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【連載版】推しの氷結公爵に事務能力で雇われたので、今日も平静を装って尊死しています  作者: 江合 花果


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公爵家の未来(グラント視点】

【グラント視点】


 騒動から、数日が経った。


 夜の静けさの中で、グラントは再び筆を執った。


 前回書いたものは、まだ引き出しの中にある。

 読み返す気にはなれない。

 しかし今夜も、書かなければならない気がした。


 騒動の前、私は密かに思っていたことがある。

 今だから正直に書く。


 ベルナード嬢が各部署の問題を洗い出してきたとき、私の頭の中に、ある考えが浮かんだ。


 大きな問題がなければ、現状のままでも良いのではないか、と。


 長年ベテランとして配置した人間を動かすことは、難しい。

 その人間が辞めれば、一時的に現場は混乱する。

 新しい人間が慣れるまでの間、業務の質は落ちる。

 多少仕事がやりにくいと感じる者もいるだろう。

 しかしそれも仕事の内だ。

 多少の摩擦は、どこの職場にもある。


 そう思っていた。


 ベルナード嬢は、その考えを全て打ち砕いた。


 打ち砕かれた後でようやく、私は気づいた。

 大きな問題がないのではなく、問題が見えていなかっただけだ、と。


 怖いと言っていた使用人がいた。

 仕事を教えてもらえないと言っていた若者がいた。

 備品の数が合わないと困惑していた者がいた。


 全員が、私のすぐそばにいた。


 四十三年、この屋敷にいて、私には見えていなかった。


 ◆


 マーガのことを書く。


 あの女が仕入れを手放すことを、私はほぼ不可能だと思っていた。

 長年一人で抱えてきた仕事を、他者に渡せる人間ではないと判断していた。


 だからベルナード嬢に、うまくやってくれ、とだけ言った。

 正直に言えば、半ば諦めていた。


 しかしマーガは変わった。


 後から聞いた話だが、マーガは長年、自分が評価されない人間だと思っていたらしい。


 厨房の花はコックだ。

 食事を作り、客に出し、料理長に功績が帰着する。

 仕入れを担う人間は、出来て当然、出来なければ不要。

 そういう立場だと、マーガは思い続けていた。


 だから若い料理人が自分の仕事を覚えれば、自分が不要になる。

 その恐怖が、技術の囲い込みに繋がっていた。


 それを知ったとき、私は自分の鈍さを改めて恥じた。


 マーガは仕事をサボっていたわけではない。

 不正を働いていたわけでもない。

 ただ、怯えていただけだ。


 自分の居場所を失うことへの、静かな恐怖の中で、二十三年間働いていた。

 それに気づけなかった。


 ベルナード嬢は、その恐怖を取り除くことを先にした。

 しかも本人に説教するのではなく、若い料理人の笑顔を使って。


 あの方法は、私には思いつかなかった。


 それから数日でのマーガの変わりようは、目を見張るものがあった。


 若い料理人に仕入れを教え始めた。

 後輩の意見を聞いて、自分のやり方を少し変えてみることもあった。

 後輩が仕入れを担えるようになった分、今まで後回しにしていた作業に手が回るようになった。


 先日バルトが私に言った。


「マーガが最近よく笑うんですよ。何があったんですかね」


 何があったか、私にはわかる。


 変わったのは仕事の量ではない。

 自分が必要とされているという実感が、変わったのだ。


 マーガは相変わらず口数が少なく、素直にお礼を言うような性格ではない。

 しかしある朝、廊下でベルナード嬢と行き違いになったとき、マーガが一度だけ立ち止まったのを私は見た。


 何も言わなかった。

 ただ、わずかに頭を下げた。


 それだけだったが、私にはわかった。


(あれが、マーガなりの感謝だ)


 ベルナード嬢も何も言わなかった。

 ただ、静かに頷き返して、歩き続けた。


 二人とも、何も言わなかった。

 それで十分だったのだと思う。


 ◆


 ヘルガのことを書く。


 退職の日の前日、ベルナード嬢が私のところへ来た。


「グラントさん、少しよろしいですか」


 何かと思えば、縫製部門の使用人たちへの説明のことだった。


 ベルナード嬢はヘルガが退職することを、現場の使用人たちに丁寧に伝えていた。

 その際、一時的に人手が足りなくなることへの謝罪と、業務の再編について説明したという。


「そうしたら」


 ベルナード嬢は少し間を置いてから続けた。


「一部の使用人から、相談を受けまして」


「相談、とは」


「ヘルガさんの性格については、責められる部分があったかもしれない。でも、縫製の腕は確かで、それを教えてもらったことへの感謝もある。退職は仕方ないとしても、今後をどうにかしてやれないか、という話でした」


 私は少し、黙った。


(ヘルガを恨んでいるだけではなかった、ということか)


「……そのような声が」


「はい。全員ではないと思います。ただ、何人かから」


 ベルナード嬢はそのまま続けた。


「今回はこういう形になってしまいましたが、ヘルガさんが縫製部門を長年支えてくれたことは事実です。そこで培ったスキルは、本物だと思います。人の管理が難しい環境よりも、技術者として個人の腕が問われる場所の方が、ヘルガさんには向いているかもしれない。王都に、腕のある縫製職人を探している商会があると聞いたことがあります。紹介状を出せないでしょうか」


「……閣下のご許可が必要です」


「もちろんです。閣下にお伺いを立てていただけますか」


 私はライアス様に報告した。

 ライアス様は少し考えてから、静かに言った。


「……構わない。グラントが作れ」


 それだけだった。


 私は紹介状を作成した。


 退職の日、ヘルガは午前中に荷をまとめ、玄関まで出てきた。

 使用人たちは誰も見送りに来なかった。

 私だけが、玄関で待っていた。


「グラントさん」


 ヘルガが言った。


「見送りは不要と申しましたのに」


「私の判断です」


 ヘルガは少し黙った。


「……誰も来ませんでしたね」


「はい」


「そうですか」


 その声が、いつもより小さかった。


 ヘルガは長年、笑顔の裏に何かを隠してきた人間だ。

 今日は、その笑顔がなかった。


「改めて、お暇をいただきます。長年お世話になりました」


「お疲れ様でした」


 ヘルガが踵を返そうとしたとき、私は懐から封筒を取り出した。


「これを」


 ヘルガが振り返った。


「……何ですか」


「王都にある衣料品を主に扱う商会への紹介状です。腕のある縫製職人を求めていると伺っています」


 ヘルガの表情が、少し固まった。


「……受け取れません。今回このような形での退職で、こういうものをいただく立場にはありません」


「実はこれは、ベルナード嬢が頼んできたものです」


 沈黙があった。


「……ベルナード嬢が」


「はい。ただ、ベルナード嬢だけではありません」


 ヘルガが、わずかに眉を動かした。


「縫製部門の使用人たちの一部から、ヘルガさんの今後を心配する声があったそうです。ヘルガさんに縫製を教えてもらったことへの感謝も、あったと聞きました」


 ヘルガが、静かに息を呑んだ。


「……そのような声が」


「ベルナード嬢はその声を受けて、動いたようです。閣下のご許可もいただいています。私が作成しました」


 ヘルガはしばらく、封筒を見つめていた。

 手が、わずかに震えていた。


「……あの子たちは」


 ヘルガがゆっくりと言った。


「私のことを、恨んでいなかったのですか」


「全員ではないかもしれません。しかし、感謝している者もいたということです」


 長い沈黙があった。


 ヘルガは封筒を受け取った。

 何も言わなかった。

 深く頭を下げて、踵を返した。


 歩き出したヘルガの肩が、わずかに震えていた。

 泣いているのかもしれなかった。


 私は声をかけなかった。


 ヘルガは振り返らずに、門を出て、王都の方へ歩いていった。

 その背中が見えなくなるまで、私はそこに立っていた。


 ◆


 ダンカンについては、短く書く。


 照合の結果、横領の総額は相当な額に上ることが確認された。

 ライアス様のご判断で、ダンカンは鉱山での強制労働に処された。


 正当な処罰だ。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 ただ、私には悔しさがある。


 四十三年、この屋敷に仕えてきた。

 人を見ることを、仕事の根幹に置いてきた。

 それでも、見抜けなかった。


 ダンカンが鍵を独占していることは知っていた。

 やり方が強引だという噂も、耳に入っていた。

 しかし動かす根拠が弱いと、私は自分に言い聞かせ続けた。


 それは嘘だ。


 正確に言えば、動くことが面倒だったのだ。


 ベテランを動かせば現場が混乱する。

 根拠が弱いまま動いて角が立てば、屋敷の空気が悪くなる。

 そういう計算が、私の中にあった。


 その間も、ダンカンは屋敷の備品を少しずつ持ち出し続けていた。


 長年この屋敷に仕えた者が、この屋敷を食い物にしていた。

 そしてそれを止められなかった者が、家令として屋敷を管理していた。


 悔しい。


 ダンカンへの怒りよりも、自分への情けなさの方が、今は大きい。


 鉱山で何十年も強制労働に服するダンカンの末路について、私は同情しない。

 屋敷を蝕んだ者への報いとして、それは正当だ。


 ただ、それを冷たく総括できるのは、自分自身への怒りがあるからだと思っている。


 見抜けなかった責任は、私にもある。

 その事実だけは、忘れないようにしようと思う。


 ◆


 騒動が落ち着いた今、屋敷の空気が変わった。


 変わった、というより、軽くなった。


 ヘルガがいなくなった洗濯・縫製部門では、若い使用人たちが伸び伸びと動いている。

 最初の数日は人手不足で混乱したが、互いに助け合う動きが自然に生まれた。

 ベルナード嬢がシフトを整備し、業務の流れを整えたことで、一週間もすれば落ち着いてきた。


 ダンカンがいなくなった倉庫は、今やベルナード嬢が作成した管理表に基づいて、誰でも動かせるようになった。

 新しく着任した若い管理担当が、戸惑いながらも、少しずつ覚えてきている。


 四十三年、私はこの屋敷を支えてきた。

 その自負はある。


 しかしベルナード嬢が来たことで、私一人では動かせなかったものが、動き始めた。


 それは、認めなければならない。

 認めたくなかった部分も、正直あった。

 しかし今は、認めた上で言える。


 この屋敷は、さらに良くなる。


 そういう予感がある。


 ◆


 最後に、少し別のことを書く。


 ベルナード嬢の奇行については、今更説明する必要もないだろう。


 鼻血。

 ヨダレ。

 物置小屋での謎の昇天。

 廊下での独り言。

 早朝のランニング。

 夜の筋力鍛錬。

 常に携帯している謎のノート。


 私は長年、様々な人間を見てきた。

 しかしベルナード嬢のような方は、前例がない。


 前例がないにもかかわらず、仕事は確かで、屋敷への貢献は明らかで、使用人たちの信頼は厚い。

 それがまた、不思議でならない。


 ライアス様も、お困りのようだ。


 先日、私が執務室に入ると、ライアス様が書類を手にしたまま、窓の外を見ておられた。


「何かございましたか」


 と尋ねると、


「……ベルナード嬢が、また廊下で壁に張り付いていた。今度は天井を見上げていた。何かを呟いていた」


 とおっしゃった。


「左様でございますか」


「……原因はわかるか」


「わかりかねます」


 ライアス様は少し黙った。


「……そうか」


 それだけ言って、書類に戻ろうとされた。


 そのとき、私は気づいた。

 ライアス様の口元が、ほんのわずかだけ、動いた。


 笑った、と言うには微かすぎる。

 しかし確かに、動いた。


 私は何も言わなかった。


 しかし心の中で、もう一つのことも思っていた。


 ライアス様が、他者のことをここまで気にかけておられるのを、私は見たことがなかった。

 坊ちゃんと呼んでいた頃も。

 当主になってからも。


 あの方は、人に関心を向けることが少ない方だった。

 戦力として把握する。実務として確認する。

 それがライアス様の人との関わり方だと、私は思っていた。


 しかしここ最近、ライアス様が窓の外を見る回数が増えた。

 報告の中でベルナード嬢の名前が出ると、書類から顔を上げることが増えた。

 廊下でベルナード嬢の様子を確認してから執務室に戻ることも、一度や二度ではない。


 これほど他者を気にかけるライアス様を、私は今まで見たことがない。

 初めて見る。


 その事実が、私の中で静かに、しかし確かに、膨らんでいく。


 私は廊下を歩きながら、思い描いた。


 謎のノートを抱えてにこにこしながら廊下を歩くベルナード嬢の横で、無表情のまま何かを言いかけて口を閉じるライアス様の姿を。

 鼻血を出しながら満面の笑みで走り去るベルナード嬢の背中を、呆気に取られた顔で見送るライアス様の姿を。

 物置小屋で天を仰いでいるベルナード嬢を、廊下の窓から静かに眺めながら、静かに首を傾けるライアス様の姿を。


 そのどれもが、四十三年の奉公の中で、一度も見たことのない光景だった。


 しかし、悪くない光景だった。


 むしろ。


 非常に、良い光景だった。


 あの方があんな表情をされるとは、思ってもみなかった。

 戸惑いながらも、しかし確かにそこにいる。

 ベルナード嬢の奇行に振り回されながら、それでもその傍を離れない。


 そういうライアス様の姿が、これからも続くのかもしれない。

 いや、きっと続く。


 私はそう思った。


 廊下の角を曲がりながら、五十年の奉公人として初めて、口元を少しだけ緩めた。

 誰にも見られていない廊下で、少しだけ。


 公爵家の次の世代のことを、今夜初めて、少し別の角度から考えた。

 それで十分だった。


 ◆


 筆を置いた。


 今夜の紙も、折り畳んで引き出しにしまった。


 蝋燭の炎が、静かに揺れた。


 明日も、この屋敷のために働く。

 それは変わらない。


 ただ今夜は、その言葉の先に、少しだけ、明るいものが見えた気がした。

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