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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果


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14/21

例え答えが分からなくても(ライアス視点)

【ライアス視点】


 夕刻になっても、ベルナード嬢は来なかった。


 ライアスは執務室で書類を処理しながら、報告を待っていた。


 日が完全に落ちた。

 まだ来なかった。


(遅い)


 報告に来るよう、グラントを通じて伝えてあった。


 調査が長引いているのか。

 あるいは何かあったのか。


 ライアスは羽ペンを置いた。

 グラントを呼んだ。


「ベルナード嬢の所在を確認しろ」


 グラントが一礼して退室した。


 ライアスは窓の外を見た。

 もう夜だった。


(昨日、記録庫の担当者が急に出勤できなくなった。今日も何かあった可能性がある)


 理由のない心配は、判断を鈍らせる。

 ライアスは再び書類に向かった。


 グラントが戻ってきたのは、それから小半刻後だった。


 その顔を見た瞬間、ライアスは書類から顔を上げた。


「どうした」


「……ベルナード嬢の居室に、荷物があります」


 グラントは静かに、しかし声に緊張を滲ませて言った。


「本日の夕刻以降、居室に戻った形跡がありません。使用人への聞き取りでも、誰もお姿を見ていません」


「最後に目撃されたのはいつだ」


「午後の早い時刻に、宿坊の方へ向かうお姿を見た者がおります。それ以降は……誰も」


 ライアスは立ち上がった。


「宿坊を確認する。クラウスと守衛二名を呼べ。グラントはここで報告を待て」


「閣下、私も」


「お前は屋敷の指揮を取れ。何かあったとき、ここに判断できる人間がいなければならない」


 グラントが一拍置いてから頷いた。


「……かしこまりました。どうかご無事で」


 ライアスは長剣を手に取りながら、廊下へ出た。


 クラウスと守衛二名が、すぐに合流した。


 夜の庭を、ライアスは速足で進んだ。

 クラウスが隣に並んだ。


 ここ最近、屋敷の中で動き回ることが増えた若い使用人だ。

 頭の回転が速く、足も速い。


「閣下」


 クラウスが走りながら小声で言った。


「宿坊に誰かいる場合、どう動きますか」


「扉を開けて確認する」


「その前に外から状況を把握してからでは」


「扉を開ければわかる」


「中に複数人いた場合、閣下一人で入るのは危険です。私と守衛が先に」


「お前たちは外を固めろ。私が中に入る」


「それでは私たちがお供している意味が……」


 クラウスが食い下がった。


「せめて私だけでも同行を」


「外を固めることが仕事だ。中は私がやる」


「閣下が一番槍というのは順序がおかしいです」


「黙って走れ」


「……はい」


 宿坊が見えてきた。


 小窓から、わずかに明かりが漏れていた。

 人がいる。


「クラウスは右、守衛は左右に控えろ。扉は私が開ける」


「閣下……」


 ライアスは扉を、拳で叩いた。


「公爵家当主ライアス・ヴァルトハインだ。扉を開けろ」


 中から、物音がした。

 それから、しばらく沈黙があった。


 ライアスは鍵を差し込んだ。回した。

 扉が開いた。


 中に、三人いた。

 全員男だった。


 一人は細身で目つきが鋭かった。

 一人は中肉中背で、商人の手代のような風体だった。


 そして三人目が。

 ライアスは一拍、視線を止めた。


 巨体だった。

 頭一つ半はある。肩幅が扉の半分ほどある。首がない。


 どこをどう育てればそうなるのか理解できないような体格の男が、部屋の中央に仁王立ちしていた。


 そしてその男たちの奥に、ベルナード嬢がいた。


 部屋の隅の椅子に座っていた。

 縛られてはいなかったが、三人に囲まれていた。


 ライアスと目が合った瞬間。

 ベルナード嬢の顔が、明らかに「え、閣下が?」という表情になった。


 驚いていた。純粋に、意外だという顔をしていた。


(……何か不満でもあるのか)


 そんなことを一瞬思ったが、今はそれどころではなかった。


 ライアスは三人の男たちに向き直った。


「フェルトン侯爵家の者か」


 細身の男が口を開いた。


「我々は、この者が不法に宿坊に侵入していたため、保護しているのです。侯爵家のご指示で」


「宿坊は公爵家の建物だ。その者は公爵家の事務として、私の指示で調査を行っていた。どこに不法がある」


「それは……」


「答えられないなら、黙れ」


 ライアスが一歩踏み出した。


 そのとき。


 巨体の男が動いた。

 細身の男が「待て」と言う間もなかった。


 巨体がライアスに向かって、一直線に突っ込んできた。


 ライアスは動じなかった。

 一歩だけ右に流した。

 突進の勢いを利用して、巨体の腕を取った。

 足を払った。


 どすん、と大きな音がした。

 巨体が床に転がった。


 室内に、沈黙が降りた。


 細身の男と中肉中背の男が、交互にライアスと床の巨体を見た。


「……なんで」と中肉中背の男が呟いた。


「次は誰だ」


 ライアスは静かに、しかしはっきりと言った。


 細身の男が、素早く中肉中背の男の袖を引いた。


「……退きましょう」


 二人は素早く後退った。

 床に転がった巨体も、うめきながらなんとか立ち上がり、よたよたと二人の後を追った。


「今すぐここから出て行け。次に公爵家の者に手を出せば、正式な告発として処理する。侯爵家のご意向とは無関係に」


 三人は、無言で宿坊を出て行った。


 扉が閉まった。


 室内に、ライアスとベルナード嬢と、入口に控えたクラウスだけが残った。


 ライアスはベルナード嬢を見た。


「怪我は」


「……ありません」


 ベルナード嬢が立ち上がった。

 その顔が、まだ「え、閣下が?」の余韻を引きずっていた。


「あの、閣下が直接来てくださるとは思っていなくて」


「なぜ」


「守衛の方々が来てくださると思っていたので……公爵様が直々に、というのは想定しておりませんでした」


「グラントは屋敷で君を待っている」


 ベルナード嬢が、少し止まった。


(……君、と言われた)


 ライアスには見えていなかったが、ベルナード嬢の脳内で何かが起きているのは、その顔でわかった。

 どこかに保存でもするような目をしていた。


「……かしこまりました」


 しばらくしてから、ベルナード嬢は続けた。


「記録は、話しかけられる前に懐に入れました。取られていません。話した内容も何も。内部の業務確認だと言って、それ以上は答えませんでした」


(拘束されながら、記録を守っていた)


「……よくやった」


 ベルナード嬢が少し黙った。

 そしてその顔が、ゆっくりと何かに染まっていった。


 明らかに内側で何かが猛烈な勢いで動いているような顔だった。


「……ありがとうございます」


 声は、辛うじて普通だった。

 しかし目が、どこか内側を向いていた。


 そのとき、クラウスが扉の外から声をかけた。


「閣下……」


「なんだ」


「先ほどの件ですが」


 クラウスの声に、遠慮と小言が混在していた。


「私がいるのに、一人で中に乗り込んでいくのは……」


「制圧した。問題なかっただろう」


「問題なかったからいいというわけでは……私は閣下のお側にいるために来たんです。それなのに扉の外に控えさせて、閣下が一人で乗り込んでいくのは」


「外を固めることが仕事だと言った」


「守衛の方々がいます。私は閣下の」


 クラウスが少し声を上げた。


「せめて一緒に入らせてください、次からは」


「次はない方がいい」


「それはそうですが……」


 クラウスが、言葉に詰まった。


 そのやり取りを聞いていたベルナード嬢が、小さく噴き出した。


 笑いを堪えようとして、堪えきれなかった、という種類の音だった。


 ライアスが見ると、ベルナード嬢が口元を押さえていた。


「申し訳ありません。クラウスと閣下のやり取りが……」


 ベルナード嬢が笑っていた。

 先ほどまで拘束されていた人間が、今笑っていた。


 ライアスは、その顔を見て、思った。


(笑える状況ではないのに、笑っている)


 おかしな娘だと思った。

 しかし同時に、少しだけ、力が抜けた気がした。


 無事だ、ということが、ようやく実感として入ってきた。


 その瞬間、ライアスの口元が、ほんのわずかだけ動いた。


 笑った、と言うには微かすぎる。

 しかし確かに、動いた。


 クラウスが気づいた。

 目を、丸くした。


 それはもう完全に、「閣下が笑った」という顔だった。


 ライアスはクラウスの顔を見て、気づいた。

 気づいて、すぐに表情を戻した。


「……行くぞ」


「は、はい!」


 クラウスの返事が、上ずっていた。


 ベルナード嬢の方はといえば。

 口元を押さえたまま、凍りついていた。


 笑顔のまま、固まっていた。

 目が、完全に内側を向いていた。


(またあの顔だ)


 ライアスには理解できなかった。

 しかし鼻血は出ていなかった。

 それだけは確認できた。


「行くぞ、ベルナード嬢」


「……はい」


 声が、少し上ずっていた。


 宿坊を出て、屋敷に向かった。


 夜の庭を歩きながら、クラウスがライアスの斜め後ろをついてきた。

 その歩き方が、どこかふわふわしていた。


「クラウス」


「はい!」


「どうした」


「いえ、その……閣下が、笑われたので」


「笑っていない」


「笑っておられました。私は見ました。本当に、確かに、口元が」


「気のせいだ」


「気のせいではありませんでした。ずっとここで働いていますが、初めて見ました、あんな閣下を」


「黙れ」


「はい」


 クラウスが黙った。


 しかし三歩歩いてから、また口を開いた。


「……感動しました」


「うるさい」


 後ろからベルナード嬢の気配がした。

 また、笑いを堪えているような気配だった。


(この状況で、なぜ笑えるんだ)


 ライアスには、やはり理解できなかった。


 屋敷の入口に着いたとき、グラントが待っていた。


 ベルナード嬢の顔を見た瞬間、グラントの表情が、ライアスが長年見たことのない種類に変わった。


 五十年の奉公人の顔が、一瞬、ただの心配していた老人の顔になった。


「ベルナード嬢……!」


「グラントさん、ご心配をおかけしました」


「怪我は」


「ありません」


「本当に」


「本当に。メモも無事です」


「メモなど後でいい」


 グラントは珍しく声が少し高くなっていた。


「無事ならそれで十分です」


 ベルナード嬢が少し目を丸くした。


「グラントさん、そんな顔をされるんですね」


「……そんな顔とは何ですか」


「なんというか、ちょっと感動しました」


「……早く部屋に戻ってください」


 グラントが咳払いをした。

 いつもの表情に戻ろうとしていたが、完全には戻っていなかった。


 ベルナード嬢が少し笑った。


「かしこまりました。ありがとうございます、グラントさん。閣下も。クラウスも」


 深く頭を下げて、廊下を歩いていった。


 三人はその背中が見えなくなるまで、そこに立っていた。


 クラウスがぽつりと言った。


「……閣下が笑っておられたの、ベルナード嬢も気づきましたよね、絶対」


「黙れ」


「顔が固まっていましたもの、あの方」


「黙れと言っている」


「グラントさん、見ましたか。閣下が」


「クラウス」


 グラントが静かに、しかし有無を言わさぬ声で言った。


「今夜のことは胸の内に留めておきなさい」


「……はい」


 クラウスが黙った。


 グラントがライアスを見た。


「閣下、今夜の件の対応は」


「明日、改めて動く」


 ライアスは言った。


「向こうは一線を越えた。こちらも動く」


「ベルナード嬢は」


「調査を続けさせる。今後は一人では動かせない。クラウスをつける」


 クラウスが、背筋を伸ばした。


「……かしこまりました」


 今度は、上ずっていなかった。


 グラントとクラウスが退室した。


 廊下に一人になった。


 ライアスは、ベルナード嬢が歩いていった廊下の先を、しばらく見ていた。


(守衛の方々が来ると思っていた、と言った)


 確かに、当主が一介の事務員を直接救いに行くのは、異例かもしれなかった。


 しかし自分の指示で動いていた人間が、自分の屋敷で拘束された。

 ならば自分が動くのは、当然の話だ。


 それだけのことだ。


(それだけの、はずだ)


 ライアスは執務室に戻った。


 今夜、フェルトン侯爵家への対応を考えなければならなかった。

 やることは多い。


 それでも、羽ペンを手に取るまで、少しだけ時間がかかった。


 宿坊の室内で、ベルナード嬢が笑った顔が、頭の隅に残っていた。


 そしてその後、ライアス自身の口元が動いたのを、あの娘が見ていた。

 その後の顔が、凍りついていた。


(……あれは、何だったんだ)


 答えは出なかった。

 今夜も、出なかった。


 しかし今夜は、出ないことが、それほど気にならなかった。

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