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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果


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初めての感覚(ライアス視点)

【ライアス視点】


 執務室に戻ったのは、夜も更けた頃だった。


 グラントとクラウスを下がらせた後、ライアスは一人で机に向かった。


 今夜やるべきことがある。


 しかし羽ペンを手に取る前に、ライアスはしばらく、今夜の出来事を整理した。


 まず、事実として確認できていること。


 一つ。フェルトン侯爵家の者と思われる三人が、公爵家の敷地内に侵入した。

 二つ。その三人は、宿坊を使って公爵家の事務員を拘束した。

 三つ。ライアスが退去を命じると、抵抗せずに引き上げた。


(三つ目が、引っかかる)


 あの三人は、ライアスが現れた瞬間に態度を変えた。


 特に巨体の男を転がした後、細身の男は即座に「退きましょう」と言った。

 早すぎた。


 もともと、長くいるつもりがなかったのかもしれない。


(いや、それだけではない)


 ライアスは考えた。


 あの三人を、あえて取り逃がした形にした。

 侯爵家に「こちらは把握している」と伝えるためだ。


 告発すれば完全に敵対関係になる。

 今の段階では、まだそこまで踏み込む必要はない。


 しかし向こうも同じことを考えているはずだ。


(三人を引き上げさせたのは、これ以上の強硬手段を避けるためだった可能性がある)


 つまり、侯爵家も完全な対決は望んでいない。


 では何を望んでいるのか。


(調査を止めさせることだ)


 証拠が固まる前に、こちらに諦めさせること。

 それが今夜の目的だった。


(諦めない、とわかれば、次は別の手を打ってくる)


 ライアスは羽ペンを取った。

 法務官への書状を書き始めた。


 書状を書き終えた頃、ノックがあった。


「グラントです」


「入れ」


 グラントが入ってきた。書類を持っていた。


「閣下、一点ご報告があります」


「なんだ」


「今夜の件で、気になることがございます」


 グラントが書類をライアスの前に置いた。


「あの三人が宿坊に入るには、鍵が必要です。宿坊の鍵は、公爵家の鍵管理台帳に登録されています。台帳上では、現在鍵を保管しているのは三名です。私と、宿坊を管理している書記と、もう一名」


「もう一名は誰だ」


「騎士団の記録庫の管理担当者の一人です」


 ライアスは少し、止まった。


「……記録庫の担当者が、宿坊の鍵を持っている理由は」


「不明です。台帳に記載があるだけで、なぜそうなっているのかの説明が見当たりません」


「昨日、急に体調不良で出勤できなくなったという担当者か」


「……はい」


 部屋が静かになった。


(記録庫への調査が入った翌日に体調不良。そして宿坊の鍵を持っている)


「その担当者の名前と、過去の履歴を調べろ。いつから記録庫に配属されているか、過去に侯爵家との接点があるかどうか」


「かしこまりました。ただ、慎重に動く必要があります。相手がまだ気づいていない可能性があります」


「わかっている。気づかれないよう動け」


 グラントが頷いた。


「もう一点、ベルナード嬢についてですが」


「なんだ」


「明日以降の調査について、クラウスを同行させる件、ベルナード嬢には既にお伝えしました。ご本人は、引き続き調査を進めると」


「止めると言ったか」


「いいえ」


 グラントは静かに言った。


「むしろ、今夜の件で侯爵家側の動きが読めた部分があるとおっしゃっていました。それを活かして進めたいと」


(今夜、拘束されながら、そんなことを考えていたのか)


 ライアスは少し黙った。


「……そうか」


「閣下」


 グラントが続けた。


「ベルナード嬢は、今夜の件をご自分の失態と捉えておられるようです。拘束されたことへの反省を」


「反省は結構だ」


 ライアスは言った。


「ただ、あの娘が一人で動いたからこそ、侯爵家が動いてきた。それはこちらにとっても有益な情報だ」


「……左様でございますか」


 グラントの声に、わずかに何かが混じった。

 ライアスは気にしないことにした。


「今夜は下がれ。明日、早めに動く」


「かしこまりました」


 グラントが退室した。


 一人になった執務室で、ライアスは書類を眺めながら、静かに考えた。


 侯爵家の動きを整理する。


 今夜の三人は、何者かに鍵を提供された。

 その何者かは、おそらく騎士団の記録庫の担当者だ。


 昨日の「体調不良」も、情報を渡したことへの後ろめたさか、あるいは侯爵家から指示が来て動けない状態にあるか、どちらかだ。


(証拠が固まれば、そこを突ける)


 しかし、その前にもう一つ確認しなければならないことがある。


(なぜ、あの三人を公爵家の敷地内に入れることができたのか)


 鍵だけの問題ではない。

 屋敷の敷地に、見知らぬ三人が入った。

 普段であれば、守衛が確認する。


 今夜、守衛は気づかなかった。


(あるいは、気づいていたのに見逃した者がいるか)


 それは、守衛の中にも内通者がいる可能性を示していた。


(調べる範囲が、広がった)


 ライアスは新しい紙を取った。


 今夜から明日にかけてやるべきことを、書き出し始めた。


 一、法務官への書状を送る。

 二、記録庫の担当者の身辺を調べる。

 三、今夜の守衛の動きを確認する。

 四、商業組合への申請を進める。


 書きながら、ライアスは少し止まった。

 五つ目に何を書くか、一瞬迷った。


 書いた。


 五、ベルナード嬢の護衛体制を強化する。


(……これは当然の手順だ)


 自分に言い聞かせるように、そう思った。


 有能な人材を失えば、調査が止まる。

 だから守る。

 それだけのことだ。


 しかし。


 書類を重ねながら、ライアスは少し考えた。


 今夜、宿坊の扉を開けたとき。

 ベルナード嬢の顔を見た瞬間に、何かが緩んだ。

 無事だ、という確認が取れた瞬間のことだ。


(あれは、何だったんだ)


 有能な人材が無事だった、という安堵だと思った。


 しかし。


 思い返すと、あの瞬間、頭の中で真っ先に動いたのは「調査が続けられる」という計算ではなかった。

 もっと別の、単純な何かだった気がした。


(気のせいだ)


 ライアスは書類に向き直った。


 今夜やるべきことがある。

 感傷に浸っている場合ではない。


 羽ペンを走らせた。


 しかし、しばらくして、また少し止まった。


 宿坊の中で、ベルナード嬢が笑った顔が、頭の隅に引っかかっていた。


 拘束されていた人間が、笑っていた。

 その顔を見て、自分の口元が動いた。


(あの娘は、なぜあそこで笑えたんだ)


 怖かったはずだ。

 あの三人を見れば、特に巨体の男の殺気を感じれば、怖くない方がおかしい。


 それでも笑っていた。


(……強い娘だ)


 その言葉が、自然に浮かんだ。


 強い、というのは、体格や戦闘力の話ではない。

 もっと別の意味の、強さだ。


 ライアスには、うまく言語化できなかった。

 しかし、それがどういうものかは、なんとなくわかった気がした。


(こういう感覚は、初めてだ)


 誰かのことを、こういう形で考えるのが。


 ライアスはその思考を、一旦脇に置いた。


 今夜は、やることがある。

 羽ペンを再び走らせた。


 夜が深くなるまで、ライアスは書き続けた。


 ベルナード嬢のことを、三度ほど頭の隅で思い出しながら。

 その度に、書類に向き直しながら。

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