「風、駆ける」
新しいクラス、制服の香り、少しずつ馴染んできた毎日。
そんな中で訪れる、2年生最初の学校行事──体育祭。
勝ちたい気持ちも、本気のまなざしも、
そして何気ないまま送った応援の言葉さえも、
いつの間にか、誰かの心にそっと灯をともしていく。
ページをめくるこの一瞬。
この青春の一幕を、あなたと一緒に見届けられたなら——
それはきっと、とても素敵なこと。
【第1章 ep.2】
桜が散って、少しずつ制服の袖が軽くなり始めた頃——
新しいクラスに慣れ始めた高校2年生たちを待っていたのは、
この学年で初めての学校行事「体育祭」だった。
学年ごとのクラス対抗戦。
競技はリレー、バレーボール、サッカーに障害物走。
どの種目も、順位が得点に直結するルール。
「みんなで優勝狙おうぜ!」
そんな声を最初に上げたのは、もちろんクラスのムードメーカー・真斗。
その熱量に後押しされるように、2年3組は一丸となって動き出した。
参加種目が決まると、放課後のグラウンドや体育館は、どこも活気で満ちていった。
煌と真斗はサッカー、夏弥はリレー、
羽玖はバレーボールに出場が決まり、
それぞれの想いとともに、練習の日々が始まっていく。
ー
放課後、トラックの片隅で——
「…もう一回、走ってきてもいい?」
夕方の光に照らされたグラウンド。
陸上部の練習が終わったあとも、夏弥は一人残っていた。
「夏弥、あんまり無理しないでねー!」
羽玖の声が背後から聞こえる。
でも、夏弥は軽く手を振っただけで再びスタート地点に立つ。
リレーの選抜に選ばれた日。
“頑張ろう”とは思ったけど、それ以上に湧いてきたのは
「期待に応えたい」という気持ちだった。
(みんなと繋ぐこの一本に、意味を持たせたい)
練習後の空は、昼間より少し静かで、少しだけ切ない。
でも、その空を切り裂くように、夏弥の足が地を蹴った。
風を切る。地面が流れる。
リズムは、体に染み込んだ音楽のように自然に、なめらかに。
——そして、トラックの外。
静かに腕を組んで立つ、ひとりの姿。
「……あいつ、やっぱ速いな」
煌が見ていた。
誰にも気づかれないように、でも目は真っ直ぐ夏弥を追っていた。
ー
体育祭当日、本番直前——
「緊張してる?」
羽玖が夏弥の肩をぽんと叩く。
白い体操服とゼッケン。ひとつに結んだ髪。
周囲の騒がしさに反して、夏弥の胸の内はシンと静かだった。
「してる。でも、悪い緊張じゃない気がする」
「うん、夏弥なら大丈夫。きっと大丈夫」
2走を務める夏弥は、バトンを握りしめる。
手の中の一本が、まるでクラスみんなの“想い”そのもののように感じた。
観客席の方から、クラスメイトの声が飛んでくる。
「夏弥ー!いけー!!」
「かっこいいぞー!!」
「バトン落とすなよー!!」
そして——
「夏弥、がんばれ」
その名を呼んだのは、煌だった。
近くではなかった。
けれど、その声だけははっきりと届いた。
(……ちゃんと、見ててくれる)
小さく、深く、胸の奥が熱くなった。
ー
スタートのピストルが鳴る。
1走が飛び出す。
トラック脇で構えながら、自分の番をじっと待っていた。
(落ち着いて。リズムを崩さない。バトンだけを意識して)
バトンを受けた瞬間。
足が自然に、地面を蹴った。
風の音。
歓声。
スパイクが砂を蹴る音。
背後から追い上げてくる別のクラスの選手の気配。
すべてが渦巻くなか——
“自分のペース”を信じて、前だけを見ていた。
「夏弥ー!!」
「夏弥、いけぇぇ!!」
「ナイス走り!!」
応援が聞こえる。
でも、それに応える余裕はない。ただ前へ。ひたすら前へ。
——煌は黙って見ていた。
けれどその目は、彼女が走るたびに少しだけ細まり、
タスキを繋いだ瞬間、そっと微笑んだ。
ー
走り終えたあと、ひざに手をついて呼吸を整える。
「ナイスラン、夏弥!」
羽玖がタオルを差し出す。
「ありがとう」と言いながらも、まだ夢の中にいるようだった。
ふと視線を上げた先。
校舎の影からこちらを見ていた煌と目が合う。
そして、彼はほんの一瞬、口の形で言った。
「おつかれ」
そのたった四文字が、
どんな拍手よりも、胸の奥にじんわりと響いた。
ー
午後、歓声と熱気に包まれ、グラウンドは徐々に熱を帯び始めた。
2年3組のサッカー競技が、体育祭後半戦の目玉として始まろうとしている。
試合開始1時間前。
校庭の片隅にあるフットサル用のゴール前で、煌と真斗が並んで軽くパス練習をしていた。
「ったく、お前、どんな顔して蹴ってんだよ。
女子が見てんぞ、顔がマジすぎんのよ」
ボールを返しながら、真斗がからかうように笑う。
煌はそれに応えず、ボールを蹴り返したまま淡々と、
「……真面目にやってるだけだ」
「わかってるけどなー。
あの子たち、3組応援じゃなくて“煌推し”だぞ?」
冗談のように言った真斗の視線の先、
グラウンドの端には何人かの女子たちが集まっていた。
煌の動きを追う目線は真剣そのもの──中には手作りの応援うちわを持つ子まで。
「……知らねぇよ、そういうのは」
小さく呟いて、煌は足元のボールをひと蹴り。
鋭く芝を切る音とともに、ボールは綺麗な弧を描いてゴールネットへ突き刺さった。
その様子を遠くから見つめていた夏弥は、どこか嬉しそうに微笑んでいた。
走る前に煌にもらった“がんばれ”の言葉。今度は、自分が彼に届ける番。
「煌、ファイトー!!」
手を振りながら叫ぶ夏弥の声に、煌がふっと振り返る。
その目が、少しだけ和らいだように見えたのは、きっと気のせいじゃない。
「……やるぞ、真斗」
「お、やっとスイッチ入った?」
軽く拳を突き合わせて、2人は向かった。
3組、開幕戦。
静かな炎を灯した背番号10が、グラウンドを駆け抜ける。
ー
『ゴーーール!! 成瀬ーーッ!!』
真斗の勢いあるクロスを受け、煌が放ったボールがゴールネットを揺らした瞬間、
グラウンドの空気が弾けた。
クラスメイトたちの歓声と拍手。
応援席の女子たちの黄色い声。
そのどれもが、ひときわ大きく煌を祝福していた。
煌は仲間と軽く手を合わせただけで、派手には喜ばない。
けれど、ほんの一瞬、眉の奥で静かに笑った気がした。
──その横顔に、夏弥の視線が吸い寄せられる。
「……変わらないな」
夏弥はつぶやいた。
煌が“何かに向かって真っ直ぐになる”ときの顔。
それは、幼い頃に見たある場面と重なっていた。
あれは──まだ小学校に上がる前の春。
「煌、あっち行くよー!」
夏弥が手を引こうとしたのに、煌は公園の片隅から動かなかった。
成瀬家と百合岡家、家族ぐるみでピクニックをしたあの日。
母たちがレジャーシートで話しているすぐ隣、
煌は自分の父と、小さなボールを蹴り合っていた。
父の指導に、何度も転んで、何度も立ち上がって。
小さな体を一生懸命に動かして、真剣な顔でボールを追いかけていた。
その姿が、まるで今日の煌と重なって──
(……あの頃から、ずっと変わらないんだね、煌は)
声には出さず、心の中でそうつぶやく。
そのとき、ふと夏弥の方を見た煌と目が合った。
一瞬、視線が絡み、彼がほんのわずかに目元を緩めたように見えた。
まっすぐなその眼差しに、夏弥の胸がすっとあたたかくなる。
(......カッコよかったよ)
小さく口の中でつぶやいたその声は、
きっと届かないくらいに小さかったけれど、
それでも、心からの本音だった。
ー
試合はそのまま、3組が快勝。
チームの勝利に沸く中、煌も真斗も目立つ存在として称えられていた。
真斗は女子に囲まれて「きゃー真斗くんすごいー!」とモテモテ。
「まぁな~」と調子に乗りながら、ちゃっかり写真を撮られている。
その隣で、静かにタオルで汗を拭う煌。
夏弥は、そんな2人の対照的な姿に小さく笑った。
「……ほんと、いいコンビ」
そんなふうに思いながらも、心のどこかでは、
煌という存在を、ほんの少しだけ“特別”に感じ始めている自分がいることに、
夏弥自身も気づき始めていた。
ー
サッカー試合の歓声が少しずつ落ち着き始めたグラウンドの隅。
試合を終えた煌と真斗の元に、夏弥と羽玖が小さく手を振りながら駆け寄ってきた。
「煌、真斗くん、おつかれさま!」
夏弥がふわりとした笑顔でそう言えば、
羽玖もすぐに続いて「ナイスゲームだったよ。ほんとに、かっこよかった!」と優しく微笑んだ。
「はは、でしょ? 俺、今日まじ仕上がってたわ〜!」
真斗は嬉しさを隠すことなく胸を張る。
「……真斗が良いパスくれたから」
煌は短く答える。その目元はほんのりと柔らかい。
「ね、煌」
夏弥が隣に立ち、声をかけた。
「ちょっとだけ、昔を思い出してたんだ。小さい頃、公園でサッカーしてたときのこと……」
その瞳に浮かぶ懐かしさは、煌の視線をそっと引き寄せた。
「……覚えてる。父さんとボール蹴ってた」
それは、煌にとっても胸の奥に残る記憶だった。
思い出を語るでもなく、ただ静かに共鳴するような、ふたりだけの会話。
その空気はあたたかくて、まるで春の陽だまりのようだった。
少しだけ沈黙が落ちて、それでも心地よいまま流れていく時間に、
羽玖が小さく口角を上げて真斗に囁いた。
「……あのふたり、昔からああいう感じだった?」
「んー、まぁな。煌って、誰にでもああいう態度だけど……夏弥ちゃんには、ちょっと違うよな。言葉少ないのに、なんか伝わってる感じ?」
真斗もどこか嬉しそうに言った。
「ふふ、見てるこっちまで、あったかい気持ちになるね」
その言葉に、真斗も「だな」と短く笑った。
そんな微笑ましい空気を断ち切るように、体育館から響いたアナウンス。
「次のバレーボール女子、4組対3組! 選手は集合してください!」
「──あ、行かなきゃ!」
羽玖がぴんと背筋を伸ばす。
「がんばって! 羽玖!」
夏弥が手を握ると、羽玖は小さく頷いた。
「ありがとう。ふたりも、見に来てくれるよね?」
「もちろん」
煌が短く答えると、真斗も「応援は任せろ!」と拳を握った。
羽玖は体育館に向かって走り出す。
その背中には、クラスメイトの期待と、友人たちのまっすぐなエールが重なっていた。
夏弥も、煌の隣に並んで歩き出す。
グラウンドから体育館へ向かう途中──夏弥がふと語る。
「煌、羽玖って、すごく頑張り屋さんなんだよ」
「うん、そんな気がする」
煌の答えは短いけれど、ちゃんと羽玖を見ている目だった。
「応援しようね、羽玖のこと」
「……ああ」
その言葉に込められた想いは、羽玖にもしっかりと届いていくようだった。
──次は、静かに燃える羽玖の物語。
ひとりじゃない、誰かが見てくれているから、
彼女は今日も、自分の信じたプレーで、コートを翔けてゆく。
ひとつの空の下で笑って、走って、声を重ねて──
ただそれだけの時間が、どうしてこんなにも心に残るんだろう。
思いきり体を動かしたことも、
誰かの名前を呼んだことも、
気づけば、全部があたたかい記憶になっていた。
それは、きっと青春という名の宝物。
そしてあなたと、そんな日々の続きをまた一緒に捲っていけたら。
そう願わずにはいられません。
──さて次は、凛とした瞳でコートに立つ、羽玖の物語へ。
——向灯葵