ませていた、という話。


(……人生が最高だった、か)


 何がそこまで嬉しかったのかは、今もわからない。

 わからないが。


 ライアスの口元が、ほんのわずかに、動いた。

 笑った、と言うには微かすぎる。

 しかし確かに、動いた。


 次の瞬間、自分がそうしていることに気づいて、ライアスは静かに手で口元を覆った。


 頭痛は、まだ続いていた。

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