「ひかりの下で、となりに君がいた」
夏の終わりは、どこか切なくて、少しだけ大人になる気がする。
浴衣に袖を通して、いつもよりほんの少しだけ、心の距離も縮まる夜。
手を繋ぐ理由を、ちゃんと“自分の気持ち”として選べたなら。
それはもう、きっと恋のはじまり。
煌と夏弥、そして真斗と羽玖。
4人の夏の思い出が、夜空に咲いた花火のように、
このページに優しく残っていきますように。
【第1章 ep.6】
——8月最後の土曜の夕暮れ。
夏の陽が落ち、空の端がほんのりと茜に染まっていく頃。
玄関の扉をそっと開けた夏弥は、すでに家の前で待っていた煌の姿を見て、思わず足を止めた。
いつも見慣れているはずの煌なのに、今日はほんの少し違って見えた。
紺地に白の柄が入った浴衣。
いつも制服姿か私服の彼しか知らなかった夏弥にとって、それは新鮮で、でもどこか落ち着く光景だった。
「……待たせた、かな?」
「いや。俺も今、出てきたとこ」
煌の声はいつもと同じ低く落ち着いたものだったけれど、よく見ると耳の先が少し赤い。
夏弥も、着慣れない浴衣と草履での歩きにまだ慣れず、どこかぎこちなく立っていた。
「……あのさ」
不意に煌が声をかけてくる。
夏弥が顔を上げると、煌の目がまっすぐにこちらを見ていた。
「浴衣……似合ってる」
一瞬、時間が止まったように感じた。
ふわりと心臓が跳ねたのは、夏弥のほうだけじゃなかった。
「っ……ありがとう。煌も……すごく似合ってるよ」
夏弥も精一杯の声で返す。顔が熱くなる。
煌は少しだけ視線を逸らして、でも口元はどこか嬉しそうだった。
「……じゃ、行こっか」
「ああ」
隣の家で生まれ育って、幾度となく一緒に歩いてきたこの道。
でも今日は、なぜか足音までも違って聞こえた。
ー
夜の帳が少しずつ降りはじめ、空の色が群青に染まっていく頃。
煌と夏弥が会場の入り口を抜けると、ちょうど真斗と羽玖の姿が見えた。
「おーい、こっちこっち!」
元気よく手を振る真斗の隣で、羽玖も柔らかく微笑んでいた。
2人とも浴衣姿。真斗は濃いグレーの粋な柄で、羽玖は淡い紫に朝顔模様の浴衣を着ていた。
「真斗くんも羽玖も……すごく似合ってる」
夏弥の素直な言葉に、羽玖は「ありがとう」と照れ笑いし、真斗は胸を張って「当然!」と笑う。
まわりにはたくさんの屋台。りんご飴、たこ焼き、焼きそば、金魚すくい……子どもたちの声や屋台の呼び込みが、夏の空気に彩りを加えていた。
4人はわいわいと笑いながら、それぞれ好きなものを手に取っていく。
煌はたこ焼きを、夏弥は冷えたラムネを、羽玖はりんご飴を、そして真斗は焼きそばを頬張りながら「やっぱ屋台は祭りの醍醐味だな!」と大声で言った。
そんなときだった。
「……ママ……どこ……?」
ふと、わたあめの屋台の陰から、今にも泣きそうな小さな声が聞こえた。
夏弥が最初に気づいた。
そこにいたのは、ふわふわの白いわたあめを持った小さな女の子。浴衣のすそをぎゅっと握りしめ、辺りをきょろきょろと見回している。
「迷子……?」
夏弥はすぐにしゃがみこんで、優しく声をかけた。
「大丈夫? ママとはぐれちゃったの?」
女の子はこくりと頷いて、泣きそうな目で夏弥を見つめる。
それを見た煌も羽玖も、すぐに女の子の周囲を気にして見渡す。
「こういうときは、係の人か案内所のとこで放送してもらえば……」
羽玖がそう提案しようとした瞬間、
「よし、じゃあ分担して探そう!」
真斗が少し声を張って言った。
「俺と羽玖はこっち側の屋台通り行くから、煌と夏弥ちゃんはさっき通った道を戻って探してくれ!」
煌と夏弥は頷き、女の子を真ん中にして歩き出す。
煌は女の子に歩幅を合わせ、そっと問いかける。
「お母さん、どんな洋服だったか覚えてる?」
「……ピンクに、桜の浴衣……」
煌と夏弥は周囲を注意深く見回しながら、母親らしき人を探した。
そして少し歩いたところで、あたりを血眼で探すピンクの浴衣姿の女性を発見する。
「あっ……ママ!!」
女の子が駆け寄り、母親の元に飛び込んだ。
母親は泣きそうな顔で何度も「ありがとう」と頭を下げていた。
煌も夏弥もほっと胸を撫で下ろす。
「よかったね……」
夏弥がぽつりとつぶやいたその横で、煌も小さく頷いた。
「こういう日が、ちゃんと“いい思い出”になるといいな」
その言葉に、夏弥は目を細めて微笑む。
4人の夏の夜は、まだ始まったばかりだった。
ー
女の子と母親が無事に再会し、4人はほっと胸を撫で下ろしていた。
「いや〜よかったな、ほんとに。迷子ってこっちまで心臓バクバクするよな〜」
真斗が手に持っていた焼きそばのパックを食べ終えながら言うと、羽玖も小さく笑った。
「祭りの日は人が多いからね。でも……無事で何より」
空にはすでに、花火の打ち上げ時刻が近づいていることを知らせるように、ざわついた気配が漂っていた。遠くで鳴る太鼓の音が、期待を引き連れて夜空へと広がっていく。
「じゃあ、花火見れるとこ移動しよっか。人がもっと増える前にね」
羽玖の言葉に頷きながら、4人は歩き出す。
屋台通りを抜け、橋の近くにある開けた小さな河原の芝生エリアへ向かう。
けれど、時間が経つにつれ、周囲の人の数はどんどん増していく。
提灯の明かりの下、すれ違う浴衣姿、笑い声、屋台から漂う甘い香り……そのすべてが熱気を帯びていて、人の波が4人を飲み込もうとしていた。
「……っ!」
一瞬、視界から煌の背中が見えなくなりそうになって、
夏弥はとっさに煌の浴衣の袖をキュッと掴んだ。
煌はその感触に気づき、ふと立ち止まって振り返る。
袖を握ったままの夏弥が、少し気まずそうに視線を逸らした。
「ごめん……人混みで、ちょっと……」
煌は何も言わず、軽く笑って、
「……手、出して」
そう言って、夏弥の手に自分の手を重ねた。
ぬくもりを確かめるように、ゆっくりと、でもしっかりと指を絡める。
「これなら、絶対はぐれない」
心臓が跳ねるような音が、夏弥の胸の奥で響いた。
煌の手は思ったよりあたたかくて、そして、大きかった。
たくさんの人のざわめきや屋台の呼び込みの声が遠ざかって、
ほんの一瞬、世界にふたりしかいないみたいな、そんな静けさが流れた。
その横顔を、夏弥はこっそり見つめた。
そして少しだけ、手に力を込める。
(……ずっとこうしていられたら、なんて……)
夏の夜の空気が、ゆるやかに2人を包み込んでいた。
ー
河原の花火観覧エリアにたどり着いた4人は、空が見渡せる草の上に横並びで腰を下ろした。
その直前——
夏弥は、まだ手を繋いだままでいたい気持ちを、ほんの一瞬だけ押し殺して、
真斗と羽玖に気づかれないように、そっと手を離した。
(……もう少し、このままでもよかったのに)
誰にも気づかれない、小さなため息が胸の奥で揺れる。
そんな心の動きをよそに、夜空に大きな音が響き渡った。
「……始まったね」
羽玖が呟くのと同時に、
視界いっぱいに大輪の花火が咲いた。
赤、青、金、橙——
夜空を彩るその光は、まるでこの夏の終わりを知らせるように一瞬で広がり、
そして儚く散っていく。
誰も言葉を発さないまま、ただただその光を見上げていた。
花火の音だけが、胸に静かに響いている。
煌の隣に座る夏弥は、光で照らされた煌の横顔をそっと見つめた。
その目は真っ直ぐに空を見上げていて、なぜか少し切なく見えた。
(……この夏が、終わっちゃうみたいで、やだな)
そう思った瞬間、
ひときわ大きな花火が、夜空を全て染め上げた。
「うわ……」
真斗が声を漏らし、羽玖も小さく拍手をした。
気づけば4人とも、まるで子どもに戻ったみたいに、心からその瞬間を楽しんでいた。
そして、花火が終わると、人の流れと共に帰り道へ。
「じゃあな、煌、夏弥ちゃん、羽玖、またLINEする!」
「うん、またね、真斗! 2人も、またね」
にぎやかだった4人の時間が終わり、
帰り道には煌と夏弥、ふたりだけが残った。
途端に、先ほどまでの手のぬくもりと、あの一瞬の静けさが頭をよぎる。
気まずいわけじゃない。
でも、どちらからも話しかけられずに、しばらく沈黙が流れた。
煌も、何かを考えているような横顔で歩いていた。
そして——
不意に立ち止まり、夏弥の方に顔を向けると、
「……はい、手」
そう言って、もう一度、夏弥の手を優しく取った。
え、と小さく声が漏れたけど、もう手は離れない。
歩幅を合わせて、並んで歩き出す。
「……ねぇ、なんで今、また?」
夏弥がぽつりと聞くと、煌は少しだけ照れたように、
でもまっすぐに答えた。
「……俺が繋ぎたいって思ったから」
花火の音はもう消えて、空には星だけが残っていた。
でも、夏弥の胸の中ではまだ、さっきの花火よりも大きな音が鳴っていた。
(……こんな夏、知らなかった)
ふたりの影が、街灯の下で重なってひとつになる。
手の温度も、心の距離も、少しずつ重なっていく帰り道だった。
大輪の花火が空に咲いたとき、
ふたりの心にも、確かに何かが咲いたような気がします。
手を繋ぐことも、
言葉にしないまま交わした視線も、
ぜんぶが、今のふたりにとっての“精一杯の気持ち”だった。
恋のはじまりは、派手なセリフや完璧なタイミングじゃなくて、
ほんの小さな勇気と、重なった鼓動の中にあるのかもしれません。
夏の終わりを一緒に過ごした4人が、
これからどんな季節を迎えるのか——
まだまだ、青春のページは続いていきます。
——向灯葵