説明のつかないお金(ノエル視点)
【ノエル視点】
問題は、いつも数字の中に潜んでいる。
ノエルはそろばんの珠をはじきながら、給与台帳の束を一枚一枚、丁寧にめくっていた。
屋敷の改革が一段落した今、次の仕事は公爵領全体の人件費の洗い出しだった。
グラントから引き継いだ台帳は、部署別に整理されていた。
整理されてはいたが、分類の基準が部署ごとに違った。
そのあたりはご愛敬だ。まずは全体を把握することが先決だと、ノエルは黙々と作業を続けた。
(前世でも給与計算は面倒だったが、この世界の方が面倒だ。Excelがない)
そろばんを弾きながら、前世への哀愁を嚙み締める。
しかし手は止めない。
台帳を読み込むこと三日目。
ノエルの手が、一箇所で止まった。
「……ん?」
騎士団物資調達管理文官。
役職名だけ見れば、立派だ。
物資の調達を所管する、騎士団付きの文官。
給与は中級文官クラスで、それなりの額が毎月支払われている。
しかし。
(この名前、他の台帳でも見た気がする)
ノエルは別の台帳を引っ張り出した。
公爵家直属の事務部門の台帳だ。
あった。
同じ名前が、別の役職で載っていた。
公爵家庶務補佐官。
二つの役職。二つの給与。しかし名前は一人分。
ノエルはさらに台帳をめくった。
三つ目があった。
領地行政連絡調整役。
一人の人間が、三つの役職を持ち、三つ分の給与を受け取っていた。
ノエルはそろばんを取った。
三役職分の給与を合計した。
出た数字を見て、珠を止めた。
もう一度、計算した。
同じ数字が出た。
(一人で、これだけ……)
次に、過去の台帳を引っ張り出した。
五年前にも、同じ名前があった。
七年前にもあった。
ライアス様の両親がご存命だった頃から、ずっと続いていた。
ノエルは七年分の合計を出した。
そろばんの珠が、静かに積み上がった。
数字を前に、ノエルはしばらく、そろばんから手を離さなかった。
(これは……使用人何人分の給金になる)
脳内で変換した。
公爵家の下働きの使用人が、生涯真面目に働いて稼ぐ金額と、同じくらいの数字が、一人の人間に七年かけて流れていた。
しかも、その人間が何をしているのか、台帳には実績が何も残っていない。
(誰かが、この家の金を、七年間吸い続けていた)
ノエルはゆっくりと、次の台帳を手に取った。
次の異常は、別のページから出てきた。
公爵家専属宿坊指導役。
肩書きだけ見れば、宿坊の運営と礼儀作法の指導を担う聖職者だ。
公爵家に宿坊があることは、ノエルも知っていた。
貴賓を迎える際の礼拝空間として使われる、小さな建物だ。
しかし台帳を見ると、この役職の給与が、他の聖職者と比較して明らかに高い。
ノエルは宿坊の利用記録を引っ張り出した。
直近一年間で、宿坊が実際に使われた記録は三件だった。
三件。
(おかしい)
さらに調べると、宿坊指導役の出勤記録が見当たらなかった。
宿坊を実際に管理している使用人の名前も、台帳のどこにもない。
(では誰が管理しているんだ、あの建物は)
ノエルは使用人のクラウスに声をかけた。
「クラウス、宿坊って誰が管理しているか知ってる?」
「宿坊ですか……えっと、よくわかんないです。使ったことないし……」
クラウスは少し考えてから、首を傾けた。
「あ、そういえば、あそこって誰かが出入りしているの見たことないかもしれないです。なんか、いつも閉まってる印象で」
「宿坊指導役っていう聖職者の方を知ってる?」
「……名前、聞いたことないです。そんな方、いらっしゃるんですか」
ノエルは静かに、メモを取った。
(誰も会ったことがない。だが給与だけは毎月払われている)
三重給与の件は、せめて実在する人間による問題だ。
しかしこちらは、もっと根が深い気がした。
その日の夕刻、ノエルはグラントを訪ねた。
「少しよろしいですか」
グラントがメモを手に取った。
黙ってめくっていた。
最初の数字を見たとき、グラントの表情が、ほんの少し固まった。
次のページ。
また固まった。
全部見終えるまで、グラントは一言も言わなかった。
テーブルにメモを置いたとき、返事まで、妙に間が空いた。
「……把握していたものと、把握できていなかったものがございます」
「把握していた方は」
「騎士団物資調達管理文官については……」
グラントはわずかに言葉を選んでから続けた。
「名前だけの役職だという話は、以前から耳にしておりました」
「なぜ動かなかったんですか」
沈黙があった。
「……フェルトン侯爵家が、背後にいるからです」
グラントがその名を出した瞬間だけ、声がまた一段、低くなった。
「侯爵家の縁故採用、ということですか」
「はい。先代公爵ご夫妻がご存命だった頃に、侯爵家との関係維持のために受け入れた、と。以来、七年」
「七年間、誰も動かなかった」
「……動ける状況ではありませんでした」
珍しく、グラントの言い方がはっきりしていなかった。
「宿坊指導役については」
「把握できておりませんでした」
グラントは静かに言った。
「ただ……宿坊指導役は、外部の聖職者組織との窓口を兼ねる場合があります。その組織を通じて、何らかの金の流れがある可能性が……」
グラントはそこで、少し口を閉じた。
「まだ、確認が取れていないことです」
「二件とも、閣下にご報告が必要ですね」
「はい」
グラントは続けた。
「ベルナード嬢、一点だけ申し上げておきます」
「なんですか」
「調査を進めれば、妨害が入る可能性があります。記録が消されるかもしれない。関係者に口止めが入るかもしれない」
グラントの声は静かだったが、重かった。
「フェルトン侯爵家は、そういうことができる立場にある家です」
ノエルは少し考えた。
(前世でも、似たような状況があった)
「グラントさん」
ノエルは言った。
「帳簿に問題があれば、報告するのが私の仕事です。その先の判断は閣下がされます」
グラントはしばらく黙っていた。
「……わかりました」
「明日、閣下に報告しましょう。ただし」
グラントは続けた。
「記録の写しを、念のため複数作っておいてください。原本だけでは、何かあったときに困ります」
「今夜のうちに作ります」
◇
翌朝。
執務室に呼ばれたとき、ライアスはすでに台帳のコピーを手にしていた。
グラントが事前に届けておいたらしい。
「確認した」
ライアスは静かに言った。
「三つの役職を一人が持ち、三倍の給与を受け取っている」
「はい」
「七年間で、この金額が流れていた」
「はい」
「わかっている」
その声に、静かな、しかし確かな怒りが混じっていた。
「縁故採用であろうと」
ライアスは言った。
「私の領地で、説明のつかぬ金が七年流れていた。当主として、止めなければならないことだ」
(推しが、公爵として、覚悟を言葉にした)
ノエルの胸の奥で、何かが静かに動いた。
ヲタクの感情とは、少し違う種類の何かが。
「フェルトン侯爵家については」
「慎重に進める必要があります」
グラントが続けた。
「相手は上位貴族です」
「わかっている」
ライアスは台帳を置いた。
「だからといって放置はしない。事実を積み上げてから動く。それだけだ」
ライアスがノエルを見た。
「よく見つけた」
「まず実態の確認が必要です」
ノエルは続けた。
「三役職を持つ人物が、実際に何の仕事をしているか。宿坊指導役が実在するか。それぞれ調査が必要です」
「グラントと二人でやれ。進め方はお前に任せる」
「かしこまりました」
「無理はするな」
その一言が、また、静かに落ちてきた。
(無理はするな、と言われた。覚悟を見せた直後に。心配顔で)
脳内の何かが、今度は静かな方向に着火した。
鼻血の予感があった。
全力で踏みとどまった。
辛うじて、今日は無事だった。
その夜の観察日誌には、短く書いた。
「本日、給与台帳より重大な問題を二件発見。七年分の累積額を計算して、しばらく手が止まった。グラントさんは記録の写しを複数作れと言った。長年この屋敷を守ってきた人間の動き方だと思った」
そして最後に、別のことを一行だけ書いた。
「閣下は今日、公爵として話された。尊い。この感情、分析が必要かもしれない」




