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第四話 残響と決別

季節は秋から冬へと移ろい始めていた。

街路樹の葉は色づき、冷たい北風がアスファルトの上を吹き抜けていく。

だが、今の俺、相沢湊を取り巻く環境は、そんな寒空とは無縁の熱気に包まれていた。


都内某所、大手レコード会社の本社ビル、最上階の会議室。

ガラス張りの窓からは、東京の街並みが一望できる。かつての俺なら、こんな場所に足を踏み入れることさえ想像できなかっただろう。


「――というわけで、デビューシングルのリリース日は来月の初旬で決定だ。プロモーションも大規模に行う。テレビの音楽番組への出演も、いくつか内定しているよ」


重厚なマホガニーのテーブルを挟んで、敏腕と噂されるプロデューサーが資料を広げた。

その資料の表紙には、『新人アーティスト・相沢湊 メジャーデビュープロジェクト』と大きく印字されている。

もはや『NoName』という匿名の殻に閉じこもる必要はない。俺は俺自身の名前で、俺自身の音楽を世界に届ける切符を手に入れたのだ。


「ありがとうございます。……なんだか、まだ夢みたいです」

「夢じゃないさ。君の実力が引き寄せた現実だ。あのコンテストでのゲリラライブ、あれが伝説になった。君の『道化の独白』は、今やストリーミングチャートで三週連続一位だぞ」


プロデューサーは満足げに笑い、コーヒーを一口啜った。


「それにしても、君の作る曲には不思議な引力があるね。技術的に高度なのはもちろんだが、何より『感情の解像度』が高い。痛みも、怒りも、そして希望も、聴く者の心にダイレクトに刺さってくる」

「……感情の解像度、ですか」

「ああ。君がこれまでどんな経験をしてきたかは詳しくは聞かないが、その経験が君の音楽の血肉になっているのは間違いない。君は、選ばれるべくして選ばれたんだよ」


その言葉は、俺の胸の奥に残っていた古傷を、優しく撫でてくれるようだった。

かつて「古臭い」「才能がない」と罵られた俺の感性。

それを肯定し、価値を見出し、こうしてプロの世界へと導いてくれる人たちがいる。

俺はもう、誰かの引き立て役ではない。誰かの喉のご機嫌を伺う必要もない。

ただ、自分が美しいと思う音を追求すればいいのだ。


「期待に応えられるよう、全力を尽くします」

「頼もしいね。じゃあ、今日はこの後、衣装合わせがあるから移動しようか」


席を立ち、窓の外を見下ろす。

眼下に広がる街が、今日はやけに輝いて見えた。


          ***


翌日。俺は久しぶりに学校へ登校した。

デビューに向けた準備で忙しく、公欠扱いで休むことが多くなっていたが、進路の手続きなどでどうしても顔を出さなければならなかったからだ。


校門をくぐると、空気の変化を肌で感じた。

以前のような、俺を「可哀想な捨てられ男」として見る視線はどこにもない。

すれ違う生徒たちは、誰もが俺に敬意と憧れの眼差しを向けてくる。


「あ、相沢くんだ! おはよう!」

「デビューおめでとう! 絶対CD買うからね!」

「サイン頼んでもいいかな? プレミアつくよこれ!」


まるで手のひらを返したような反応だが、嫌な気分はしなかった。

彼らは俺の「音楽」を認めてくれたのだ。ゴーストライターとしてではなく、相沢湊としての成果を評価してくれている。それだけで十分だった。


教室に入ると、クラスメイトたちがわっと集まってくる。

質問攻めにあったり、祝福の言葉をかけられたり。そんな喧騒の中心にいながら、俺の視線はふと、窓際の後ろの席へと向けられた。


そこには、高城結愛が座っていた。

かつてクラスの女王として君臨し、いつも取り巻きに囲まれていた彼女の周りには、今は誰もいなかった。

机に突っ伏し、誰とも目を合わせようとしない。

その背中は以前よりも一回り小さく見え、制服のブラウスは少し黄ばんでいて、自慢だった髪も手入れされていないのかボサボサだった。


コンテストでの大失態と、その後の神崎による暴露。

あれは決定打だった。

「天才歌姫」の正体が、実は元カレの才能を搾取していただけの「ハリボテ」だったという事実は、瞬く間に校内はおろかネット中に拡散された。

今や彼女につけられたあだ名は『偽りの歌姫』『パクリ姫』。

神崎には完全に捨てられ、音楽活動をする場も失い、ただ学校に来て授業を受けるだけの抜け殻のような日々を送っているらしい。


「……ま、自業自得だよな」


近くの男子が小声で囁くのが聞こえた。


「相沢にあんな酷いことして、自分が天才だと勘違いしてたんだからさ」

「神崎先輩も酷いけど、高城も同罪だよね」


その声は結愛の耳にも届いているはずだが、彼女はピクリとも動かなかった。

俺は小さく息を吐き、自分の席に着いた。

同情はない。だが、かつて愛した人がここまで零落した姿を見るのは、どこか空虚な気分にさせられた。


放課後。

担任との面談を終え、俺は帰路につこうと昇降口へ向かっていた。

すると、下駄箱の影から一人の女子生徒が飛び出してきた。


「み、湊……!」


掠れた声。

結愛だった。

近くで見ると、そのやつれ具合は深刻だった。頬はこけ、目の下には濃い隈があり、唇はカサカサに乾いている。かつての輝くような美貌の面影は、見る影もなかった。


「……何?」


俺は足を止めず、短く返した。

関わりたくなかった。今の俺は、過去を振り返っている暇はないのだ。


「待って、お願い! 話を聞いて!」


結愛が俺の袖を掴んだ。その手は骨のように細く、震えていた。

俺は冷めた目でその手を見下ろす。


「離せよ。俺、忙しいんだ」

「少しだけでいいの! お願い、湊にしか頼めないの……!」


その必死な形相に、俺は仕方なく溜息をついた。

ここで騒がれて、他の生徒に見られるのも面倒だ。


「……分かった。少しだけな」


俺たちは人気のない特別棟へと移動した。

行き着いた先は、第二音楽室。

皮肉にも、俺が彼女に捨てられた、あの場所だった。


鍵を開けて中に入ると、埃っぽい匂いが鼻をついた。

あの日以来、誰も使っていないのだろうか。機材には薄っすらと埃が積もっている。

結愛は部屋の中央に立ち、縋るような目で俺を見つめた。


「あのね、湊。デビュー、おめでとう……」

「ああ、ありがとう。用件はそれだけか?」

「ううん、違うの。あのね……私、謝りたくて」


結愛は涙ぐみながら、ポツリポツリと語り始めた。


「私、バカだった。自分の実力も分からないで、調子に乗って……湊のこと、傷つけて。本当にごめんなさい。あの時は、神崎くんに唆されて、正常な判断ができてなかったの」


全て神崎のせいにするような言い回しに、俺は内心で鼻白んだ。

確かに神崎も悪いが、俺を「古臭い」と罵り、楽譜を捨てたのは結愛自身の意思だったはずだ。


「神崎くん、酷いのよ。コンテストの後、私のこと着信拒否して、SNSでも私の悪口を書いて……。私、全部失っちゃった。友達も、居場所も、歌う場所も」

「そうか。それは大変だったな」


俺の声には何の感情も乗らなかった。まるで天気の話をするような平坦な口調。


「だからね、湊。私考えたの。やっぱり私には、湊しかいないんだって」


結愛が一歩、俺に近づいてくる。


「私たちが組んでた時が、一番輝いてたでしょ? 私の声を一番理解してるのは湊だし、湊の曲を一番上手く表現できるのは私だよね? 私たち、最高のパートナーだったじゃない」


彼女は何を言っているのだろうか。

脳の処理が追いつかない。

あれだけのことをしておいて、まだ「最高のパートナー」などと言える神経が理解できなかった。


「……で、結論は?」

「もう一度、やり直したいの」


結愛は俺の手を両手で包み込んだ。その手は冷たく、湿っていた。


「私、湊のためなら何でもする。機材運びでも、宣伝でも、何でもやるから。だから、もう一度私に曲を書いてくれないかな? 湊がデビューするなら、そのフィーチャリングボーカルとして私を使ってくれてもいいし……」


彼女の瞳に宿っているのは、反省の色ではない。

欲望だ。

相沢湊という、今もっとも勢いのある「勝ち馬」に乗り直し、失った地位と名誉を取り戻したいという、浅ましいまでの自己愛と執着。

彼女は何も変わっていない。自分が世界の中心で、他人は自分を輝かせるための道具だと思っている。


俺はゆっくりと、彼女の手を振りほどいた。

結愛の手が空を切り、力が抜けたようにダラリと下がる。


「結愛」

「な、なに……?」

「お前、大きな勘違いをしてるよ」


俺は彼女の目を真っ直ぐに見据えた。

そこには怒りも憎しみもない。あるのは、絶対零度の「無関心」だけだ。


「俺の曲を一番上手く表現できるのはお前じゃない。それはコンテストで証明されただろ? お前は俺がいなきゃ何も歌えない。でも俺は、お前がいなくても世界中を熱狂させることができた」

「そ、それは……でも、練習すれば! 湊が指導してくれれば、私だって……!」

「無理だよ」


俺は静かに、しかし断定的に告げた。


「技術の問題じゃないんだ。根本的な問題なんだよ」


俺は部屋の隅にあるピアノに視線をやった。かつて、二人で並んで座り、新しいメロディを探したピアノだ。


「俺が今までお前に書いてきた曲……あれがなんで評価されてたか分かるか?」

「え……? 曲が、良かったから……」

「そうじゃない。あの曲たちには、『愛』があったからだ」


結愛が息を呑む。


「俺は、お前が好きだった。心から愛してた。お前が世界で一番可愛く見えるように、お前の声が世界で一番美しく響くように、一音一音に魂を削って、祈りを込めて作ってたんだ。だから、聴く人の心に届いたんだよ」


俺は自分の胸に手を当てた。


「俺の創作の源泉は、感情だ。お前への『好き』という感情が、あのメロディを生んでいた。お前を輝かせたいという『願い』が、あの歌詞を紡いでいた」


そして、俺は冷徹な事実を突きつけた。


「でも、今の俺の中に、お前に対する感情は何一つ残っていない」


「え……?」

「好きも、嫌いも、憎しみさえもない。ただの『他人』だ。道ですれ違う赤の他人と同じなんだよ」


結愛の顔から、完全に血の気が引いていく。

彼女にとって、罵倒されるよりも、憎まれるよりも、これが一番残酷な宣告だったはずだ。

アーティストである俺にとって、「感情が動かない対象」というのは、すなわち「表現する価値のない存在」と同義だからだ。


「感情がない相手のために、曲なんて書けるわけがない。俺の音楽はお前を拒絶してるんじゃない。お前を認識すらしていないんだ」


「そ、そんな……嘘よ、嫌……!」

「もう遅いんだよ、結愛」


俺は踵を返した。

もう、話すことは何もない。


「待って! 行かないで! 私、湊がいないと生きていけないの! 独りにしないで!」


背後から、結愛が泣き崩れる音が聞こえた。床を叩き、子供のように泣き叫んでいる。

かつての俺なら、その涙に絆され、振り返っていただろう。

「仕方ないな」と苦笑して、手を差し伸べていただろう。


だが、俺の足は止まらない。

防音扉のノブに手をかけ、重たい扉を開ける。

外からの光が差し込み、薄暗い音楽室を切り裂く。


「さようなら。元気でな」


それだけ言い残し、俺は扉を閉めた。

バタン、という音が、俺と彼女の世界を永遠に分断した。

扉の向こうから微かに聞こえる慟哭は、もはや俺の心に何の波紋も広げなかった。


廊下を歩き出す。

窓から差し込む夕日は、あの日、彼女にフラれた時と同じ色をしているはずなのに、今日は驚くほど暖かく、美しく感じられた。

肩の荷が下りたような、不思議な浮遊感。

俺はようやく、本当の意味で自由になれたのだ。


ポケットに入れていたスマホが震えた。

プロデューサーからだ。

『湊くん、次のスタジオの準備ができたよ。素晴らしいミュージシャンたちが君を待っている。早くおいで』


俺は口元を緩め、返信を打った。

『今、向かいます』


俺は走った。

過去という重力を振り切り、光り輝く未来へと続く道を。

その先に待っているのは、俺の音楽を愛してくれる何万人もの観客と、新しい仲間たちだ。

もう二度と、後ろを振り返ることはない。


俺の物語は、ここからが本当の始まりなのだから。

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