「君のとなり、ひとつの机」
「テスト勉強」——ただそれだけの時間が、少しずつ心の距離を縮めていく。
分からない問題を教え合って、照れながら目が合って、麦茶を片手に笑い合って。
そんな何気ない時間が、気づけば特別になっていた。
これは、そんな”並んだ机”の向こうで生まれた、小さな物語。
【第1章 ep.4】
六月に入るころ、校内の空気が少しずつ変わり始める。
カラフルだった教室の雰囲気に、次第に“焦り”の色が混じってくる。
掲示板に貼り出された「中間テスト」の日程表。
黒字で書かれた教科名が、どうにも重たく見えるのは気のせいじゃない。
「ちょ、ガチでやばい……数学、範囲めちゃ広くない?」
真斗の声が響く教室の片隅で、
夏弥はプリントの束を前に、肩を落としていた。
「赤点取ったら補習だって、先生言ってたね」
羽玖が机に肘をつきながら、冷静に情報を添える。
その横で、煌は静かに英単語帳をめくっている。
──そんな中、ひとつの提案が浮上する。
「うち、今日空いてるから、勉強会するか?」
煌がそう言ったのは、昼休みの終わり頃。
一瞬の沈黙のあと、真斗と夏弥が同時に手を挙げた。
「行く!!助けて(くれ)煌!!」
ー
夕暮れどき、まだ少し明るさの残る空の下。
真斗、夏弥、羽玖の三人は煌の家へと足を運んでいた。
「煌んち、久しぶりだな……何年ぶり?」
玄関に並んで靴を脱ぎながら、真斗が言う。
「たしか中1の頃にみんなで来たっきりじゃない?」と羽玖。
夏弥は頷きながら、ふと昔の記憶をたどっていた。
煌に案内されて2階の自室へ。
白を基調にしたシンプルな部屋。余計なものは置かれていない。
きちんと整えられた机と、壁際に立てかけられたベース。
そして、ベッドの横には読み込まれた楽譜と英単語帳が並んでいた。
「……地味に綺麗で悔しい」
真斗が小声でぼやきながら、それとなく部屋を物色する。
開きかけた引き出し、何気なく覗いた棚。
だが、特に面白いモノは見つからず、結局ベッドに腰を下ろした。
その間に、煌はキッチンで麦茶を用意してくる。
氷が軽く音を立ててグラスに沈み、夏の気配が静かに漂う。
「じゃ、始めるか」
煌の一言で、四人の勉強会が始まった。
羽玖は得意の数学のプリントを広げ、真斗に問いかける。
「じゃあ、これは?連立方程式の応用問題。できる?」
「いや、できねぇ。そもそも“応用”って言葉がもう敵だわ……」
「わかった。じゃあ“敵”を倒すために、まずは“味方”から覚えようか」
淡々と教える羽玖の口調に、思わず笑いがこぼれる。
一方その隣では──
「この単語、なんて読むかわかる?」
煌が夏弥にそっと英単語帳を見せる。
「……grateful?」
「正解。意味は?」
「……えっと、“感謝してる”?」
「うん。夏弥にぴったりの単語だね」
さらりと口にした煌の言葉に、夏弥は一瞬だけ目を見開いてから、少し照れたように俯いた。
部屋の中は、シャーペンのカリカリという音と、時折の笑い声で満ちていた。
誰かが真剣に説明し、誰かが「わかんない!」と声を上げ、誰かがそれに笑う。
教室とは違う空気。けれど、たしかに「学ぶこと」と向き合っている時間。
そしてその中心には、
変わらず静かに燃えるような、煌の存在があった。
ー
「……あ〜、無理。俺、もう数式1個も脳に入らない」
真斗が大げさに伸びをしながらゴロンと床に寝転ぶ。
「ちょっとは覚えたじゃん」
羽玖が笑いながら突っ込むと、
「いや〜、俺はもっとこう、彼女といちゃいちゃしながら勉強したいわけよ」
と、真斗は床に仰向けになったまま、天井を見つめてぼやいた。
「急になに」
夏弥がくすっと笑う。
「いやさ、もう俺、マジで彼女欲しいわけ。寂しい。人恋しい。
……なあ、みんなはどうなの?恋人とか欲しくないの?」
その問いに、ふいに空気がすっと静まる。
それぞれ、ふと視線を交わすことなく、少し考えるような間。
煌と夏弥の間だけ──
わずかに視線が交差した。
パチッと、まるで小さな火花のように。
二人の目が合ったその一瞬。
互いに言葉を発するわけでもなく、ただ…少し照れたように逸らし合う。
けれど、その様子に気づいた者は、誰もいなかった。
羽玖が口を開く。
「私は……誰でもいいわけじゃないから。素敵だなって思える人がいたら、かな」
その言葉は、どこか自分に言い聞かせるようで、けれど真っ直ぐだった。
そして──
「……うん」
「……そうだね」
羽玖の言葉に、煌と夏弥は別々のタイミングでうなずいた。
まるで、それぞれの胸の奥で、その言葉が何かに触れたように。
「うわ、なに?この静かで沁みる空気!青春ドラマ?」
真斗が急に起き上がり、わざとらしく大げさに言って、全員を笑わせる。
「真斗、今、空気読んでなかったよね?」
「そういうのが俺の個性。ね、羽玖〜〜」
「やだ、巻き込まないで」
再び部屋は笑い声で満ちた。
夜は深く、窓の外では星が瞬き始めていた。
それぞれの胸の奥に、小さな火種のような想いを残しながら──
四人の青春は、静かに、けれど確かに進んでいた。
ー
——テスト当日
窓から差し込む朝の光はやけに鋭くて、教室の空気も少しピリッとしていた。
真斗は筆箱を開けながら、心の中で必死に唱えていた。
(羽玖が言ってたやつ、あれ、たぶんこの辺の問題に出る……!)
隣では夏弥が、プリントの隅に書いた煌の字を頭の中でなぞるように、英語の文章に向き合っていた。
(この言い回し……“be supposed to”は”〜することになっている”。煌が言ってた……!)
先生が「始めてください」と言った瞬間、教室には一斉にシャーペンの音が鳴り響いた。
時間はあっという間に過ぎていく。
解ける問題もあれば、解けない問題もある。
けれど、2人とも──焦らなかった。
なぜなら“誰かと一緒に頑張った時間”が、背中を支えてくれていたから。
ー
──数日後、返却の日。
「じゃあ、次は数学と英語のテストを返すぞ〜。赤点は……30点以下な!」
担任の菅野先生の声に、教室中が一気にザワつく。
「……っしゃああああ!!!」
真斗が思わず机を叩いて立ち上がる。
「先生!おれ、数学42点でした!勝った!赤点じゃないッ!!」
クラスが笑いに包まれる。
羽玖が、笑いながら小さく拍手していた。
夏弥はというと──
「……やった、英語56点……」
小さく息を吐き、近くの煌に目を向ける。
煌も安心したように笑って、ひとこと。
「……よく頑張った」
それだけで、夏弥の胸はふわりとあたたかくなった。
ー
──放課後。
「というわけで、俺たち赤点回避組は、指導組にお礼をしなければなりません!」
真斗がいつになく真剣に宣言する。
「いや、奢りとかいいよ。頑張ったのは真斗と夏弥でしょ」
羽玖が苦笑する。
「俺もいいよ。そういうの気にしなくて」
煌も軽く首を振る。
だけど──
「ダメ!感謝の気持ちだから!!」
夏弥が勢いよく言い切った。
「そうそう、気持ちが大事!ね?煌くんも羽玖ちゃんも、黙って奢られてよ!」
「……黙って奢られてって何」
「うるさい、これは友情飯だ!!」
みんなが笑った。
ー
向かったのは、学校近くの小さな定食屋。
4人で囲む食卓は、いつもの教室とは少し違って、でもどこか懐かしい温かさに包まれていた。
「この唐揚げうますぎない?」
「真斗、米2杯目じゃん」
「え、ダメなの?」
「いいけどさ……」
笑って、食べて、また笑って。
“試練”は無事に乗り越えた。
けれど、その先に待っているものも──
きっと彼らは、また一緒に超えていける。
その夜、煌は家に戻ると、ギターを抱えて弦を鳴らした。
窓の外には星が瞬いていた。
新しい音が、心の中に静かに流れ始めていた。
テストの点数よりも大切なことが、きっとある。
それは、誰かに頼ることだったり、頼られた嬉しさだったり。
心の中にしまっていた想いが、ふとした瞬間に顔を覗かせたり。
そんなふうに、“勉強会”という日常のなかに芽吹いた一瞬一瞬が、
誰かにとっての、大切な記憶になりますように。
次の季節に進む前に、少しだけ心を休めて、また一緒にページをめくっていけたら嬉しいです。
——向灯葵