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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果


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納得のいかない決着(ノエル視点)

【ノエル視点】


 フェルトン侯爵家からの使者が来たのは、翌朝のことだった。


 ノエルは執務室の隣の小部屋で台帳の整理をしていたとき、グラントに呼ばれた。


「閣下の執務室にいらしてください。侯爵家から使者が参りました」


「……早いですね」


「はい」


 グラントは静かに言った。


「非常に早い」


 その「非常に早い」の中に、何かが含まれていた。


 ノエルは台帳を置いて立ち上がった。


 執務室に入ると、ライアスがすでに椅子に座っていた。


 使者は四十代の男だった。

 昨夜の三人とは、全く雰囲気が違った。


 物腰が柔らかく、立ち居振る舞いが整っていた。

 正式な外交使節として訓練された人間の動き方だ。


(昨夜の三人は、表の人間ではなかった)


 ノエルは静かに、グラントの隣に控えた。


 使者が書状を差し出した。


「フェルトン侯爵閣下より、ヴァルトハイン公爵閣下へ。謹んでお届けいたします」


 ライアスが書状を受け取った。

 読んだ。


 表情は変わらなかった。

 しかし、わずかに、眉が動いた。


(今の眉の動きは……怒りではない。何かを処理している眉だ)


 ライアスが書状をグラントに渡した。

 グラントが読んだ。グラントも、表情を変えなかった。


 ノエルもグラントから受け取って読んだ。


 書状の内容は、要約するとこうだった。


 このたび、公爵家の内部調査において、我が侯爵家の縁故により採用していたルーベン・オドレイなる者に不正が発覚した。


 ルーベンは侯爵家との契約に反し、複数の役職を名義のみで保有しつつ実務を行わず、また宿坊管理費の一部を横領していたことが確認された。


 侯爵家は公爵家との信頼関係を重んじるものであり、当該の不正は侯爵家の意図するところではない。


 ルーベンは本日付けで侯爵家の判断により処断した。


 つきましては、これまでの不正に係る給与の全額、宿坊管理費の返還、および公爵家へのご迷惑に対する誠意として、相応の慰謝料をお支払い申し上げたい。


 本件については、以上をもって円満な解決を図りたく、ご検討賜りたい。


(……来た)


 ノエルは書状を持ったまま、しばらく動かなかった。


 これが示談だ。

 侯爵家が先に動いた。


 ルーベンを処断して、金を払って、幕を引こうとしている。


(こちらが動く前に、証人を消した)


 ルーベンが処断された。

 昨日の今日だ。


 ノエルが拉致されたのが昨夜。使者が来たのが翌朝。

 一晩で、全部片をつけてきた。


(速すぎる)


 速すぎる、というのは、怒りではなく、純粋な分析として感じたことだった。


 ノエルは前世で経理をやっていた。

 不正が発覚してから処断が下るまでには、通常、調査・確認・判断・手続きという工程が必要だ。


 それが一晩で完了した。


(つまり侯爵家は、ルーベンの処分をあらかじめ決めていた)


 あるいは、すでに手駒として使い終わっていたか。


(書状にはルーベンの首を送り届けるとある。しかしそれが本当にルーベンの首かどうかを確かめる手段は、こちらにはない)


 ノエルは書状をライアスに返した。


 使者が退室した後、三人だけになった。


「グラント」


 ライアスが静かに言った。


「はい」


「示談を受ける」


 グラントが、一拍置いてから頷いた。


「……かしこまりました」


 ライアスがノエルを見た。


「ベルナード嬢」


「はい」


「不満か」


 ノエルは少し考えた。


「……不満、というより、悔しいです」


「そうだな」


 ライアスは短く言った。


「今回は負けだ。侯爵家が先に動いた。こちらが騒ぎ立てれば、公爵家が証拠もなく侯爵家を糾弾したという体になる。受けるしかない」


「はい」


「ただし」


 ライアスは続けた。


「これで終わりではない」


「……はい」


 それだけで、少し、息ができた気がした。


 示談の返書を書き終えた頃、グラントが再び執務室に入ってきた。


 その顔を見て、ノエルは何かあったと察した。


「閣下、ご報告があります」


「なんだ」


「昨日、記録庫の管理担当者として懸念していた人物ですが……本日、出仕しておりません。居室を確認したところ、荷物が全てなくなっていました」


 部屋が静かになった。


「逃げたか」


「おそらく。昨夜のうちに動いたと思われます」


「もう一名、守衛の件は」


「同様です」


 グラントは続けた。


「夜番の守衛が一名、交代の時間になっても現れず、確認に向かったところ持ち場を離れていました。居室も既に空です」


 ライアスは少し黙った。


「二人とも、昨夜のうちに消えた」


「はい。昨日の件が動いた直後です」


(消えた)


 ノエルは静かに、その言葉の重さを受け取った。


 逃げた、という言葉ではなく、消えた、という言葉をグラントは使った。


(自分の意思で逃げたのか、それとも別の何かが動いたのか)


 どちらかは、わからない。

 わからないまま、二人はいなくなった。


「捜索は」


「手配しましたが」


 グラントは静かに言った。


「見つかるかどうかは……」


 グラントが言葉を切った。

 言わなくても、わかった。


 グラントが退室した後、ノエルはもう一度、頭の中を整理した。


 侯爵家の今回の動きを、順番に並べてみる。


 一、公爵家が記録庫の調査を始めた。

 二、侯爵家に情報が入った。

 三、昨夜、三人が公爵家の敷地に入り込んだ。

 四、ライアスに制止され、三人は引き上げた。

 五、翌朝、侯爵家から示談の申し入れが来た。

 六、同じ夜のうちに、内通者と思われる二人が消えた。


(……おかしい)


 ノエルは静かに、そのおかしさの正体を考えた。


 五番と六番が、ほぼ同時に起きている。

 示談の申し入れと、内通者の消失が、一晩で。


 侯爵家がルーベンの不正を把握して処断を決め、示談の書状を用意して、同時に内通者二人の動きも止めた。


 これだけの動きを、一晩でできる組織は、相当の規模と即応力を持っている。


(縁故採用の問題を、これだけ素早く処理できるということは)


 ノエルは少し考えて、言葉を選んだ。


(侯爵家にとって、今回の件は「単なる不正問題」ではなかった、ということだ)


 もし本当に「縁故採用した人間が横領をしていた」という話だけなら、侯爵家がここまで素早く動く理由がない。

 むしろ、もみ消すか、時間をかけて交渉するか、どちらかのはずだ。


 それが一晩で示談を持ち込んできた。


(公爵家の調査が、侯爵家にとって都合の悪い何かに触れかけていた可能性がある)


 その「何か」が何なのかは、今のノエルにはわからない。

 わからないが、確かにある気がした。


 ノエルは執務室に戻った。


「閣下」


「なんだ」


「一つだけ、確認させてください」


「言え」


「今回の示談ですが、侯爵家の対応は少し、速すぎます」


 ライアスが視線を上げた。


「速すぎる、とは」


「縁故採用の問題であれば、侯爵家としては様子を見るか、時間をかけて交渉するのが通常です。しかし一晩で示談を持ち込んできた。しかも内通者と思われる二人が、同じ夜に消えています」


「……続けろ」


「この速さは、侯爵家が最初から今回の件の落とし所を決めていたか、あるいは公爵家の調査が、侯爵家にとって想定外の何かに触れかけていたか、どちらかではないかと思います」


 ライアスは少し黙った。


「両方かもしれない」


「はい。いずれにしても、今回の示談は、ルーベンの横領だけを理由にしているとは思えません。宿坊の給与が流れていた両替商についても、書状では一切触れていませんでした」


「気づいていたか」


「はい。侯爵家はその部分を隠した上での手打ちです。つまりあの金の流れ先には、まだ何かある可能性があります」


「今は動けない」


「わかっています」


 ノエルは言った。


「ただ記録として、その点は残しておきます。今は使えなくても、いつか使える日が来るかもしれないので」


 ライアスが、静かにノエルを見た。


「……そうしろ」


「かしこまりました」


 ノエルは一礼して退室した。


 廊下に出て、少し歩いてから、ノエルは止まった。

 壁に手をついた。


(悔しい)


 今日だけは、思い切り悔しいと思うことにした。


 帳簿の異常を見つけたのはノエルだった。

 証拠を集めたのもノエルだった。

 拘束されながら記録を守ったのもノエルだった。


 それでも、向こうの方が一枚上手だった。


(でも)


 ノエルは少し、息を吐いた。


(閣下が「次は負けない」と言った。それだけで、今日は十分だ)


 廊下を歩き始めた。

 今夜の観察日誌に何を書くか、少しだけ考えながら。


 その夜の観察日誌には、短く書いた。


「本日、侯爵家から示談の申し入れがあった。受けた。悔しい。内通者二名が行方不明になった。悔しい。ルーベンが処刑されたという報告が来た。首が届いた。本物かどうかわからない。全部向こうのペースだった。悔しい」


 一行空けて、書き続けた。


「ただ、今回の侯爵家の動きは速すぎる。縁故採用の問題だけなら、一晩で全部片をつける理由がない。公爵家の調査が、何か別のものに触れかけていた可能性がある。宿坊の金の流れ先については、書状でも一切触れられなかった。あの両替商の先に、まだ何かある。今は動けない。でも記録は消えない」


 さらに一行空けて、最後に書いた。


「閣下が『次は負けない』と言ってくださった。今日はそれだけで十分だ。なお本日は推し活感情を発動させる余裕が殆どなかったが、退室直前に閣下がこちらを見た際の目の温度が、いつもより少しだけ違った気がした。これについては明日以降に分析する。今夜は悔しさと疲れを優先する」

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