サイドストーリー 偽りの歌姫、そのメッキが剥がれ落ちるまで
鏡に映る自分を見て、私はうっとりと溜息をついた。
滑らかな肌、大きな瞳、そして艶やかな唇。どこからどう見ても、私は完璧だった。
「十年に一人の逸材」「天使の歌声」。
ネットや学校で囁かれる称賛の言葉たちは、決して大げさな表現じゃない。それこそが、私、高城結愛という人間にふさわしい評価なのだ。
「やっぱり、私は特別なんだわ」
放課後の女子トイレで、私はリップを塗り直しながら独りごちた。
そう、私は特別。選ばれた人間。
だからこそ、付き合う相手や環境も、私に見合う「一流」のものでなければならない。
そう考えた時、脳裏に浮かぶのは、幼馴染であり今カレである相沢湊の顔だ。
地味で、目立たなくて、いつも私の後ろをついて回るだけの男。
彼が作る曲は、確かに私の声を綺麗に響かせてくれる。悪くはない。これまではそれで満足していた。
でも、最近出会った神崎蓮司くんの話を聞いて、私は気づいてしまったのだ。
『お前の才能、あんなお遊戯レベルの曲で消費されていいのか?』
蓮司くんの言葉は、雷に打たれたような衝撃だった。
彼は他校の三年生で、プロも注目する超絶技巧のギタリスト。ルックスも洗練されていて、湊とは比べ物にならないオーラがある。
彼が言う通りだ。湊の作る曲は、耳馴染みはいいけれど、どこか古臭くて平凡。私の「天才的な才能」を世界に見せつけるには、あまりにも器が小さすぎる。
「ごめんね、湊。あんたはよくやったよ。私の踏み台として」
鏡の中の私に向かって、冷酷に微笑んでみせる。
罪悪感? そんなものはない。
だって、才能ある人間は、より高いステージへ羽ばたく義務があるのだから。重たい荷物を切り捨てるのは、当然の判断でしょう?
***
「あんたの作るお涙頂戴の古臭い曲には飽きたの」
第二音楽室で、私は湊に向かってそう告げた。
湊の顔が、信じられないものを見るように歪む。その情けない表情を見て、私は内心で舌を出した。
あーあ、本当に惨め。
どうして今まで、こんな冴えない男を彼氏にしていたんだろう。私の黒歴史だわ。
「私は神崎くんと『本物』を目指すから」
隣に立つ蓮司くんの腕に絡みつき、私は勝利者の気分で胸を張った。
蓮司くんの腕は筋肉質で、頼りがいがある。湊の華奢な腕とは大違いだ。
それに、この優越感。
学校一の美少女である私が、一番イケてる先輩と付き合う。これこそが「お似合い」のカップルというものだ。
湊が必死に何か言っていたけれど、耳障りなだけだった。
努力? 根性? そんなもので天才の私が動かされると思っているの?
私は生まれながらの歌姫なの。努力なんてしなくても、マイクの前に立てば世界中が私にひれ伏す運命にあるのよ。
「さよなら、湊」
湊を突き放し、音楽室を出た瞬間、私はかつてない解放感に包まれた。
足枷が外れた。
これで私は、大空へ羽ばたける。
蓮司くんとの新曲でコンテストを総舐めにして、スカウトに見初められて、華々しくメジャーデビュー。
そんな輝かしい未来が、すぐそこまで来ていると信じて疑わなかった。
***
しかし、その「輝かしい未来」への道は、私が想像していたよりも遥かに険しいものだった。いや、険しいというよりは、何かが根本的に噛み合わない感覚だった。
「チッ……またズレた」
スタジオの防音室に、蓮司くんの舌打ちが響く。
その音を聞くたびに、私の肩はビクリと跳ねた。
「結愛、お前さ。今のフレーズ、半音下がってるって分かんねえの?」
「ご、ごめん……」
「謝る前に直せよ。耳悪いのか?」
蓮司くんの言葉は鋭利なナイフのように、私のプライドを削り取っていく。
おかしい。こんなはずじゃない。
私は天才のはずだ。今までだって、湊の曲は一度か二度歌えば完璧にこなせていた。それなのに、どうして蓮司くんの曲はこんなにも歌いにくいのだろう。
曲が難解なのは確かだ。プログレッシブ・メタルとかいうジャンルらしい。
変拍子が多すぎてリズムが取れないし、メロディの起伏が激しすぎて喉が追いつかない。
特に高音パート。私が一番自信を持っているハイトーンボイスが、この曲のキーだとどうしても出ないのだ。
「ねえ、蓮司くん。ここ、もう少しキー下げてくれないかな? その方が私の声の響きが良いと思うんだけど」
勇気を出して提案してみた。
湊なら、『そうだね、結愛の声が一番大事だから』と二つ返事で調整してくれたはずだ。
けれど、蓮司くんは冷ややかな目で私を見下ろした。
「は? 俺の曲の構成を変えろって? お前の実力不足に合わせて?」
「そ、そういうわけじゃなくて……」
「甘えんな。原曲キーで歌いこなしてこそプロだろ。それができないなら、お前はその程度の才能ってことだ」
突き放されて、私は何も言えなくなった。
才能がないなんて言われたくない。私は天才なのだから、歌いこなせないはずがない。
そう自分に言い聞かせ、無理やり声を張り上げる。
喉の奥がヒリヒリと焼けるように痛い。声帯が悲鳴を上げているのが分かる。
(水……水が欲しい……)
ふと、足元を見る。
いつもなら、そこには常温の水が入ったボトルが置かれていた。湊が用意してくれていたのだ。
他にも、喉飴や、吸入器、歌詞が見やすいように拡大コピーされた譜面。
私が何も言わなくても、必要なものはすべて湊が先回りして準備してくれていた。
でも今は、何もない。
蓮司くんはギターのチューニングに夢中で、私の喉の状態なんて気にも留めていない。
自分で買いに行かなきゃ。自分で譜面を管理しなきゃ。
「……なんで私がこんな雑用しなきゃいけないのよ」
苛立ちが募る。
私は歌うことだけに集中したいのに。周りが私をサポートして当然なのに。
湊はそういう意味では優秀な「召使い」だったのかもしれない。
でも、もう彼はいない。
私が捨てたのだ。
「大丈夫、私ならできる」
私は乾いた喉を鳴らして、再びマイクに向かった。
この苦しみは、より高いステージへ行くための試練なのだ。そう信じるしかなかった。
***
そして迎えた、コンテスト当日。
楽屋の鏡に映る私は、真っ赤なドレスを着ていた。蓮司くんが選んだものだ。
露出が多くて、胸元がスースーする。ヒールも高すぎて、立っているだけで足が痛い。
湊なら『結愛が動きやすい衣装にしよう』と言ってくれただろうか。
……いや、そんな弱気なことを考えてはダメだ。
「結愛、行くぞ」
蓮司くんがギターを背負って楽屋を出て行く。
私は慌ててその後を追った。
舞台袖に立つと、客席からの熱気が押し寄せてきた。
心臓が早鐘を打つ。手汗が止まらない。
(怖い……)
今まで、ステージに立つのが怖いなんて思ったことはなかった。
いつも隣には湊がいて、『大丈夫、結愛なら世界一の歌が歌えるよ』と背中をさすってくれたから。
機材の調整も完璧だった。マイクの返しも、照明のタイミングも、すべて湊が私のためにコントロールしてくれていた。
でも今の私の隣には、冷たい表情の蓮司くんしかいない。
彼は私のことなど見ていない。客席を見て、どうやって自分が目立つかだけを考えている。
「エントリーナンバー12番! 高城結愛 with Renji!」
名前を呼ばれ、私たちはステージへと歩み出した。
眩しい。照明が強すぎて目が眩む。
マイクスタンドの位置が高い。リハーサルの時より上がっている気がする。誰か直してくれないの?
湊なら、本番直前に必ずチェックしてくれていたのに。
演奏が始まった。
爆音。
蓮司くんのギターとドラムの音が大きすぎて、自分の声が聞こえない。
「返し」のモニター音量を上げてほしいと合図を送ろうとするが、PA席にいるのは知らないスタッフだ。私の意図なんて汲み取ってくれない。
(歌わなきゃ……ここで決めなきゃ……)
私は必死に口を開いた。
「――闇を、切り裂い、て……」
声が出ない。
喉が締め付けられるように硬直し、思った通りの音程にならない。
違う、この音じゃない。もっと高く、もっと伸びやかに歌いたいのに、声が地面を這うように沈んでいく。
焦れば焦るほど、リズムが狂っていく。
蓮司くんの正確無比なギターが、まるで私を責め立てるメトロノームのように聞こえる。
『遅れてるぞ』『音痴だな』
そう言われている気がして、パニックになった。
そして、運命のサビ前。
あの忌々しい超高音パート。
(お願い、出て!)
全身全霊で叫んだ。
しかし、喉から出たのは歌声ではなく、耳障りな金切り声だった。
「キィッ」というノイズが会場中に響き渡る。
時が止まったようだった。
客席の空気が一瞬で凍りつき、その直後、ざわめきと失笑が波のように押し寄せてきた。
『え、何あれ』
『下手くそすぎない?』
『高城結愛ってこんなもん?』
聞こえる。悪意のある囁きが、はっきりと聞こえる。
穴があったら入りたい。逃げ出したい。
どうして? 私は天才のはずなのに。どうしてこんなにも歌えないの?
私の才能はどこへ行ったの?
曲が終わった瞬間、私は崩れ落ちそうになった。
拍手はまばらだった。
早くここから消えたい。そう思っていた時、蓮司くんが私に近づいてきた。
慰めてくれるの? フォローしてくれるの?
「……おい、お前」
マイクを通して響いたのは、冷酷なトドメの一撃だった。
「何やってんだよ。俺の演奏、台無しじゃねえか」
彼は観客の前で、私を罵倒し始めた。
私の失敗をなじり、才能のなさを指摘し、そして最後に言い放った。
「やっと分かったよ。お前の動画の再生数が凄かった理由がな。あれ、前の彼氏……相沢のおかげだろ?」
その名前が出た瞬間、私の世界は完全に崩壊した。
認めたくなかった真実を、一番残酷な形で突きつけられた。
そうか。
私は天才なんかじゃなかった。
湊という優秀なプロデューサーが、私という「素材」を極限まで加工し、磨き上げ、魔法をかけてくれていただけだったのだ。
彼の作る「簡単な曲」は、私の実力不足を隠すための計算された演出だった。
彼の献身的なサポートは、私のメンタルを支えるための命綱だった。
私は、その命綱を自ら切り捨てて、身の程知らずにも断崖絶壁に飛び込んだのだ。
落ちていくのは当然だった。
「二度と俺に関わるな」
蓮司くんは私を見捨てて去っていった。
私は一人、ステージに取り残された。
観客からの視線が痛い。蔑み、憐れみ、そして嘲笑。
「偽物」「パクリ姫」「ゴーストライター依存」。
そんなレッテルが、私にベタベタと貼り付けられていく。
嫌だ。嫌だ。
私は高城結愛よ。特別なのよ。
こんな惨めな姿、私じゃない!
***
その後の記憶は曖昧だ。
ただ、舞台袖で泣きじゃくっていた時、信じられないものを目にしたことだけは鮮明に覚えている。
「NoNameだ!」「本物が来たぞ!」
歓声に迎えられてステージに出て行ったシークレットゲスト。
その人物がフードを脱いだ瞬間、私は呼吸を忘れた。
湊だった。
あの地味で、私の後ろに隠れていた湊が、何千人もの観客を前に堂々と立っている。
彼がギターをかき鳴らし、歌い出した瞬間、会場の空気が一変した。
圧倒的な音圧。心を抉るような歌詞。そして、魂を震わせるような歌声。
上手い。
悔しいけれど、認めざるを得なかった。
蓮司くんのテクニックよりも、私の声よりも、遥かに「本物」だった。
観客は熱狂し、涙を流し、彼の名前を叫んでいる。
(あれは……私の曲だったはずなのに……)
違う。あれは湊の曲だ。
彼が自分のために、自分の感情を乗せて作った曲だ。
私という不純物がなくなったことで、彼の才能は純度百パーセントの輝きを放ち始めたのだ。
私は、ダイヤの原石を捨てて、ただの石ころを拾った愚か者だった。
いや、私自身が、湊という光がなければ輝けない、ただのガラス玉だったのだ。
***
一ヶ月後。
私は廃人のようになっていた。
学校では誰からも相手にされず、ネットでは私の失敗動画が拡散され続けている。
蓮司くんからは連絡の一つもない。
そんな中、湊がメジャーデビューするというニュースが流れた。
私は最後の望みをかけて、彼に会いに行った。
まだ間に合うかもしれない。
私たちは幼馴染で、長く付き合っていたんだもの。情があるはずだ。
私が泣いて謝れば、きっと許してくれる。
そしてまた、私のために曲を書いてくれるはずだ。
第二音楽室。
そこで私は、人生で一番冷たい拒絶を受けた。
「今の俺の中に、お前に対する感情は何一つ残っていない」
湊の瞳は、まるで石ころを見るように無機質だった。
怒られる方がマシだった。憎まれる方がマシだった。
そこには「無関心」という名の、底知れぬ断絶があった。
「お前を輝かせたいという『願い』が、あの歌詞を紡いでいた」
「でも、今の俺にはもう、君のために表現したい感情は何一つ残っていない」
彼の言葉が、私の心臓をえぐる。
愛されていたのだ。誰よりも深く、献身的に。
その愛が、私の才能の正体だったのだ。
それを失った今、私はただの「歌の下手な女子高生」に戻ってしまった。
「さようなら。元気でな」
扉が閉まる音。
それが、私の人生の幕が下りる音のように聞こえた。
残された音楽室は、しんと静まり返っていた。
埃っぽい匂いがする。
かつてここで、私は湊のピアノに合わせて歌っていた。
「結愛はすごいね」「湊の曲は最高だね」と笑い合っていた。
あの温かい日々は、もう二度と戻らない。
私は床に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
でも、誰も助けには来てくれない。水を持ってきてくれる人も、背中をさすってくれる人もいない。
孤独。
これこそが、才能を詐称し、愛を踏みにじった私に与えられた、当然の報いだった。
窓の外からは、どこかのクラスが流しているラジオの音が聞こえてくる。
そこから流れてきたのは、湊のデビュー曲『道化の独白』だった。
世界中に愛されているその曲を、私だけが、地獄のような孤独の中で聴いていた。




