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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果


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三点セットの尊死攻撃は遅延を招く(ノエル視点)

【ノエル視点】


 宿坊の中は、静かだった。


 静かすぎた。


 ノエルは椅子に座りながら、三人の男たちを順に見た。


 細身の男。

 中肉中背の男。

 そして三人目。


(でかい)


 三人目を見て、ノエルは内心で率直にそう思った。


 首がない。肩が壁みたいだ。あれで人間なのか。前世で見たボディビルダーの方が小さかった気がする。


 しかし今、そんなことを考えている場合ではない。


 事の始まりは、二刻ほど前だった。


 宿坊の台帳と鍵の管理記録を照合していたとき、突然後ろから声をかけられた。


「ちょっとよろしいですか」


 振り返ると、細身の男と中肉中背の男が立っていた。


 笑顔だった。

 しかしその笑顔が、全く目に届いていなかった。


(まずい)


 反射的に、手に持っていたメモを懐に入れた。


「何かご用ですか」


「少し話を伺いたいことがあって。こちらへどうぞ」


「申し訳ありませんが、業務中でして」


「ほんの少しだけ」


 そこへ、後ろから大きな気配がした。


 振り返る間もなかった。

 腕を掴まれた。


 抵抗した。


 前世の護身術の知識と、この世界のキャラクター補正がある体で、精一杯抵抗した。


 しかし相手が三人で、後ろから掴んできた男の力が尋常ではなかった。


 気づいたら宿坊の中の椅子に座らされていた。


 そこで改めて、三人目の男の全貌を見た。


(……本当にでかかった)


 首がない。肩が扉の幅の半分ほどある。


 どこをどう育てればそうなるのか理解できない体格の男が、ノエルの正面に仁王立ちしていた。


 細身の男が、丁寧な口調で言った。


「調査の内容を教えていただけますか」


「内部の業務確認です」


「具体的には」


「業務上の確認ですので、詳しくはお話しできません」


「誰の指示で」


「公爵家の業務です」


 細身の男が少し笑った。


「正直に話していただけると、助かるんですが」


「正直に話しています」


 膠着した。


 しばらく沈黙が続いたとき、三人目の巨体の男が、低い声で言った。


「この女の指一本でも切り落として届けてやれば、二度と余計なことを調べる気も失せるんじゃないですかね」


 ノエルは表情を変えなかった。


 変えなかったが、背筋が少し冷えた。


 冗談ではなかった。

 その目が、冗談ではなかった。


 細身の男が、素早く巨体の男を手で制した。


「馬鹿なことを言うな」


「でも早い話——」


「指示が来るまで動くな」


 細身の男の声が、一段低くなった。


「こちらが先に手を出せば、公爵家の者への暴行が確定する。今は話し合いの段階だ。上がそれを望んでいるかどうか、まだ確認が取れていない」


「じゃあいつまで待てば」


「使者が戻るまでだ」


 巨体の男が鼻を鳴らした。


「……女一人相手に随分と慎重なことで」


「相手が誰かを考えろ。公爵家の人間だ。迂闊に動けば、こちらが全部被る」


 男たちのやり取りを、ノエルは静かに聞いていた。


(なるほど。指示待ちか)


 つまり今この三人は、上から何かが下りてくるまで動けない状態にある。


 手出しはしたくないが、逃がすわけにもいかない。

 だから膠着している。


(では、こちらも待てばいい)


 誰かが来るまで。

 守衛でも、グラントさんでも。


 時間さえ稼げれば、必ず気づいてくれる。


(それに、わざわざ三人も送り込んできたということは、向こうにとってもここは慎重に扱いたい場所なんだろう。問題が大きくなるのは、向こうも困る)


 怖くないとは言えなかった。


 しかし、パニックになっても何も変わらない。


 前世でも、理不尽な状況に置かれたとき、動揺しても損しかないと学んだ。


 ノエルは静かに座って、待つことにした。


 どのくらい経ったか。


 扉が、外から叩かれた。


「公爵家当主ライアス・ヴァルトハインだ。扉を開けろ」


 ノエルは、一瞬、固まった。


(……え)


 聞き間違いか。

 いや、聞き間違いではない。


 この声は知っている。毎日聞いている。観察日誌に声色まで記録している。


(ライアス様?)


 男たちが動揺した。


 細身の男が中肉中背の男に何かを囁いた。

 巨体の男が、初めて明らかに動揺した顔をした。


(そりゃそうだ。公爵本人が来るとは思っていなかっただろう)


 鍵が、外から開いた。

 扉が開いた。


 ライアスが、立っていた。


(本物だ)


 ノエルは目を疑った。

 疑ったが、本物だった。


 長剣を携えたライアスが、扉の向こうに、実際に立っていた。


 ノエルと目が合った。


(え、なんで閣下が? 守衛の方々が来るんじゃないの? グラントさんが来るんじゃないの? 公爵が直々に? ライアス様が直々に? え?)


 脳内が、処理落ちした。


 しかし今は、それどころではなかった。


 ライアスが男たちと向き合った。


 そして。


 巨体の男が突進した瞬間。

 ライアスが、一歩だけ流れた。

 腕を取った。

 足を払った。


 どすん、と音がした。

 巨体の男が転がった。


(……あっさり)


 ノエルは目を丸くしたまま、その光景を見ていた。


 ゲームのライアスは戦闘力が高いと知っていた。

 しかし実際に目の前で見ると、その速さと無駄のなさに、別の感情が走った。


(尊い)


 今それを考えている場合ではないとわかっていた。


 しかしこの場に及んで、尊いと思った自分に、ノエルは少し呆れた。


 男たちが引き上げて、室内が静かになった。


 ライアスがノエルを見た。


「怪我は」


「……ありません」


 立ち上がりながら、ノエルは脳内をフル回転させていた。


(落ち着け。仕事の顔をしろ。今は有能な事務員だ。推しに助けられたことの感想は後で)


「あの、閣下が直接来てくださるとは思っていなくて」


「なぜ」


「守衛の方々が来てくださると思っていたので……公爵様が直々に、というのは想定しておりませんでした」


「グラントは屋敷で君を待っている」


 ノエルの脳内に、電撃が走った。


(君を待っている)


(君を、待っている)


(……公爵様が、私を、待っている……?!)


 違う。

 待っているのはグラントだ。

 グラントさんが屋敷で待っているという話だ。


 わかってる。文脈でわかってる。


(でも!)


(でも閣下の口から「君を待っている」が出たのは事実で!)


(このセリフだけ切り取って額縁に入れたい! いや入れる! 豪華な額縁に! 部屋の正面に飾る! 毎朝拝む! それで何が悪い!!)


(落ち着け私。落ち着いて。グラントさんが待っている話だ。わかってる。わかってるけど閣下が言ったんだよ。閣下が。「君を待っている」を。しかも夜に。救出直後に。至近距離で。脳内再生回数が既に三十七回を超えた。止まらない。止め方がわからない)


「……かしこまりました」


 よく普通の声が出た。我ながら大したものだとノエルは思った。


 そのままライアスに報告した。

 記録は無事です。何も話していません。


(仕事中だ。今は仕事中だ)


 しかし脳内の別の回路が、すでに完全に崩壊していた。


 宿坊を出て、屋敷に向かう道中。


 ノエルは歩きながら、脳内の爆発を必死に御していた。


(整理する。事実を整理する。冷静に)


 事実その一。

 ライアス様が直接来た。


(直接来た。公爵様本人が。直接。私のために。夜に。長剣持って。すごい。尊い。やばい)


 事実その二。

 男三人をあっさり制圧した。


(あの巨体の男を一秒で転がした。ゲームの戦闘力設定が現実でもそのままだった。むしろゲームより速かった。生ライアス様の戦闘力はゲームの数値では語れない。これは重要な観察記録だ。別紙確定案件だ)


 事実その三。

 「グラントは屋敷で君を待っている」と言った。


(君を待っている。君を。公爵様が私を待っている! ……いや待つのはグラントさんだ。グラントさんが待ってる話だ。わかってる。でも言ったのは閣下で。閣下の口から出た言葉で。このセリフだけ切り取って豪華な額縁に入れて部屋の正面に飾って毎朝拝もうとしている私がいる。それは正常な人間の行動ではないとわかってる。でも飾りたい。飾る。絶対飾る)


 ノエルは前を向いたまま歩き続けた。

 顔がニコニコしていることはわかっていた。

 止められなかった。


 そのとき、後ろからクラウスの声が聞こえてきた。


「閣下……先ほどの件ですが。私がいるのに、一人で中に乗り込んでいくのは……」


「制圧した。問題なかっただろう」


「問題なかったからいいというわけでは……私は閣下のお側にいるために来たんです。それなのに扉の外に控えさせて、閣下が一人で乗り込んでいくのは」


「外を固めることが仕事だと言った」


「守衛の方々がいます。私は閣下の……せめて一緒に入らせてください、次からは」


「次はない方がいい」


「それはそうですが……」


 公爵家当主に向かって、若い使用人がひるむことなく小言を続けている。


 そのやり取りの妙な噛み合い方が可笑しくて、ノエルは思わず口元を押さえた。

 しかし間に合わなかった。


「申し訳ありません。クラウスと閣下のやり取りが……」


 言いながら、ノエルはライアスの顔を見た。


 その瞬間。


 ライアスの口元が、ほんのわずかだけ、動いた。

 笑った、と言うには微かすぎる。

 しかし確かに、動いた。


(……え)


 ノエルの脳内が、二度目の処理落ちを起こした。


(今、笑った? 閣下が? 私のせいで? 閣下の笑顔を至近距離で?)


(やばい。やばいやばいやばい。今夜だけで、直接来た、君を待っていると言った、笑った、この三点が一夜に発生した。前世込み四十年超の人生においてこれほどの密度の推し活案件が一夜に集中したことがあっただろうか。なかった。断じてなかった。人類史上なかったと断言できる。笑顔保存フォルダ緊急作成。ファイル名:閣下の微笑(初観測・生・夜・至近距離・私の笑いに起因・要特記・殿堂入り確定)。保存完了。このフォルダは一生消さない)


 ノエルは固まった。


 笑顔のまま、固まった。


 足は動いていた。目は前を向いていた。しかし脳内は完全に別の場所にいた。


「行くぞ、ベルナード嬢」


「……はい」


 声が、奇跡的に普通だった。

 今夜一番の快挙だとノエルは思った。


 屋敷の入口でグラントに迎えられた。


「ベルナード嬢……!」


「グラントさん、ご心配をおかけしました」


「怪我は」


「ありません」


「本当に」


「本当に。メモも無事です」


「メモなど後でいい」


 グラントは珍しく声が少し高くなっていた。


「無事ならそれで十分です」


(グラントさんが待っていてくださった。そう、待っていたのはグラントさんだ。君を待っていたのはグラントさんだ。わかってる。わかってるのに閣下の声で再生されるのはなぜなんだ。グラントさん申し訳ない)


「グラントさん、そんな顔をされるんですね」


「……そんな顔とは何ですか」


「なんというか、ちょっと感動しました」


「……早く部屋に戻ってください」


 ノエルは深く頭を下げた。


「ありがとうございます、グラントさん。閣下も。クラウスも」


 廊下を歩き始めた。


 背後でクラウスが何か言っていた。

 グラントが窘める声がした。

 ライアスの「黙れ」が聞こえた。


(クラウスのおかげで今夜の閣下の笑顔が観測できた。後でこっそり礼を言おう)


 ノエルはまた、笑いを堪えながら歩いた。


 居室に戻ってから、ノエルはしばらく扉に背をつけて立っていた。


 誰もいない。

 静かだった。


 三秒、静かに立っていた。


 そして。


(ぅああああああああああああああああああ!!!!!)


 声は出なかった。

 出なかったが、脳内で叫んだ。


 叫びながら、両手を口に当てて、その場でくるりと一回転した。


(ライアス様が来た! 本人が! 公爵様本人が! 私のために! 宿坊に! 夜に! 長剣持って! 男三人をあっさり倒して! 君を待っていると言って! 待ってたのはグラントさんだけど閣下が言った! 笑った! 笑顔を私に見せた! 尊い! 尊すぎる! 処理が! 追いつかない!!!)


 膝から崩れ落ちた。


 床にへたり込んで、天井を見上げた。


(前世の給与三ヶ月分と十七周は、今夜のためにあったのかもしれない)


 真剣にそう思った。


 少し落ち着いてから、机に向かった。

 観察日誌を開いた。

 羽ペンを取った。


 しかし何から書けばいいのかわからなくて、三分止まった。


 それから、書き始めた。


「本日、拉致された。ライアス様が直接助けに来た。処理が追いつかない。取り急ぎ記録する」


「君を待っているというお言葉を頂戴した。待っていたのはグラントさんである。わかっている。しかしこのセリフだけ切り取って豪華な額縁に入れて部屋の正面に飾り毎朝拝もうとしている自分がいる。正常ではないとわかっている。でも飾る」


「閣下の微笑を至近距離で初観測。別紙三枚は確定。もしかすると四枚になる」


「今夜の閣下は全方位から尊かった。尊すぎた。記録が追いつかない。記録が追いつかないと書いたが書き続ける。なぜならこれは義務だからだ」


 最後に一行、書き添えようとしたとき。

 ノエルは気づいた。


 羽ペンを持つ手の甲に、何か温かいものが垂れていた。


 鼻血だった。

 ゆっくりと、しかし確実に、垂れていた。


(……遅延した)


 ハンカチで鼻を押さえながら、最後の一行を書いた。


「鼻血が出た。今夜の衝撃が遅延して到達したものと思われる。やはり私は成長していなかった。報告以上」


 ノエルは羽ペンを置いた。


 窓の外は、静かな夜だった。


 別紙を四枚、鼻を押さえながら書き終えたのは、夜も深まってからだった。

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