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第一話 才能の寄生主と、残酷な宣告

放課後の校舎は、独特の熱気を孕んでいる。文化祭を一ヶ月後に控えたこの時期、どの教室からも活気のある声や、準備に追われる生徒たちの足音が絶え間なく響いてくる。廊下をすれ違う生徒たちは皆、非日常への期待に胸を膨らませ、どこか浮足立っているように見えた。


そんな喧騒を背に、俺、相沢湊あいざわ みなとは一人、特別棟の角にある第二音楽室へと急いでいた。背中に背負ったギターケースの重みが、肩に心地よい食い込みを感じさせる。この重みこそが、俺が彼女と繋がっている証のように思えて、苦にはならなかった。


第二音楽室の重たい防音扉を開けると、そこにはまだ誰もいなかった。静寂と、少し埃っぽいカーペットの匂い、そして機材特有の金属と油の混じった匂いが俺を迎える。俺は慣れた手つきで照明のスイッチを入れ、部屋の隅に置かれたアンプの電源を確認し、マイクスタンドの位置を調整する。


俺は軽音部の部員ではない。名目上は「機材管理の手伝い」という曖昧な立ち位置だ。けれど、この場所は俺にとって聖域だった。なぜならここは、俺の恋人であり、幼馴染でもある高城結愛たかしろ ゆあが輝く場所だからだ。


「よし、セッティングは完璧だ」


額の汗を手の甲で拭いながら、俺はポケットから丁寧に折りたたんだ五線譜を取り出した。昨夜、徹夜で仕上げた新曲だ。


結愛は今、この高校だけでなく、界隈のアマチュアバンドシーンで「十年の一人の逸材」「奇跡の歌声を持つ美少女」として注目を集めている。動画サイトに投稿したライブ映像は数万再生を記録し、SNSのフォロワーも日に日に増えている。


だが、世間は知らない。彼女が歌うオリジナル曲のすべてを、この俺、相沢湊が作詞作曲し、編曲まで手掛けていることを。


結愛は歌うことは好きだが、曲を作る才能はからっきしだった。中学時代、初めて彼女が鼻歌で作ったメロディを聞かせてもらった時、あまりの不協和音に言葉を失ったことを覚えている。それでも「自分の曲で歌いたい」と夢見る彼女のために、俺は影ながら音楽理論を学び、楽器を練習し、彼女のイメージに合う曲を作り続けてきた。


『湊の曲は、私の声を一番綺麗に響かせてくれるね! 最高!』


そう言って無邪気に笑う結愛の笑顔が見たくて。彼女がステージで喝采を浴びる姿を一番近くで見ていたくて。俺はその役割に誇りすら持っていた。ゴーストライターなどという陰鬱な響きは俺たちには関係ない。これは二人の愛の共同作業だと思っていたからだ。


「今日の曲、結愛は気に入ってくれるかな……」


譜面を広げ、アコースティックギターを軽く爪弾く。今回の曲は、彼女の透き通るようなハイトーンボイスを活かした、切なくも力強いバラードだ。文化祭のメインステージでこれを歌えば、間違いなく彼女の評価はさらに高まるはずだ。サビの転調部分、あそこで彼女が目を閉じて歌い上げる姿が、俺の脳裏にはありありと浮かんでいた。


その時、背後で防音扉が開く重たい音がした。


「結愛? 遅かったね、準備できてるよ」


俺は弾む心を押さえきれず、満面の笑みで振り返った。


しかし、そこに立っていたのは、俺が予想していた「いつもの結愛」ではなかった。


制服の着こなしが少し乱れ、メイクもいつもより濃い。そして何より、その瞳には俺に向けられるはずの親愛の情が欠片もなく、代わりに冷ややかな氷のような色が宿っていた。


そして、彼女は一人ではなかった。


結愛の腰に馴れ馴れしく手を回し、見下すような視線を俺に送る長身の男。神崎蓮司かんざき れんじ。隣町の進学校に通う三年生で、プロからも注目されている実力派バンドのリーダー兼ギタリストだ。


「……結愛? 神崎先輩? どうしてここに」


俺の問いかけに、結愛は答えず、ただ面倒くさそうに溜息をついた。その態度に、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。何かがおかしい。決定的な何かが、音を立てて崩れ落ちていくような予感がした。


「おいおい、相沢クンだっけ? まだいたのかよ。空気読めないねえ」


神崎が口を開く。整った顔立ちだが、その唇は嘲笑の形に歪んでいた。彼は土足のまま音楽室に踏み入ると、俺が丁寧にセッティングしたマイクスタンドを爪先で軽く蹴った。


「結愛、話があるんじゃなかったのか? さっさと済ませろよ。俺は安っぽい機材の匂いがするこの部屋が嫌いなんだ」

「うん、ごめんね蓮司くん。すぐに終わらせるから」


結愛が神崎に向ける声色は、かつて俺に向けていたものよりも遥かに甘く、媚びを含んでいた。蓮司くん。名前で呼んでいるのか。俺のことは、最近はずっと「ねえ」とか「あんた」としか呼ばなくなっていたのに。


結愛が俺に向き直る。その表情から甘さは消え失せ、能面のような冷淡さが張り付いていた。


「湊。あんたに話があるの」

「……話って、何? それに、どうして神崎先輩とそんなに親しそうに」

「単刀直入に言うわ。私たち、別れましょう」


思考が停止した。言葉の意味を脳が理解するのを拒絶した。


「え……? 何を、言ってるんだ? 冗談だろ? だって俺たち、文化祭に向けて頑張ろうって」

「冗談じゃないわよ。本気。あんたとの付き合いも、この先あんたの曲を歌うことも、もうおしまい」


結愛は俺の手元にある五線譜をひったくると、中身を一瞥もしないまま、ゴミのように床へ放り捨てた。乾いた音が室内に響く。それは俺が徹夜で作った、彼女へのラブレターそのものだったはずの楽譜だ。


「ちょっと、何するんだよ! それは結愛のために書いた新曲で……」

「だから、そういうのがもういらないって言ってんの!」


結愛が金切り声を上げて俺の言葉を遮った。


「湊の作る曲ってさ、正直もう古臭いのよ。湿っぽいバラードとか、ありきたりなポップスとか。聞いてて恥ずかしくなるような歌詞ばっかり。私、そういうの飽きちゃったんだよね」


頭をハンマーで殴られたような衝撃が走る。古臭い? 恥ずかしい? 彼女はいつも、「湊の曲は私の気持ちを代弁してくれてる」と言ってくれていたはずだ。涙を流して喜んでくれたことだってあったはずだ。あれは全部、嘘だったのか。


「そ、そんな……。でも、みんな評価してくれてるじゃないか。動画のコメントだって」

「それは私が歌ってるからでしょ?」


結愛は呆れたように肩をすくめた。


「私の歌唱力と、このルックスがあるから再生数が伸びてるの。あんたの曲が良いからじゃないわ。勘違いしないでよ。むしろ、あんたの凡庸な曲のせいで、私の本当の才能が埋もれちゃってるってことに、やっと気づいたの」


隣で聞いていた神崎が、鼻で笑った。


「そういうことだ。結愛には『本物』の才能がある。だが、お前が作るようなお遊戯レベルの楽曲じゃ、彼女の足枷にしかならないんだよ。俺なら、彼女のポテンシャルを百パーセント引き出せる。プロの世界に連れて行ける。お前みたいな裏方の素人とは、住む世界が違うんだ」


神崎は結愛の肩を抱き寄せ、これ見よがしに彼女の髪に口づけを落とした。結愛は嫌がるどころか、うっとりとした表情で神崎の胸に身を預ける。目の前で見せつけられる裏切りの光景に、俺の指先が震え、全身の血の気が引いていくのが分かった。


「……いつからだ」

「は?」

「いつから、二人はそういう関係だったんだよ」


絞り出すような俺の声に、結愛は冷笑を浮かべた。


「夏休みの対バンイベントの時からよ。蓮司くんのギターを聞いて、私、震えたの。これが本物の音楽なんだって。それに比べて湊の音は、ただ丁寧なだけで退屈。その時、はっきり分かったの。私が組むべきパートナーは湊じゃない、蓮司くんだって」


夏休み。俺がバイトを詰めて、彼女の新しいマイクを買うための資金を貯めていた時期だ。俺が汗水たらして働いている間、彼女はこの男と出会い、俺の音楽を、俺の献身を、「退屈」と断じて切り捨てていたのか。


「結愛、考え直してくれ。俺だって努力する。もっと勉強して、結愛が望むような曲を……」

「あーもう、しつこいなあ! そういう惨めなところが嫌いだって言ってんの!」


結愛は苛立ちを露わにし、足元のエフェクターを蹴り飛ばした。


「努力とか根性とか、そういう次元の話じゃないの。センスの問題なのよ、センスの! あんたには才能がないの。ただ私の後ろで機材運んで、言われた通りに曲書いてればいいと思ってたけど、もうそれすら邪魔なのよ」


才能がない。邪魔。

かつて「湊のおかげで私は輝ける」と言ってくれた口から、呪詛のような言葉が次々と吐き出される。


「それにね、著作権の話もしとくけど。今まであんたが作った曲、あれ全部『高城結愛』名義で発表してるわよね? だから、これからも私が歌い続けるわ。あんたには関係ない曲としてね」


「は……? それはいくらなんでもおかしいだろ。作ったのは俺だぞ。ゴーストライターをやってたことは認めるけど、それを全部自分のものにするなんて」


「証拠あるの?」


結愛の言葉に、俺は息を呑んだ。


「あんた、バカ正直にデータも全部私のPCに入れてたじゃない。手書きの楽譜だって、私が持ってるのが原本ってことになってるし。あんたの手元にあるのはただのコピーか、落書きみたいなメモだけでしょ? 世間はね、歌ってる人間が作者だと思うものなの。今さら『実は僕が作ってました』なんて言っても、未練がましい元カレの妄言としか思われないわよ」


あまりにも周到だった。いや、彼女がそこまで計算していたとは思えない。おそらく、入れ知恵をしたのは神崎だろう。神崎を見ると、彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべて俺を見ていた。


「そういうことだ。無駄な抵抗はやめておけ。お前みたいな地味な男が騒いでも、結愛のファンがお前を叩くだけだ。社会的に死にたくなければ、大人しく消えるんだな」


神崎は俺の胸ポケットに手を伸ばし、そこに入っていた部室の鍵を抜き取った。


「この鍵も返してもらうぜ。部外者が勝手に入り浸られても迷惑だからな」

「……返せよ。それは、俺が先生から預かってる……」

「うるせえな。今日から俺が結愛の専属プロデューサーだ。機材のセッティングも俺のスタッフにやらせる。お前みたいな代わりがいくらでもいる雑用係は、もう用済みなんだよ」


神崎は俺の肩を強く突き飛ばした。不意を突かれた俺は、後ろにあった机に腰を強打し、その場に崩れ落ちる。


痛みよりも、惨めさが勝った。

俺が三年間、全てを捧げてきた場所。全てを捧げてきた相手。それが今、土足で踏み荒らされ、奪われていく。


「行こう、蓮司くん。ここにいると空気が悪いわ」

「そうだな。新しい曲の打ち合わせをしに行こうか、結愛。もちろん、ホテルでな」

「もう、蓮司くんったら……ふふ」


二人は倒れ込んだ俺を一瞥することもなく、腕を組んで音楽室を出て行った。

防音扉が閉まる直前、結愛が最後にもう一度だけ振り返った。


「さよなら、湊。あんたの青春ごっこに付き合うのはもう疲れたの。これからは、客席のその他大勢として私を見上げてなさい。それがお似合いよ」


バタン、と重たい音がして、扉が閉ざされた。

あとには、完全なる静寂と、床に散らばった五線譜だけが残された。


俺は震える手で、床に落ちた譜面を拾い上げた。靴跡がついている。結愛か、神崎か。どちらのものかは分からないが、俺の心血を注いだメロディの上に、泥のような汚れがこびりついていた。


「……ふざけるな」


喉の奥から、乾いた声が漏れた。


「ふざけるな……ふざけるなよ……!」


涙は出なかった。あまりの怒りと絶望で、涙腺が焼き切れてしまったかのようだった。

俺の音楽は古臭い? 才能がない?

俺がいなければ、コードの一つもまともに押さえられなかったくせに。俺が調整したマイクでなければ、高音でノイズを走らせていたくせに。


俺の全てを利用し、吸い尽くし、最後にはゴミのように捨てた。

あの二人を、絶対に許さない。


俺は汚れた譜面を握りしめた。紙がくしゃりと悲鳴を上げる。

古臭いセンスだと? 俺の曲には価値がないだと?


「……証明してやる」


誰にともなく、俺は薄暗い音楽室で呟いた。


「俺の音楽が、俺の才能が、お前たちなんかより遥かに上だってことを。俺がいなくなったお前が、どれだけ無力で空っぽな存在かということを……思い知らせてやる」


激情が、腹の底で黒い炎となって渦巻き始めた。それは今まで俺が曲作りの原動力にしてきた「愛」や「優しさ」とは対極にある、冷たくて鋭利な衝動だった。


俺はギターケースを背負い直すと、逃げるように、けれど確かな殺意に似た決意を持って音楽室を後にした。

廊下はもう薄暗く、生徒たちの姿もまばらになっていた。遠くから聞こえる吹奏楽部の練習の音が、ひどく耳障りに感じられた。


校門を出る頃には、空は茜色から群青色へと変わり始めていた。

もう、結愛のために曲を書くことはない。

あの日々も、あの笑顔も、全ては偽りだった。


俺はスマホを取り出し、SNSのアプリを開いた。そこには、結愛のアカウントから投稿されたばかりの写真が表示されていた。神崎と顔を寄せ合い、高級そうなディナーを楽しんでいる写真。

キャプションには、『大好きな人と、新しいステージへ。これからは本物の音楽を届けます』と書かれている。


俺の指が画面の上で止まる。

ブロックするのではない。俺は、その画面をしっかりと目に焼き付けた。

この屈辱を、この痛みを、一秒たりとも忘れないために。


帰宅した俺は、自室のPCの前に座り込んだ。

DAW(作曲ソフト)を立ち上げる。いつもなら、結愛のキーに合わせて、彼女が歌いやすいテンポでプロジェクトを作成していた。

だが、今日は違う。


俺は新規プロジェクトを作成し、BPMテンポを高速に設定した。

キーは俺が一番心地よいと感じる高さに。

ジャンルは、結愛が「難しくて歌えない」と敬遠していた、激しいロックサウンドだ。


指がキーボードとマウスの上を走る。

頭の中に渦巻くどす黒い感情が、そのまま音になって具現化されていく。

歪んだギターのリフ。攻撃的なドラムのビート。そして、叫びのようなシンセサイザーの旋律。


今まで「結愛のため」というフィルターを通して抑制していた俺の本当の感性が、堰を切ったように溢れ出した。

これが、俺の音だ。

誰のためでもない、俺自身のための音楽だ。


「見てろよ、高城結愛。神崎蓮司」


モニターの光に照らされた俺の顔は、きっと酷く歪んでいただろう。

だが、不思議と気分は高揚していた。


俺は今日、死んだ。

都合の良いゴーストライターとしての俺は死んだのだ。

そして今夜、一人のアーティストとして生まれ変わる。


完成したトラックに、俺は仮の歌詞を乗せ、マイクに向かって声を吹き込んだ。

タイトルはまだない。名前もまだない。

だが、この曲が世界に放たれた時、それが俺の復讐の狼煙となる。


夜はまだ、始まったばかりだった。

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