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第二話 それぞれの「新曲」

深夜二時。世界が寝静まった時間帯、俺の部屋だけが青白いモニターの光に満たされていた。

机の上に置かれたコーヒーはとっくに冷めきり、黒い液体が澱んでいる。だが、今の俺にカフェインなど必要なかった。血管を駆け巡る怒りと、それを燃料にして燃え上がる創作意欲が、俺の脳を極限まで覚醒させていたからだ。


「……できた」


ヘッドホンを外し、俺は深く息を吐き出した。背もたれに体重を預けると、安物のオフィスチェアがギシと悲鳴を上げる。

DAW(音楽制作ソフト)の画面には、緻密に組み上げられた波形データが並んでいた。それは、かつて俺が高城結愛のために作っていた、耳馴染みの良いポップスとは似ても似つかない代物だ。


BPM190の高速ビート。不協和音ギリギリの攻めたコード進行。そして、俺自身の喉を枯らすほどに叫び上げた、歪んだボーカル。

タイトルは『道化の独白モノローグ』。

まさに、愛する人のためにピエロを演じ続け、最後に捨てられた俺自身の歌だ。


「これを、世に出すのか」


マウスカーソルが「アップロード」のボタンの上で震える。

今まで俺は、自分の作品を自分の名前で出したことがない。すべては「高城結愛」というブランドを輝かせるためのパーツだった。俺の個性も、俺のエゴも、すべて殺して彼女に合わせてきた。

だが、これは違う。これは俺の傷口から流れた血そのものだ。


「……知るかよ。どうなったっていい」


半ば自暴自棄な気持ちで、俺はクリックした。

動画投稿サイトとSNS。アカウント名は『NoName』。アイコンは真っ黒な背景に、ノイズが走ったような白い線一本という適当なものだ。

説明文には歌詞だけを載せた。


『愛していたなんて嘘だろ? 剥がれ落ちたメッキの下、空っぽの君が笑っている』


誰に向けた言葉か、当事者が見れば一目瞭然だろう。だが、今の結愛や神崎が、こんな底辺の新人アカウントを見るはずもない。

投稿完了の文字を確認すると、急激な睡魔が襲ってきた。俺はそのままベッドに倒れ込み、泥のように眠った。


翌朝。

目を覚ましたのは、スマホのバイブレーションが鳴り止まないからだった。

寝ぼけ眼で画面を見ると、通知の数がとんでもないことになっている。


「え……?」


アプリの不具合かと思った。

昨夜投稿した動画の再生数が、十万を超えていたのだ。

コメント欄が滝のように流れている。


『なんだこれ、クッソかっこいい』

『イントロで鳥肌立った』

『歌詞が刺さりすぎて痛い。失恋したばかりの俺には劇薬だわ』

『新人? 嘘だろ、このミックスの技術プロレベルじゃん』

『誰だよNoNameって。天才か?』


心臓が早鐘を打つ。

高城結愛の動画でも、初動でここまで伸びたことはなかった。

俺は震える指で、拡散元となっていた有名な音楽インフルエンサーの投稿を開いた。

『深夜に巡回してて見つけた。久しぶりに「本物」に出会った気がする。初期衝動と圧倒的な技術の融合。このNoName、絶対に化ける』


その投稿には数万の「いいね」がついていた。

評価されている。

結愛の声じゃない。結愛のルックスじゃない。

俺の作った曲が。俺の歌が。俺の感情が。

「高城結愛」というフィルターを通さずとも、俺の音楽は世界に届いたのだ。


「はは……なんだよ、これ」


乾いた笑いが漏れる。

結愛は言った。「あんたの曲は古臭い」「私が歌うから価値がある」と。

だが現実はどうだ。俺は一人でも戦える。むしろ、誰にも忖度せず、誰の喉の調子も気にせず、自分の好きなように作った曲の方が、遥かに多くの人の心を震わせているじゃないか。


胸の奥にあった重たい鉛のような塊が、少しだけ溶けていくのを感じた。

それは復讐の第一歩であり、何より、俺自身が「音楽家・相沢湊」として産声を上げた瞬間だった。


          ***


その日の放課後。

俺が自分のスマホ画面と睨めっこをしている頃、街のスタジオでは、まったく対照的な光景が繰り広げられていた。


「違う! そこでリズムが走ってるんだよ。何度言ったら分かるんだ?」


神崎蓮司の苛立った声が、防音室に響き渡る。

マイクの前に立つ高城結愛は、肩をびくりと震わせ、怯えたような瞳でガラス越しの神崎を見た。


「ご、ごめん蓮司くん。もう一回、もう一回やらせて」

「……はあ。これでテイク20だぞ。スタジオ代も安くないんだ、いい加減にしてくれよ」


神崎は忌々しそうに舌打ちをし、ミキシングコンソールの操作をした。

スピーカーから、重厚でテクニカルなイントロが流れる。神崎が結愛のために用意した新曲『Crimson Wing』だ。

プログレッシブ・メタルを基調としたその曲は、変拍子が多用され、メロディラインも難解極まりない。ギターの速弾きは見事だが、ボーカルが入る隙間は極端に狭かった。


結愛はヘッドホンを押さえ、必死にオケに食らいつこうとする。

だが、Aメロの入り出しから、ピッチが不安定に揺れた。


「――翼を広げ、空へ……っ」


サビの高音部。結愛の十八番であるはずのハイトーンが、苦しげにかすれ、目標の音程に届かずに裏返った。

キーン、とハウリングのような音が響く。

神崎がバン! と机を叩いて演奏を止めた。


「ストップ。ひどすぎる」


神崎がトークバックのボタンを押す。スピーカーから聞こえる彼の声は、冷徹そのものだった。


「結愛、お前さ。本当に『十年に一人の逸材』なのか?」

「っ……!」

「ピッチは甘いし、リズム感は素人以下。高音も全然伸びてない。前のバンドで歌ってた時はもっとマシだったろ? なんで俺の曲だと歌えないんだよ」


結愛は唇を噛み締め、涙目になりながら反論を試みた。


「だって……この曲、キーが高すぎるのよ。それに、息継ぎする場所が全然なくて……湊……前の時は、もっと歌いやすいように調整してくれてたし……」


つい口から出た元カレの名前に、神崎の眉間へ深い皺が刻まれる。


「あ? あの雑用係と俺を比べるなよ」


神崎はコントロールルームからスタジオに入ってくると、結愛の目の前に仁王立ちした。


「いいか、結愛。あいつの曲はお前に媚びてたんだよ。お前の狭い音域、拙いリズム感に合わせて、レベルを下げて作ってただけの『接待ソング』だ。だからお前は気持ちよく歌えてただけ。分かるか?」

「そ、それは……」

「だが俺は違う。俺は世界を目指してる。俺が作る曲は、世界基準の難易度だ。ボーカリストなら、曲に合わせて進化しろ。俺のレベルまで上がってこい」


神崎の主張は、ミュージシャンとしては正論の一端を含んでいるかもしれない。だが、プロデューサーとしては致命的に欠けているものがあった。それは、演者へのリスペクトと、個性を活かそうとする視点だ。

湊は、結愛の「声の美味しい帯域」を熟知し、彼女が最も輝く音域にメロディを配置していた。苦手な低音部は楽器でカバーし、得意な高音部は最大限に引き立つように前後の音を抜いた。

それが「愛」であり「プロデュース」だったのだが、神崎にとって結愛は、自分のギターテクニックを見せつけるための「装飾品」でしかなかった。


「でも……文化祭のコンテストまで、あと二週間しかないのよ? こんな難しい曲、間に合わないわ」

「間に合わせるんだよ。才能があるならできるだろ?」


神崎は冷たく言い放つと、結愛の顎を指でくいと持ち上げた。


「それとも、お前はただの『作られた歌姫』だったのか? あの地味な元カレがいなきゃ何もできない無能か?」

「ち、違う! 私は本物よ! 湊なんて関係ない!」


結愛はヒステリックに叫んだ。

認めるわけにはいかなかった。自分が輝いていたのは湊のおかげだったなんて。そんなことを認めてしまえば、湊を裏切って神崎を選んだ自分の選択が、すべて間違いだったことになってしまう。


「なら証明してみせろ。次のテイクで完璧に歌え。失敗したら、コンテストは俺がギターソロを弾きまくって終わらせる。お前はただ横で突っ立ってればいい」


神崎は意地悪く笑い、コントロールルームへ戻っていった。

一人残された防音室で、結愛は震える手でマイクを握り直した。

喉が痛い。精神的なストレスで、声帯が締め付けられるように苦しい。


(どうして……どうして上手くいかないの)


脳裏に、湊の笑顔が浮かぶ。

『結愛、今のテイク最高だったよ! ここ、少しキー下げてみようか? その方が結愛の声の艶が出ると思うんだ』

彼はいつだって、私の喉を一番に気遣ってくれた。魔法のように、私が歌いやすいアレンジを加えてくれた。

あれがどれほど高度な技術と、深い愛情に裏打ちされたものだったのか、今の結愛には知る由もなかった。いや、薄々気づき始めていながら、認めることから逃げていただけだ。


「私は天才なの……私は特別なの……」


呪文のように呟き、結愛は再び流れてきたイントロに合わせて口を開いた。

だがその歌声は、焦りと恐怖でさらに縮こまり、惨めなほどに響かなかった。


          ***


翌日の昼休み。

教室の空気は、どこかよそよそしかった。

俺が結愛にフラれ、部活を追い出されたという噂は、既にクラス中に広まっていた。神崎の取り巻きたちが、面白おかしく脚色して広めたのだろう。「才能の枯れた元カレが、未練がましくしがみついて捨てられた」と。


「おい、見たかよ今の高城。神崎先輩と今日も一緒に昼飯だってさ」

「すげーよな、やっぱ美男美女はお似合いだわ」

「前の彼氏、ドンマイって感じ?」


ひそひそ話す声が聞こえるが、不思議と腹は立たなかった。

俺は机に突っ伏して寝たふりをしながら、ポケットの中でスマホを握りしめていた。

『NoName』の再生数は、一晩明けて三十万回に達していた。コメント欄は賞賛の嵐だ。

メジャーレーベルのスカウトを名乗るアカウントからも、DMが届き始めていた。


(お前らが噂している『可哀想な元カレ』は、今やお前らが夢中で聴いている『NoName』なんだよ)


その事実が、俺に暗い優越感をもたらしていた。

正体を隠したヒーローになったような気分だ。いや、歌詞の内容からすれば、ダークヒーローか。


ふと、教室の入り口が騒がしくなった。

結愛が戻ってきたのだ。神崎の姿はない。

彼女の様子を見て、俺は少し驚いた。

いつもなら自信満々で、教室の中心で輝いているはずの彼女が、今日はひどく顔色が悪い。目の下にはコンシーラーで隠しきれない隈があり、自慢の艶やかな髪も少しパサついているように見えた。


「結愛、大丈夫? なんか疲れてない?」


友人の女子生徒が心配そうに声をかける。


「う、うん。ちょっとね。コンテストに向けて練習頑張りすぎちゃって」

「さすがプロ意識高い! 神崎先輩との新曲、楽しみにしてるね!」

「あはは……うん、期待してて」


結愛の笑みは引きつっていた。

その視線が、一瞬だけ俺の方へ彷徨った。俺と目が合うと、彼女はハッとしたように表情を硬くし、フンと鼻を鳴らして顔を背けた。

まだ虚勢を張る余裕はあるらしい。


その時、教室の後ろの方から男子生徒の声が上がった。


「なあ、これ聞いた? 『NoName』の新曲。マジでヤバイって」

「あー、知ってる! トレンド入ってたやつだろ? 俺も昨日リピート止まらなかったわ」

「歌詞がさ、なんか深いんだよな。実体験っぽくて」


その会話が聞こえた瞬間、結愛の肩がピクリと跳ねた。

彼女も聞いているのだろうか。いや、プライドの高い彼女のことだ、流行り物には敏感でも、無名の新人など歯牙にもかけていないかもしれない。

だが、「歌詞が実体験っぽい」という言葉には反応したようだった。


俺は心の中で冷ややかに笑った。

もし彼女がこの曲を聴けば、すぐに分かるはずだ。

そこに込められたコード進行の癖、フレージングの処理。何より、歌詞に綴られた怨嗟の対象が誰なのかを。

だが、気づいたところでもう遅い。

俺はもう、彼女の手の届かない場所に飛び立ってしまったのだから。


「……湊」


不意に、結愛が俺の席の横を通る際、誰にも聞こえないほどの小声で呟いた。


「あんた、せいぜい惨めに生きてなさいよ。今度のコンテスト、私たちが圧倒的な差を見せつけてあげるから」


立ち止まりもせず、吐き捨てるように言われた言葉。

それは宣戦布告というよりは、自分自身を鼓舞するための悲鳴のように聞こえた。

俺は顔を上げず、教科書のページをめくりながら平然と答えた。


「ああ、楽しみにしてるよ。お前たちの『本物』のステージをな」


俺の言葉に嫌味を感じ取ったのか、結愛は忌々しげに舌打ちをして去っていった。

楽しみなのは本当だ。

あの神崎という独善的な男と、俺という補助輪を失った結愛。その二人がどんな不協和音を奏でるのか、見物でしかない。


それに、俺にも考えがあった。

コンテストには出ないつもりだったが、状況が変わった。

『NoName』としてではなく、あくまで観客の一人として、彼女たちの破滅を特等席で見届ける必要がある。

そして、そのタイミングで――。


スマホが震えた。DMの通知だ。

相手は、有名な音楽イベントのオーガナイザーからだった。

『突然のご連絡失礼します。NoName様、次回のフェスにシークレットゲストとして出演していただけませんか?』


俺の口元が自然と歪む。

すべてが、お膳立てされていくようだった。

神様がいるとしたら、相当な意地悪好きか、あるいは因果応報を愛する正義の味方なのだろう。


俺は画面に向かって、短く返信を打った。

『興味があります。詳細を聞かせてください』


結愛、神崎。

お前たちが目指す「高いステージ」とやらが、いかに脆い足場の上に成り立っていたか。

そして、お前たちが切り捨てた「古臭い才能」が、どれほどの価値を持っていたか。

その答え合わせの時は、もうすぐそこまで迫っていた。


俺は冷めたコーヒーを一気に飲み干した。

苦味が口の中に広がる。

だがその苦味さえも、今の俺には勝利の美酒の予感に思えた。

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