07 武術指南のはずだが
セオドアは急いだせいか脈が速い。
呼吸を整えてから応接間の一番手前のドアを開けた。
マリスはちょうどセオドアが入ってきたドア付近にいて、騎士隊員が着る訓練用の隊服でドアに背を向け立っていた。
訓練時の騎士隊員は厚手の上着を着用しない。
マリスの上半身は今、隊服であるシャツに包まれている。
彼女の鍛えられた体躯はそのシャツの上からでも感じられる。
また急にセオドアの脈が速まる。
彼女が振り返った。
彼女の黒髪がサラリと揺れて少しだけ茶色がかった黒の瞳がセオドアの視界に入る。
瞬間、窓から太陽の光が差し込んだような気がする。
更に脈が速くなる。
おかしいな、体調不良か?、とセオドアは訝しむが、とにかくマリスとの時間は一瞬たりとも大事にせねばならない。
「王太子殿下にお目にかかる栄誉に心より感謝いたします。本日もどうぞよろしくお願いいたします」
マリスがいつも通りの口上を述べる。
セオドアがにっこり頷いて言う。
「マリス先生、こちらこそよろしくお願いします。
で、マリス。
今日は前回と同じ室内での襲撃を想定した体術の鍛錬の予定だから、このままこの場所で始めるでいいね?」
客間の家具は予め少し移動されていてスペースが確保されている。
「はい、そうですね。
王太子殿下、それではまず準備運動から始めましょう。
準備運動はフェリクスとジャスティンがこちらに並んで……」
「マリス」
セオドアがマリスの話を遮った。
セオドアがマリスの正面に立ち、マリスは仕方なく背筋を伸ばしてセオドアに対峙する。
「……はい、……殿下」
「…………マリス、鍛錬最初の挨拶よりあとは私を名前で呼ぶんだったよね?
前回も前々回もその前にも話してる。そう約束したよ?
敬称も敬語もダメだ。
これは鍛錬なんだから、瞬時の対応の為にはそうすることが必要だし、
そもそもマリスは指南役で、私が指示される方。そうだね?」
( ……始まりましたね )
( ……始まったな )
「……しかも、フェリクスとジャスティンには呼び捨てにと求められてすぐに応じたのに、私だけ殿下呼びのままなのは承服しかねるね。
より鍛錬そのものに集中するためには必要なことなんだ。
ちゃんと、セオドア、と呼んでくれないか?」
「は、はい。……セ、オドア王太子殿下」
「だめだよ。セオドア、だ」
「……ェォゥゥ……」
「残念、聞こえないよ。セ、オ、ド、ア」
「……=ー+<@……」
王太子の『嫌がらせ』が今日も始まった。
一瞬たりとも無駄にできないはずの鍛錬の時間をこんなことで結構つぶされてしまうのが最近続いている。
セオドアは庭での鍛錬の休憩時に、美しい庭を望む四阿にティーセットを整えてセオドア自らマリスにお茶を振るまうという責め苦を与えてくることもある。
うまく考えたものだ。
国で二番目に偉い雲の上の王太子殿下が平民のマリスに友人のように接してきて、しかもマリスにも同じ対応を求めてくるのだ。
これはなかなか手の込んだ『嫌がらせ』だ。
罠である可能性も捨てきれない。
本当に王太子を「セオドア!」などと呼んだ瞬間にマリスは不敬罪で投獄されるのではないだろうか。
ケビンまでもが引責で罰を受ける可能性もある。
マリスは今日も耐える。耐えている。
とにかくこの時間そのものがマリスへダメージを与えるのに効果的なことは間違いない。
マリスはかなりの重圧を精神に受ける。
セオドアの要望に沿うための鍛錬も……結構やりにくい。
……滅茶苦茶やりにくい。
マリス自身もセオドアの求めに対し通り一遍の動きを教えるだけでいいかもしれないのに、指南役という重い呼び名に引き摺られて、ついついマリスの手の内を披露してしまう。
それがセオドアのより高い要求に繋がって気付けばマリスは悪循環にはまって抜け出せない状況だ。
大変悲しいことにこの処遇には多大な波及効果もあって、マリスは王城関係者はおろか噂話とは広まるのも早いもので、一般市民からも見つかったら泥玉を投げられるくらい皆から疎まれている。
これもセオドアの読み通りといったところか。
最初マリスという騎士がセオドアに怪我をさせたという事態に周囲の者は腫物に触るがごとくマリスを遠巻きにした。
次にマリスがそのセオドアの武術指南役になったと聞いてセオドアの謙虚さに皆が心を打たれた。
そしてその後、王城内で繰り返し定期的にセオドアとセオドアの側近二人に混じって小娘のマリスが武術指南にあたる姿が晒され出す頃には……騎士団には毎日抗議文が届くようになった。
平民の小娘マリスがセオドアの指南役としてセオドアと共に時間を過ごしているのだ。
しかも結構頻繁にだ。
しかもマリスは剣術大会でセオドアを伸すという大罪を犯した張本人。
例え気高い王太子殿下ご自身が許しても周囲の怒りは収まらない。
しかし一方、フェリクスとジャスティンは別のことを考えていた。
武術の鍛錬に精神教育は欠かせない。
セオドアには人格者たる道を求める姿勢が幼少期より説かれているのだ。
後ろ暗い心情は、以前はあったかもしれないが、とうに克服した事案のはずだ。
だからこそ王城に出仕している全ての人間が王太子殿下は大変な人格者であると心から認識している。
役職が低い者に対しても、たまたま城下で会った一般市民が相手でも、一度言葉を交わせば覚えていて名前を呼んで励ましたりするのが王太子なのだ。
偉ぶったりもしない。
と言うことは、明らかに戸惑っている相手に対して自分の要求を押し付けるのはおかしいはずだ。
だいたい王太子を名前で呼ぶと言うこの要求。
そんなにどうしても強いることなのか?
ジャスティンはセオドアに尋ねたことがある。
名前呼びは平民のマリスには負担が大きいのではと。
セオドアは太陽の微笑みを湛えて言った。
「大きいとか小さいとかじゃないんだ。
私が一段階成長するためには絶対必要なことなんだ」
「ほぉーー……ぉ?」
ジャスティンはなんか分からないことを言い出したセオドアにそれ以上言葉を継げなかった。
セオドアの方はこのマリスとのやり取りが時間を浪費しているとはまったく考えていない。
理由は絶対必要だからだ。
そしてなぜだか没頭してしまう。
マリスからセオドアが友人のように扱われることを勝ち取りたいのだ。
勝ち取らねばならないのだ。
(なんなんだ。このセオドアはなんなんだ。
見たことが無いセオドアだ。
マリスは、セオドアの変な扉を開けちゃったんだな。
剣術大会で一撃を入れられて、別人格出てきたのかもな)
やれやれやれとジャスティンは見つからないようにため息をついた。




