「春の朝、名前を呼ぶだけで」
──これは、“当たり前”が少しずつ特別に変わっていく物語。
春のはじまり。
家が隣同士の幼馴染、煌と夏弥は、
同じ時間に目を覚まし、同じ通学路を歩く、ただの友達だった。
けれどクラス替えという些細な出来事が、
静かに揺れ始めた心の奥を照らしていく。
寄り添い、離れ、また寄り添う。
光のような、色のような、音のような──
かけがえのない「日常」のかたちを、
どうかあなたの心にも、そっと映してもらえたら。
この物語は、
“ひかり”と“いろ”と“おと”で織りなす、三つの家族のはじまり。
最初の章は、春の校舎と、ふたりの静かな鼓動から。
【第1章 ep.1】
春の風が優しく頬を撫でる朝。
制服の袖を通すだけで少しだけワクワクするのは、クラス替えというちょっとした非日常のせいかもしれない。
玄関を出ると、すぐ隣の家の門が開いた音がした。
「……あ」
視線を向ければ、ちょうど向こうもこちらに気づいたようで、微かに目が合う。
「おはよ、ナツミ」
「……うん、おはよう、アキ」
今まで何度も呼ばれた——夏弥。
今まで何度も呼んだ——煌。
煌と並んで歩くのは、何度目になるのだろう。
小さい頃は手を繋いでいた道も、今では少し距離を置いて歩くようになった。
でも、なぜかそれが自然で、今の“幼馴染”の形のような気がしていた。
「……今日から、2年生か」
煌の声はいつもより少し低く、風に溶けるような落ち着いた響きだった。
「うん。クラス、一緒だったりするかな?」
夏弥は冗談っぽく笑ったけれど、心のどこかで少しだけ期待していた。
煌と同じクラスだったら、少しは——今より話せるかな、なんて。
でも、そんなこと口に出せるわけがない。
彼にとって私は、ただの“昔から隣に住んでる子”でしかないのだから。
「夏弥は、どのあたりの席がいいとかある?」
唐突な煌の問いかけに、夏弥は少し驚く。
「え、どうして?」
「……いや、あんまり話せる子いなかったら不安かなと思って」
「ふふ、気遣ってくれるんだね、煌ってば」
夏弥はそう言って、少し照れたように笑った。
煌はというと、表情を変えないまま視線を前に戻して歩いている。
でも、その耳が少しだけ赤くなっていたことに、夏弥はちゃんと気づいていた。
「私は窓側がいいな。景色見えるし」
「そっか。……じゃあ、俺は真ん中辺りかな。名前的にも、たぶんそのへんだし」
「成瀬“なるせ”だもんね。百合岡“ゆりおか”はきっと後ろのほうだ」
「……ほんと、となりの家なのに、名前でこんなに離れるんだな」
その言葉に、夏弥はクスッと笑って、ふと歩幅を合わせるように少しだけ近づいた。
「でもさ、隣同士ってだけで、なんか安心するよ」
「……俺も」
その言葉が、あまりに自然すぎて、夏弥は一瞬だけ胸が熱くなる。
気づかれないように、そっと息を吸って、笑顔を作った。
そして学校の門をくぐると、たくさんのざわめきと春の匂いが、ふたりを迎えた。
—
昇降口の掲示板に張り出されたクラス表。
夏弥が指で自分の名前をなぞると、少し遅れて煌の声が聞こえた。
「……同じだ」
「……えっ?」
夏弥は思わず振り向く。
その顔に、きょとんとした驚きと、すぐに隠しきれない喜びが広がる。
煌は、口元を少しだけ緩めて言った。
「夏弥、“2年3組”だよな?」
「……うん、うん! 一緒だね……!」
春の風が吹き抜ける廊下。
その瞬間、彼女の胸の奥で小さな花がひとつ、そっと咲いた気がした。
ー
昇降口から教室までの廊下。
新しい校舎の空気は、少しだけ緊張感と期待が混ざっていた。
煌の後ろを歩いていると、視線が彼に集まっていくのがわかった。
すれ違いざまに名前を囁く声、目で追いかける女の子たちの気配。
「やっぱカッコよくなってない?」「軽音の成瀬くんだよね?」
そんな声がひそひそと聞こえてくる。
煌は、まるでそれに気づいていないように歩き続けていた。
だけど夏弥は知ってる。
彼は、気づいていても気にしないだけだってことを。
変わらない、静かな熱を持って、前だけを見ている人。
(……やっぱり、あの煌がみんなに見られてるのって、ちょっとだけそわそわするな)
ふと、そんな感情を自覚して、自分の胸を押さえた。
自分でも、それがなんなのかはっきりとはわからなかった。
⸻
2年3組の教室のドアを開けると、すでに半分ほどの生徒が中にいた。
「あっ! やっぱ煌じゃん!」
ぱっと近づいてきたのは、軽く茶髪で爽やかな笑みの——林田真斗だった。
「おー。真斗」
煌も珍しく小さく笑って、手を軽くあげる。
隣でそれを見ていた夏弥は、思わず「やっぱ不思議なコンビだよなあ……」と、心の中でつぶやいた。
「一緒のクラスとか、運命でしかないでしょ、俺たち!」
「言いすぎ」
「冷たっ! ……けど、うれしいんだろ? 本当は」
ふたりのやりとりは、まるで呼吸のように自然だった。
ナツミが見たことのない表情をアキが見せているのが、なんだか少しだけ、くすぐったかった。
「夏弥ー!」
反対側から駆け寄ってきたのは、真っ直ぐな黒髪を揺らす瀬南羽玖。
「羽玖! よかったぁ、一緒だね!」
「うん、ねぇ、クラス表見たとき思わず叫びそうになった」
「私も……! ていうかさ、2年生って受験とか進路とか、急に現実味ある感じで緊張してたんだけど、羽玖が一緒なら心強いよ」
「ふふ、夏弥は変わらないね。……でも、そういうところが好きだよ」
にこっと笑う羽玖の笑顔は、昔から変わらないあたたかさがあった。
⸻
教室の一番後ろ、窓側の席に夏弥は座り、隣の列に煌が腰を下ろす。
真斗は煌の斜め前、羽玖は夏弥の前。
4人は近くの席になっていた。
(誕生日順でも名前順でもない...こんな偶然ってあるんだな)
夏弥はふと外の空を見上げる。
春の光がカーテン越しに差し込み、教室を淡く照らしていた。
「ホームルーム、始めまーす!」
担任の明るい声が響き、ざわめきがゆっくりと静まっていく。
煌の横顔が見える位置。
遠すぎず、近すぎないちょうどいい距離。
けれど、胸の奥には言葉にできない何かが、静かに灯っていた。
—
「じゃあ、席順で自己紹介いきましょうか~! 名前と趣味、それか特技!あと何か一言、お願いしまーす!」
担任の先生の軽い口調に、教室がざわめいた。
(自己紹介……苦手だな)
夏弥は少しだけ身を縮めた。
だけどすぐに、「ま、真斗が先でよかった」と、小さく呟く。
「はいはーい! 俺、林田真斗! 12月29日生まれ、B型でーす!」
手をあげて立ち上がった真斗は、早速ニヤリと笑ってから続けた。
「趣味はナンパ!好きな食べ物は購買のあんドーナツ、ガチで世界一うまいと思ってます! えー、彼女は募集中でーす! ……あ、でも最近は誠実系目指してるんで、どうぞよろしくっ!」
「誠実系はそんなこと言わない!」
「うるさいぞ、夏弥!」
笑い声が教室に広がる。真斗の空気作りは相変わらずだった。
「じゃあ次、成瀬くん」
指名された煌は、すっと立ち上がる。
「……成瀬煌。9月29日生まれ、O型です」
声は低く、けれどしっかりと教室に響く。
「軽音部でベースやってます。趣味は……曲作りと筋トレ。……よろしくお願いします」
簡潔な言葉だったけど、どこか凛とした空気をまとっていた。
「やっぱかっこいい……」
小さな声が、あちこちから聞こえてくる。
(うん、煌は煌だね)
夏弥はうなずいた。
「次、百合岡さん」
名前を呼ばれて、夏弥はちょっとだけ息を吸ってから立ち上がる。
「百合岡夏弥です。7月23日生まれ、A型。陸上部で、長距離をやってます!」
「特技は……走ること、趣味はお菓子作り。甘いものが好きなので、自分でよく作ります。……よろしくお願いします!」
素直で、まっすぐな言葉。
教室の空気がふわっと和んだのが、なんとなくわかった。
(あ、笑ってくれてる子もいる……)
少しほっとして、席に戻る。
「じゃあ次、瀬南さん」
羽玖は落ち着いた表情で立ち上がる。
「瀬南羽玖です。4月15日生まれ、O型です。生徒会に入ってます。趣味は料理で、得意なのは肉じゃがです」
「あと、特技はペン回しです。授業中、無意識にやっちゃってたら注意してください……。よろしくお願いします」
言葉は丁寧だけど、最後に少しだけ笑って見せた羽玖に、教室の空気がまた柔らかくなる。
(やっぱり、羽玖ってすごいな)
夏弥はうれしそうに彼女を見た。
こうしてクラスの空気は少しずつほどけ、春の始まりにふさわしい優しい光が差し込んでいた。
それぞれの名前が、この教室に刻まれていく。
ひとつずつ、ゆっくりと、でも確かに。
—
「百合岡ー! 今日から新メニュー、気合い入れて走るよ!」
部室から出た夏弥に、同じ陸上部の先輩が声をかける。
夏弥は元気よく「はいっ!」と返事をして、グラウンドへ走り出す。
柔らかな春の空気を切って、足がリズムを刻む。
(やっぱり、走るの好き)
そう思いながら、ふと耳に届く別の音に気づいた。
──ドゥン、ドゥン……。
少し遠くから、でもしっかりと響く低音。
体育館裏の音楽室から、軽音部の練習が聞こえてくる。
(この音……煌、かな)
ベースの音。派手ではないけれど、胸の奥に響くような深い音。
力強くて、でもどこか静かで、落ち着く。
(やっぱり好きだな、この音)
夏弥の顔に、自然と笑みが浮かんだ。
—
放課後の夕焼けが校舎を包む頃、夏弥は部活を終えて靴を履き替える。
ふと見ると、ちょうど同じタイミングで昇降口に現れたのは──煌だった。
「……おつかれ」
「うん、煌も。部活、どうだった?」
「まあ、いつも通りかな。……新入生、何人か見に来てた」
「へぇ、人気だもんね。煌のベース、かっこいいし」
夏弥が何気なく言うと、煌は少しだけ照れたように目線を外した。
「……ありがと」
2人は並んで歩き出す。
西の空には、夕焼けがじんわりとにじんでいた。
「クラス替え、まさか同じになるとは思わなかったな」
「うん、ちょっとびっくり。でも、嬉しかったよ」
「俺も。……なんかさ、また新しく始まるって感じする」
夏弥は、そう言った煌の横顔を見つめた。
落ち着いた声に、青い炎のような静かな情熱が宿っているのがわかる。
「これから、楽しみだね」
「うん。……また、よろしくな」
その一言が、なんだか新しいスタートの合図みたいで──
夏弥はまぶしい夕陽に目を細めた。
こうして、春の一日がゆっくりと幕を下ろす。
まだ名前もつけられていない、
だけど確かに芽生えはじめた、
ひかりのような何かが、胸の奥でそっと揺れていた。
—
──名前を呼ぶだけで、心が少しだけ弾んだ春の朝。
誰よりも近くにいたはずなのに、
お互いの“特別”にはまだ気づけていない2人。
何気ない一言やすれ違う視線、
そのひとつひとつが、心を震わせていく日々を描いていきたいと思っています。
きっと、あなたにもこんな春があったかもしれない。
まだ恋と呼べない気持ちが、静かに始まっていた季節。
ここから始まる“ひかりといろとおと”の物語、
どうか、そっと耳を澄ませながら読んでいただけたら嬉しいです。
── 向灯葵