例え答えが分からなくても(ライアス視点)
【ライアス視点】
夕刻になっても、ベルナード嬢は来なかった。
ライアスは執務室で書類を処理しながら、報告を待っていた。
日が完全に落ちた。
まだ来なかった。
(遅い)
報告に来るよう、グラントを通じて伝えてあった。
調査が長引いているのか。
あるいは何かあったのか。
ライアスは羽ペンを置いた。
グラントを呼んだ。
「ベルナード嬢の所在を確認しろ」
グラントが一礼して退室した。
ライアスは窓の外を見た。
もう夜だった。
(昨日、記録庫の担当者が急に出勤できなくなった。今日も何かあった可能性がある)
理由のない心配は、判断を鈍らせる。
ライアスは再び書類に向かった。
グラントが戻ってきたのは、それから小半刻後だった。
その顔を見た瞬間、ライアスは書類から顔を上げた。
「どうした」
「……ベルナード嬢の居室に、荷物があります」
グラントは静かに、しかし声に緊張を滲ませて言った。
「本日の夕刻以降、居室に戻った形跡がありません。使用人への聞き取りでも、誰もお姿を見ていません」
「最後に目撃されたのはいつだ」
「午後の早い時刻に、宿坊の方へ向かうお姿を見た者がおります。それ以降は……誰も」
ライアスは立ち上がった。
「宿坊を確認する。クラウスと守衛二名を呼べ。グラントはここで報告を待て」
「閣下、私も」
「お前は屋敷の指揮を取れ。何かあったとき、ここに判断できる人間がいなければならない」
グラントが一拍置いてから頷いた。
「……かしこまりました。どうかご無事で」
ライアスは長剣を手に取りながら、廊下へ出た。
クラウスと守衛二名が、すぐに合流した。
夜の庭を、ライアスは速足で進んだ。
クラウスが隣に並んだ。
ここ最近、屋敷の中で動き回ることが増えた若い使用人だ。
頭の回転が速く、足も速い。
「閣下」
クラウスが走りながら小声で言った。
「宿坊に誰かいる場合、どう動きますか」
「扉を開けて確認する」
「その前に外から状況を把握してからでは」
「扉を開ければわかる」
「中に複数人いた場合、閣下一人で入るのは危険です。私と守衛が先に」
「お前たちは外を固めろ。私が中に入る」
「それでは私たちがお供している意味が……」
クラウスが食い下がった。
「せめて私だけでも同行を」
「外を固めることが仕事だ。中は私がやる」
「閣下が一番槍というのは順序がおかしいです」
「黙って走れ」
「……はい」
宿坊が見えてきた。
小窓から、わずかに明かりが漏れていた。
人がいる。
「クラウスは右、守衛は左右に控えろ。扉は私が開ける」
「閣下……」
ライアスは扉を、拳で叩いた。
「公爵家当主ライアス・ヴァルトハインだ。扉を開けろ」
中から、物音がした。
それから、しばらく沈黙があった。
ライアスは鍵を差し込んだ。回した。
扉が開いた。
中に、三人いた。
全員男だった。
一人は細身で目つきが鋭かった。
一人は中肉中背で、商人の手代のような風体だった。
そして三人目が。
ライアスは一拍、視線を止めた。
巨体だった。
頭一つ半はある。肩幅が扉の半分ほどある。首がない。
どこをどう育てればそうなるのか理解できないような体格の男が、部屋の中央に仁王立ちしていた。
そしてその男たちの奥に、ベルナード嬢がいた。
部屋の隅の椅子に座っていた。
縛られてはいなかったが、三人に囲まれていた。
ライアスと目が合った瞬間。
ベルナード嬢の顔が、明らかに「え、閣下が?」という表情になった。
驚いていた。純粋に、意外だという顔をしていた。
(……何か不満でもあるのか)
そんなことを一瞬思ったが、今はそれどころではなかった。
ライアスは三人の男たちに向き直った。
「フェルトン侯爵家の者か」
細身の男が口を開いた。
「我々は、この者が不法に宿坊に侵入していたため、保護しているのです。侯爵家のご指示で」
「宿坊は公爵家の建物だ。その者は公爵家の事務として、私の指示で調査を行っていた。どこに不法がある」
「それは……」
「答えられないなら、黙れ」
ライアスが一歩踏み出した。
そのとき。
巨体の男が動いた。
細身の男が「待て」と言う間もなかった。
巨体がライアスに向かって、一直線に突っ込んできた。
ライアスは動じなかった。
一歩だけ右に流した。
突進の勢いを利用して、巨体の腕を取った。
足を払った。
どすん、と大きな音がした。
巨体が床に転がった。
室内に、沈黙が降りた。
細身の男と中肉中背の男が、交互にライアスと床の巨体を見た。
「……なんで」と中肉中背の男が呟いた。
「次は誰だ」
ライアスは静かに、しかしはっきりと言った。
細身の男が、素早く中肉中背の男の袖を引いた。
「……退きましょう」
二人は素早く後退った。
床に転がった巨体も、うめきながらなんとか立ち上がり、よたよたと二人の後を追った。
「今すぐここから出て行け。次に公爵家の者に手を出せば、正式な告発として処理する。侯爵家のご意向とは無関係に」
三人は、無言で宿坊を出て行った。
扉が閉まった。
室内に、ライアスとベルナード嬢と、入口に控えたクラウスだけが残った。
ライアスはベルナード嬢を見た。
「怪我は」
「……ありません」
ベルナード嬢が立ち上がった。
その顔が、まだ「え、閣下が?」の余韻を引きずっていた。
「あの、閣下が直接来てくださるとは思っていなくて」
「なぜ」
「守衛の方々が来てくださると思っていたので……公爵様が直々に、というのは想定しておりませんでした」
「グラントは屋敷で君を待っている」
ベルナード嬢が、少し止まった。
(……君、と言われた)
ライアスには見えていなかったが、ベルナード嬢の脳内で何かが起きているのは、その顔でわかった。
どこかに保存でもするような目をしていた。
「……かしこまりました」
しばらくしてから、ベルナード嬢は続けた。
「記録は、話しかけられる前に懐に入れました。取られていません。話した内容も何も。内部の業務確認だと言って、それ以上は答えませんでした」
(拘束されながら、記録を守っていた)
「……よくやった」
ベルナード嬢が少し黙った。
そしてその顔が、ゆっくりと何かに染まっていった。
明らかに内側で何かが猛烈な勢いで動いているような顔だった。
「……ありがとうございます」
声は、辛うじて普通だった。
しかし目が、どこか内側を向いていた。
そのとき、クラウスが扉の外から声をかけた。
「閣下……」
「なんだ」
「先ほどの件ですが」
クラウスの声に、遠慮と小言が混在していた。
「私がいるのに、一人で中に乗り込んでいくのは……」
「制圧した。問題なかっただろう」
「問題なかったからいいというわけでは……私は閣下のお側にいるために来たんです。それなのに扉の外に控えさせて、閣下が一人で乗り込んでいくのは」
「外を固めることが仕事だと言った」
「守衛の方々がいます。私は閣下の」
クラウスが少し声を上げた。
「せめて一緒に入らせてください、次からは」
「次はない方がいい」
「それはそうですが……」
クラウスが、言葉に詰まった。
そのやり取りを聞いていたベルナード嬢が、小さく噴き出した。
笑いを堪えようとして、堪えきれなかった、という種類の音だった。
ライアスが見ると、ベルナード嬢が口元を押さえていた。
「申し訳ありません。クラウスと閣下のやり取りが……」
ベルナード嬢が笑っていた。
先ほどまで拘束されていた人間が、今笑っていた。
ライアスは、その顔を見て、思った。
(笑える状況ではないのに、笑っている)
おかしな娘だと思った。
しかし同時に、少しだけ、力が抜けた気がした。
無事だ、ということが、ようやく実感として入ってきた。
その瞬間、ライアスの口元が、ほんのわずかだけ動いた。
笑った、と言うには微かすぎる。
しかし確かに、動いた。
クラウスが気づいた。
目を、丸くした。
それはもう完全に、「閣下が笑った」という顔だった。
ライアスはクラウスの顔を見て、気づいた。
気づいて、すぐに表情を戻した。
「……行くぞ」
「は、はい!」
クラウスの返事が、上ずっていた。
ベルナード嬢の方はといえば。
口元を押さえたまま、凍りついていた。
笑顔のまま、固まっていた。
目が、完全に内側を向いていた。
(またあの顔だ)
ライアスには理解できなかった。
しかし鼻血は出ていなかった。
それだけは確認できた。
「行くぞ、ベルナード嬢」
「……はい」
声が、少し上ずっていた。
宿坊を出て、屋敷に向かった。
夜の庭を歩きながら、クラウスがライアスの斜め後ろをついてきた。
その歩き方が、どこかふわふわしていた。
「クラウス」
「はい!」
「どうした」
「いえ、その……閣下が、笑われたので」
「笑っていない」
「笑っておられました。私は見ました。本当に、確かに、口元が」
「気のせいだ」
「気のせいではありませんでした。ずっとここで働いていますが、初めて見ました、あんな閣下を」
「黙れ」
「はい」
クラウスが黙った。
しかし三歩歩いてから、また口を開いた。
「……感動しました」
「うるさい」
後ろからベルナード嬢の気配がした。
また、笑いを堪えているような気配だった。
(この状況で、なぜ笑えるんだ)
ライアスには、やはり理解できなかった。
屋敷の入口に着いたとき、グラントが待っていた。
ベルナード嬢の顔を見た瞬間、グラントの表情が、ライアスが長年見たことのない種類に変わった。
五十年の奉公人の顔が、一瞬、ただの心配していた老人の顔になった。
「ベルナード嬢……!」
「グラントさん、ご心配をおかけしました」
「怪我は」
「ありません」
「本当に」
「本当に。メモも無事です」
「メモなど後でいい」
グラントは珍しく声が少し高くなっていた。
「無事ならそれで十分です」
ベルナード嬢が少し目を丸くした。
「グラントさん、そんな顔をされるんですね」
「……そんな顔とは何ですか」
「なんというか、ちょっと感動しました」
「……早く部屋に戻ってください」
グラントが咳払いをした。
いつもの表情に戻ろうとしていたが、完全には戻っていなかった。
ベルナード嬢が少し笑った。
「かしこまりました。ありがとうございます、グラントさん。閣下も。クラウスも」
深く頭を下げて、廊下を歩いていった。
三人はその背中が見えなくなるまで、そこに立っていた。
クラウスがぽつりと言った。
「……閣下が笑っておられたの、ベルナード嬢も気づきましたよね、絶対」
「黙れ」
「顔が固まっていましたもの、あの方」
「黙れと言っている」
「グラントさん、見ましたか。閣下が」
「クラウス」
グラントが静かに、しかし有無を言わさぬ声で言った。
「今夜のことは胸の内に留めておきなさい」
「……はい」
クラウスが黙った。
グラントがライアスを見た。
「閣下、今夜の件の対応は」
「明日、改めて動く」
ライアスは言った。
「向こうは一線を越えた。こちらも動く」
「ベルナード嬢は」
「調査を続けさせる。今後は一人では動かせない。クラウスをつける」
クラウスが、背筋を伸ばした。
「……かしこまりました」
今度は、上ずっていなかった。
グラントとクラウスが退室した。
廊下に一人になった。
ライアスは、ベルナード嬢が歩いていった廊下の先を、しばらく見ていた。
(守衛の方々が来ると思っていた、と言った)
確かに、当主が一介の事務員を直接救いに行くのは、異例かもしれなかった。
しかし自分の指示で動いていた人間が、自分の屋敷で拘束された。
ならば自分が動くのは、当然の話だ。
それだけのことだ。
(それだけの、はずだ)
ライアスは執務室に戻った。
今夜、フェルトン侯爵家への対応を考えなければならなかった。
やることは多い。
それでも、羽ペンを手に取るまで、少しだけ時間がかかった。
宿坊の室内で、ベルナード嬢が笑った顔が、頭の隅に残っていた。
そしてその後、ライアス自身の口元が動いたのを、あの娘が見ていた。
その後の顔が、凍りついていた。
(……あれは、何だったんだ)
答えは出なかった。
今夜も、出なかった。
しかし今夜は、出ないことが、それほど気にならなかった。




