「”好き”はまだ、音の中」
誰かのことを思いながら聴く音楽は、
いつもより少しだけ、胸の奥に深く届く。
その誰かが、もし曲をつくった本人だったら。
その音に、歌詞に、声に——
気づかずにはいられない、気持ちのかけらが宿っていたら。
まだ「好き」とは言われていない。
でも、それに似た熱が確かに伝わってきて、
気づけば心が、音に包まれていた。
これは、“言葉になる前の想い”が響いた、あの文化祭の話。
そして、まだ恋に変わる手前にいた二人が、
少しずつ確かなかたちになっていく、そんな瞬間。
【第1章 ep.9】
会場のざわつきが少しずつ静まる。
煌はマイクをしっかりと両手で握り、深く息を吸い込んだ。
「……本当は、ボーカルを務めるはずだったメンバーが、今朝、高熱で来られなくなってしまいました」
その声は穏やかで、でもどこか緊張を含んでいた。
「無理をさせるわけにもいかないから……代わりに、俺が歌うことにしました」
聞き慣れたはずの煌の声なのに、マイクを通して聞こえるそれは、まるで別人のように胸に沁みてくる。
会場に響くその言葉に、観客は息をのんだ。
「自分に、ボーカルなんて……って思ってた。でも——」
一瞬、言葉が止まる。
煌は客席をゆっくりと見渡すと、ある一点で視線を止めた。
そこには、夏弥がいた。
胸元をそっと押さえながら、じっと煌を見つめている。
煌の瞳が、夏弥だけをまっすぐ捉えた。
「……伝えたいことがあるから。音楽でしか伝えられないことを、今、ちゃんと……届けたいって思ったんだ」
その瞬間、夏弥の中で何かがゆっくりと溶けていった。
胸の奥で、熱くて甘い想いが膨らんでいく。
「だから——この歌に、全部の想いを込めます」
照明が落ち、煌の周囲だけが淡く浮かび上がる。
視線を逸らさないまま、彼はそっとマイクを構え、静かに演奏が始まった。
その歌は、誰にでも届くものじゃない。
けれど、たったひとりに、確かに向けられた想いだった。
ー
煌は、4曲目を歌い終えると、静かにマイクを手にした。
会場には拍手と歓声が響いている。
熱を孕んだ空気のなかで、煌の低く落ち着いた声が再びマイクを通して届いた。
「次で……最後の曲になります」
一瞬、会場が静まり返る。
その言葉の重さと、ここまでのパフォーマンスへの期待が混ざり合って、息を飲むような空気が張り詰めた。
煌は、一度目を伏せて、そして真っ直ぐに顔を上げる。
その視線の先にいたのは、夏弥だった。
「次の曲は……このミニライブのために作った新曲です」
少し照れたような、でも揺るぎない声。
視線を逸らさず、まっすぐに夏弥を見て──
「曲名は、“夏の灯”」
その瞬間、夏弥の胸がギュッと締め付けられた。
煌の視線が、自分に向けられていたこと。
そして、その曲の名前に込められた意味に、気づいてしまったから。
(もしかして……この曲は)
ドキドキが止まらない。
心臓の音が耳の奥に響いている。
煌の歌は、いつもまっすぐだ。
言葉で多くを語らない彼が、伝えたい気持ちをすべて音に乗せて届けるように。
だからこそ、怖いくらい伝わってしまう。
そのひとつひとつの音に、想いに、夏弥の心がまっすぐ揺さぶられていく。
楽器の音が、静かに響き始める。
煌の声が、会場に満ちていく。
(……やっぱり。これは私への……)
歌のなかの“君”は、自分だ。
その確信が胸の奥に灯る。
煌の視線は、歌の途中でもときおり夏弥を捉えたまま、逸らさなかった。
夏弥もまた、目を逸らせなかった。
胸が苦しいほどに高鳴って、でも、不思議と怖くはなかった。
歌に込められた煌の気持ちは、温かくて、静かで、まっすぐだった。
まるで、この夏に生まれた想いすべてを肯定してくれるように。
煌の歌が終わるまで、夏弥は一度も瞬きを忘れるくらい、ただ彼を見つめていた。
そして、気づいてしまった。
この夏、隣にいた彼を、こんなにも愛おしいと思っている自分に──
ー
新曲が終わった瞬間、会場には大きな拍手が響き渡った。
それはただの「演奏への称賛」じゃない。
そこには、歌に込められた“想い”に心を動かされた人たちの、純粋な感動があった。
真斗も羽玖も、興奮したように手を叩いている。
夏弥も、その拍手の中にいた。
でも——
(なんでこんなに、胸がいっぱいなんだろう……)
言葉にならないほどに、心が満ちていた。
煌が、最後にマイクを通して伝えた。
「この想いが、貴方にきっと届いていることを願います」
その「貴方」は誰なのか、少なくとも夏弥の胸には、痛いほど、優しく届いていた。
ー
会場を出て、真斗・羽玖・夏弥の3人は人混みを抜けて教室へと向かっていた。
文化祭の賑やかな音が遠くで続いている。
「いやー、あれはやばかっただろ、な?な!? なぁ!?」
真斗が弾けるように語りだす。
「煌があそこまで歌えるとかさ、てか曲がまた……めっちゃ良くてさ……!」
羽玖も微笑みながら頷いた。
「うん……。すごく、まっすぐな歌だった。あんなふうに、誰かに想いを届けるって……素敵だね」
そして、ふいに二人の視線が夏弥に向いた。
「夏弥は?感想は?」
羽玖が優しく尋ねる。
夏弥は一瞬、言葉に詰まって、うつむいた。
そして、ほんの少し顔を上げると——
「……すごく、よかった……。なんか、胸がいっぱいで……」
ぽつりと呟くその横顔は、耳までほんのりと赤い。
さっきからずっと、心臓の音が耳の奥に響いてる。
真斗はそんな夏弥をチラリと見て、ニヤッと笑う。
「……なるほどね」
羽玖も微笑む。
「……うん、やっぱり届いてたね。あの歌」
夏弥はびっくりして二人を見たけど、否定もできなかった。
だって、自分の気持ちがもう——あの歌で全部、あふれてしまったから。
気づかれないままでいいと思っていた想いが、
それでもどこかで届いてほしいと願ったとき、
煌は言葉じゃなく音で伝えようとした。
そして、夏弥はその音に込められた「何か」にちゃんと気づいて、
まっすぐに受け止めてくれた。
“好き”という言葉はまだ、交わされていない。
でもそれは、まだ言葉にしていないだけで、
音の中にはもう何度も、確かに響いていた。
この文化祭は、煌にとって自分の音楽が“誰か”に届いた最初の瞬間であり、
夏弥にとって“誰かの想い”を受け取る初めての瞬間だったのかもしれない。
だから、これはふたりにとって始まりの物語。
音が紡いだ“前夜”のような時間。
そして次はいよいよ——
“好き”が、言葉になるその時へ。
——向灯葵