30 懸念は理解したはずだが
マリスという人には、毒を浄化する特殊能力があるのではないだろうか。
今、そんな夢見心地な妄想を膨らませているのは、ゼントラン王国の青き大輪の薔薇、王太子妃候補筆頭のシレーヌ・エゼルセフ公爵令嬢様だ。
先ほどまで一行は、王都で、今、一番人気のあるカフェの個室にいた。
お菓子の包み紙のような色の調度と小さな花柄が散りばめられた壁紙の、少女の夢の世界を具現化したような、可愛いい以外の言いようが無い部屋だった。
個室に案内されたのは、お忍びの建前でだが、西の隣国から国賓として王国を訪れている王女タチアーナと、更に偶然居合わせた公爵令嬢シレーヌだ。
店側としても、最大級の緊張を持って接客に臨んだ。が。
緊張しすぎた。
接客係の女性は顔面蒼白で王女の飲み物を運んで来たのだが、王女以外のその場にいた全員の応援虚しく、なんと王女の着ていたドレスに、飲み物を零してしまった。
((((( あああああ )))))
声にならない透明な悲鳴が空気を揺らした。
飲み物は、赤い実の果実水だったのだ。
接客係は、その場で床にしゃがみこんでしまった。
場が凍る。
「あ、あのー……零れましたね?……これで拭きましょう」
マリスが一番最初に席から立って、タチアーナの横で跪いた。
ハンカチを出して、シミを押さえる。
飲み物はほとんどが床の絨毯に零れたため、タチアーナに掛かった分量はさほど多くない。
タチアーナは、怒りがこみ上げそうになったが、マリスがタチアーナの為に跪いていることが麗しくて、すぐにそちらに気が入った。
マリスはポンポンと数回ハンカチで叩いてから、まだしゃがみこんだままだった接客係の女性に言った。
「立てますか? 手伝った方が良いですか? なんならお姫様だっこでもします?」
マリスは少し空気を変えようと、ある人物を頭に浮かべて、ちょっとだけ冗談ぽく言葉を掛けてみた。
マリスはたまたま王城の外階段の近くでその人を見ていたのだ。
案の定、接客係は我に返って立ち上り、
「大変失礼いたしました!」
と謝罪した。
そしてそのまま腰を深く折って頭を下げ、沙汰を待つ姿勢になった。
「ターニャ、果実水を、もう一度持ってきてもらいましょうね」
「マーリス、そうね。……そうだわ、グ…侍女其の三が持ってきてちょうだい」
タチアーナが言ったこの言葉、一見いつもの我儘のように聞こえる。
しかし店側の緊張は限界点を越えている。
侍女其の三であるグレタが個室の入口辺りから運んでくるというのは悪い案ではないかもしれない。
もしかして、この王女、気を回したのか?
その上、
「あなたも、もういいわよ。行きなさい」
タチアーナは頭を下げ続けている接客係の女性を許したのだ。
いつものタチアーナなら、怒ってそこらじゅうの物を投げつけるか、接客係の謝罪など無いものとして無視し続けるか、とにかく、何かを収拾するという作業は一切しないはずだ。
周囲にできるのは気が済むまでの時間をやり過すことだけだ。
それでも、今日は違った。
そのあと、店側は一行が出立するまで何度も謝罪を繰り返したので、却ってタチアーナの機嫌を損ねかねないと、警護要員や侍女たちはハラハラするぐらいだったが、タチアーナはそれにも何か言うことはなかった。
なのだが。
「ねえねえ、なんとか言うサロンに早く行きましょ。ドレスを着替えたいわ」
当初から、カフェに行ったあとに、すぐ横にある仕立て屋のサロンへ行くことになっていた。
タチアーナの要望がそうだったからだ。
ただ、時間の関係で今日はサロンの中を見るだけですぐ帰るという予定だった。が、確かに。
小さいとは言え、王女のドレスにはシミが付いてしまった。
すぐに拭いたので目立たないが、残ってはいる。
ドレスが元々薄桃色だったので、本当に目立たないが、残ってはいる。
タチアーナは王女。国賓。シミのドレスを着せたままでいいのか?
これはギリギリ我儘ではなく、致し方ない要望と……言えなくもない。
しかも、今日の王女はいつになく感じが良いので、なんとかして差し上げたいような気持ちにも実はなる。
警護要員たちは時間の予定を調整し、王城へも報告の者を送って、サロンでの滞在時間を増やすことにした。
そして今、成り行きでカフェからサロンにまで侍女と共に付いて来てしまったシレーヌは、サロンの長椅子に座っているのだ。
タチアーナの、なんだか毒の抜けたタチアーナの、着替えを待っているのである。
王女一行には少しだけ付き合ったら、すぐにカフェを出て公爵邸に帰ろうと思っていたのだが、果実水が宙を舞う事態に、自分のことがちょっと言い出せない雰囲気になってしまったのだ。
それに、思いのほか、楽しい時間を過ごした気がする。
そのサロンへ、走るみたいに入店して来た者がいた。
シレーヌは即座にソファから腰を上げて恭しく挨拶をした。
「ふー、エゼルセフ公爵令嬢……、君も来ていたんだね」
いつもなら、太陽のごとき柔らかな笑みを浮かべて紡がれる言葉が、今日はやや固い表情のままで発っせられた。
セオドアがフェリクスの連絡を受けて、出先から慌てて駆け付けたのだ。
セオドアは玉のような汗を大量に額にかいている。
かなり急いで来たようだ。
「エゼルセフ公爵令嬢、そ、れで、……えー、そのー」
これも、いつものセオドアと随分違うのだが何か言い淀んでいる。
シレーヌは訝しがるがすぐに理解した。
「王太子殿下、ご安心ください。
タチアーナ王女殿下はご機嫌も大変麗しく、今は着替えるドレス選びを楽しんでおられます」
王太子殿下の懸念。これですよね。
「んっ? あっ、その、そのー、……良かった。そうか……んー」
ん? 違いました?
そのとき、何か楽しそうに数人で話す声がセオドアの背後から聞こえた。
サロンは貸し切りにされている。
着替えを終えたタチアーナだろうとセオドアは振り向いた。
瞬間、セオドアの、頭の中が、真っ白に、なった。
現れたのは女性が二人か三人か……
セオドアには、でも、たった一人しか見えなかった。
そこにはドレスに包まれる、マリスが立っていたのだ。




