見えない気持ちと答え合わせの感情(ライアス視点)
【ライアス視点】
問題のある人間は、切る。
それがライアスの判断基準だった。
置いておけば腐る。周囲に伝播する。対処にコストがかかる。
なら切る。
それだけだ。
だからグラントからベルナード嬢の報告を聞いたとき、ライアスは迷わなかった。
「三人とも解雇でいいだろう。新しい人間を手配しろ」
至極当然の判断だと思った。
しかしベルナード嬢は、「少し待っていただけますか」と言った。
そして。
「違います」
一言だった。
しかしその一言が、執務室の空気を変えた。
ライアスは、言葉が一瞬、途切れた。
(……今、何と言った)
否定された、という事実より先に、別の驚きが来た。
正面から来た。
遠回しでもなく、媚びるでもなく、言い訳を重ねるでもなく。
真っ直ぐに、こちらの目を見て、「違います」と言った。
周囲に、そういう人間がいなかった。
部下は黙って従った。使用人たちは反論しなかった。令嬢たちは媚びるか距離を取るかのどちらかだった。
グラントでさえ、遠回しに示唆することはあっても、正面からは来なかった。
誰も、こういう形では来なかった。
(この娘は、何者なんだ)
その問いが浮かんだとき、ベルナード嬢は続けていた。
「人は財産でございます。切って新しいものを入れれば解決、という単純な話ではありません」
根拠があった。
マーガについては二十三年の経験を失うコスト。ヘルガについては戦力の損失。ダンカンについては照合の結果を待つべき理由。
全て、論理的だった。
(……続けろ)
気づいたら、そう言っていた。
理解できた、というよりも。
理解できないのに、否定する気にもなれなかった。
そのことの方が、ライアスには奇妙だった。
報告を受けてから数日後、グラントが各部署の動きを伝えてきた。
マーガが後進に仕入れを教え始めたこと。
ヘルガの対処をベルナード嬢が引き受けたこと。
ダンカンについては倉庫の照合を進めているということ。
「ベルナード嬢は、現場の使用人一人ひとりから話を聞いた上で、それぞれに対応を変えています」
「マーガについては、恐怖から技術を囲い込んでいたということが判明しました。問題の根が、私が把握していたものとは違っていました」
グラントが、わずかに目を伏せた。
(グラントが、把握できていなかった)
五十年この屋敷を管理してきた男が、見落としていたことがある。
ベルナード嬢は、話を聞いたから見えた。
ライアスが無意味だと思っていた、その時間が、情報を引き出した。
(自分は、何を見ていたんだ)
その問いを、ライアスは胸の奥に置いた。
まだ、答えは出せなかった。
ヘルガへの紹介状の件を聞いたとき、ライアスは少し止まった。
(問題を起こした人間に、なぜそこまでする)
理解できなかった。
しかし否定する気にも、なれなかった。
それがベルナード嬢らしい、と思った。
なぜそう思うのかは、わからなかった。
「……構わない。グラントが作れ」
判断は早かった。
先日まで、問題のある人間には時間を使わないと思っていた。
今、問題のあった人間の今後について、ほぼ迷いなく許可を出していた。
(変わったのか、私が)
答えは出なかった。
しかし問いが浮かぶこと自体、以前はなかった。
◆
ダンカンの夜のことは、正確に書き残しておく必要がある。
庭で剣の素振りをしていたとき、声が聞こえた。
「お前のせいだ!」
踏み込んだ。
ダンカンがベルナード嬢に掴みかかろうとしていた。
ベルナード嬢は木の枝を拾い上げて構えていた。
その光景を見た瞬間、ライアスの中で何かが着火した。
怒りだった。
騎士団の部下が傷つけられたときとは違った。
領民が害を受けたと報告を受けたときとも違った。
もっと直接的で、もっと速かった。
理屈より先に体が動いていた。
(この娘に、手を出すな)
ダンカンをねじ伏せることに、一秒もかからなかった。
その怒りの速さが、ライアス自身にとって、少し奇妙だった。
地面に転がったダンカンが、口を開いた。
止まらなかった。
「長年尽くしてきたのに! 見てくれもしなかったくせに!」
「誰も見ていない、誰も気にしない! そのくらいの見返りがあって何が悪いんですか!」
醜かった。
その言葉の醜さに、ライアスは静かな嫌悪を覚えた。
しかしある瞬間、別のものが来た。
(この言葉を、ベルナード嬢も聞いた)
いや、これだけではない。
ベルナード嬢は各部署を回った。
一人ひとりに話を聞いた。
怖いと言っていた使用人。
仕事を教えてもらえなかった若者。
誰も見てくれなかったと言う者。
評価されなかったと言う者。
そういう声を、一つひとつ、正面から受け取ってきた。
今ダンカンがここで吐き出しているものを、あの娘は現場で直接聞いていた。
(……この娘は、何をしていたんだ)
ライアスは執務室で書類を見ていた。
グラントの報告で状況を把握していた。
しかしベルナード嬢は、人の前に立って、その言葉を受け取り続けていた。
痛みを伴うものも含めて。
(同じ屋敷の、同じ問題を。まるで別の場所から見ていた)
その事実が、静かに、しかし確かに刺さった。
守衛が駆けつけたとき、ライアスは静かに指示を出した。
「空き部屋に閉じ込めておけ。明朝、処遇を決める」
ダンカンは最後まで罵声を上げ続けた。
声が遠ざかってから、ライアスはベルナード嬢に向き直った。
「怪我は」
「……ありません」
足元が、わずかに定まっていなかった。
手を差し伸べた。引き上げた。
立ち上がったとき、まだ揺れていた。
手を放さなかった。腰を支えた。
「大丈夫か」
至近距離で聞いた。
ベルナード嬢が顔を上げた。
その顔が、瞬時に何かに染まった。
そして。
ぶっ、と音がした。
鼻血だった。
(……どういうことだ)
思考が、完全に止まった。
たった今まで、ダンカンに襲われていた人間が。
鼻血を出していた。
しかも笑っていた。
「大丈夫です! 走ってきたのでのぼせたみたいで、ご心配なく、失礼します!」
一息で言い切って、走り去った。
夜の庭に、ライアスが一人残された。
(……なぜ鼻血が出るんだ、あの娘は)
今夜何度目かの疑問が、静かに落ちてきた。
答えは、出なかった。
◆
それから数日が経った。
屋敷の空気が、変わった。
「マーガが若い料理人に仕入れを教えています。厨房の雰囲気が、以前より明るくなりました」
「縫製部門は、使用人たちが互いに補い合っています」
「倉庫は、誰でも動かせるようになりました」
グラントの報告を聞きながら、ライアスは静かに思った。
(問題のある人間に時間をかけることは、無意味だと思っていた)
無意味ではなかった。
同じ時間に、全く違うものが入っていた。
それだけが、ライアスの中に残った。
グラントが退室した後、ライアスは一人で執務室にいた。
書類に向かおうとして、手が止まった。
ベルナード嬢のことを、考えていた。
夜の庭で木の枝を構えた令嬢。
鼻血を出しながら笑顔で走り去った令嬢。
廊下で壁に張り付いて天を仰いでいる令嬢。
(奇妙な娘だ)
そう思いながら、不快ではなかった。
次は何をするのか、少し気になっていた。
(少し、楽しい)
その感覚が、どこから来たのかわからなかった。
楽しい、という感情を、ライアスはいつ最後に覚えたのか。
覚えていない。
しかし今、確かにそれがあった。
ライアスは羽ペンを手に取った。
(……私は、今、楽しんでいるのか)
その問いに、今夜は、答えが出た。
出てしまった。
文字は、いつもより少しだけ、軽かった。




