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毒蜘蛛




”ソーベリックの人喰い鬼”ヴェロニカ。


本名は、マリア・ルイズ。

黒髪、アメジストの瞳に乾いた夜の声を持つ狩人である。


彼女は、ランクサストル公サヴェリツァ家の狩猟官ヴヌール

先祖代々の由緒ある”獣狩りの狩人”だ。


狩猟官は、領主に仕える狩人だが額面通りの猟師ではない。

馬に乗り、猟犬を駆って貴族たちの優雅な狩りに参加する。

彼ら自身も列記とした貴族である。


貴族の遊びで最も貴族的なもの。

平民が楽しむことを許されず、貴族の特権となった遊びが二つある。

それが騎士の馬上試合と狩猟である。


かつては、どちらも若い戦士が武芸を披露して出世の糸口となる催し(イベント)だった。

しかし身分が定まると貴族だけが参加できるようになった。


狩猟官は、狩場を管理する官職だ。

だがもちろん貴族が実際に森の獣を数えたり、猟場の番人をする訳ではない。


貴族の狩りは、いわば()()である。

古臭い伝統に則って1から10まで決められた慣例に従って行われる。

狩猟官は、この儀式を管理するのが役割だった。


儀式である以上、貴族の狙う獲物は、何でも良い訳ではない。


鳥類、キツネ、クマ、イノシシのような獲物は、好まれない。

高貴な遊興ゲームは、シカが最上の獲物とされたのだ。


まずクマやイノシシのような猛獣は、()()を避けるため。

次にウサギやキツネのような小物は、高貴な遊興に相応しくない。


シカを狙う理由は、すばしっこく逃げ回り、遊興ゲームとして楽しいこと。

森に入ってすぐに終わるようでは、興ざめも良いところだ。


そしてシカが住む森は、かなりの広さが必要となるため領主の力を誇示するものだからである。


何と言っても庶民にウサギや鳥を獲るなとは流石に言えないだろう。

だからシカは、庶民が手を出せない特別な獲物と考えられた。


故に狩猟官は、鹿追の知識を身につけなければならない。

足跡や糞を調べ、シカの逃げ道を熟知する技だ。


しかしもちろんルイズ家は、ただの狩猟官ではない。


ランクサストル公家中では、ある種の獣を”()()”と呼んだ。

───別段、シカに似ているという訳ではない

隠語である。


狩人の間では、”ランクサストル公のシカ”で通っている。

有名な伝承だ。


ランクサストル公の館には、シカの標本が保存されていた。

ヴェロニカ(マリア)も幼少の頃からシカについて徹底的に学んだ。


シカをランクサストル公が狙う理由は分からない。


獣化のメカニズムは、未だ謎を秘めている。

しかし姿が似た獣には、共通する条件があると信じられた。

つまりシカは、同じ原因で獣化したと考えることができるのである。


そして狩猟官ルイス家の研究が一つの答えを導きだした。

それがボカルメ病である。




ボカルメ病は、マッチンマンガ諸島の風土病である。

病名は、発見者のジャック・ボカルメ博士にちなんでいる。


病原は、スピロヘータの一種であり、自然界での宿主は、人間のみとされている。

ヒトの体内でしか生きられず、蚊やダニなどによる伝染はほぼなし。

直接感染に限定され、性行為、輸血などが唯一の感染経路である。


罹患者は、免疫細胞が細菌が寄生した細胞ごと攻撃するため喀血などを起こす。

この時、罹患者の血液に触れることが主な感染経路となる。


ワクチンも有効ではなく、免疫を獲得せず何度でも罹患する。


ヴェロニカの祖父は、このボカルメ病とシカを紐づけていた。

もちろんまだまだ何も分かっていない。

ただ一族は、狩猟官の務めとしてボカルメ病を追っている。


マッチンマンガは、ヴィン島の近くにある島ではない。

約8949Km離れた南洋に浮かぶ島だ。

だからボカルメ病にカタリナ・ベックのような街娘が感染するはずがない。


カタリナ・ベックが海外旅行に出た記録はない。

騎士団オーダーも感染経路に関して何も掴めなかった。




「…カタリナ・ベックは、どこでボカルメ病に罹った?」


ヴェロニカは、紅茶を飲みながら呟いた。

テーブルには、乱雑に資料が散らばっている。


アメジスト色の瞳は、せわしなくその文字を追った。

しかし新しく浮かんでくる情報はない。


警察の捜査結果によればカタリナは、直近1ヶ月ほど所在不明になっていた。

忽然と姿を消した訳である。


フェルエール診療所に現れたのが2週間程前。

つまり足取りが分からない期間は、7~10日程度。

この間にボカルメ病に感染したと考えられる。


だが仕事も無断で休んで南洋の遠国に旅行するだろうか?

そもそも彼女にそんな蓄えはない。

誘ってくれる裕福な恋人もいたらしいという噂もない。


第一、出国した記録は見つかっていない。

感染したとすれば国内だ。


しかしボカルメ病罹患者の輸血液なんて宿礼院ホスピタル血統鑑定局ブラッドウォッチが見逃すはずがない。

仮に出たとしてもボカルメ細菌は、人体の外では、30時間も生存できない。

輸血液の中では、蚊が吸った血と同じくボカルメ病は、死滅する。


一番に罹患者の吐血が疑われる。

しかしカタリナの近辺でボカルメ病の罹患者は、発見されていない。


そうなると浮かんでくるのは、南洋帰りの恋人とのセックスだ。

直接感染以外では、感染しないボカルメ病の感染経路は、他に残っていない。


一応、騎士団も警察もカタリナの恋人を調査した。

3人の男が浮かび上がって来たが全員、ボカルメ病には、罹患していない。

南洋に旅行に行った形跡もない。


フェルエールの治療を調べても、そういった訴えは残っていない。

どうやらフェルエールにも感染経路を説明していないのだ。


では、レイプか?

とも考えられる。


だが宿礼院は、ボカルメ病の罹患者が性行為に及ぶのは、難しいと返答して来た。

特に()()の場合は、である。


全身の虚脱感、四肢の痛み、発熱、喀血。

この状態でレイプは、無理だろう。


一方で血統鑑定局は、興味深い指摘をした。

───彼らがこれほど協力的になるのも珍しいのだが


血統鑑定局は、カタリナのボカルメ細菌を調べると珍しい()()を発見した。

マッチンマンガ諸島のボカルメ細菌にはない特徴を見つけたのだという。


「歯切れが悪いな。

 …どういう特徴を見つけたんだ?」


ヴェロニカは、耳を指で引っ張りながら困った顔をする。


それは、遺伝子であろう。

だがこの知識は、広くまだ世間で知られていない。

血統鑑定局()()が秘匿する知識であったのだ。


つまりカタリナの体内で見つかったボカルメ細菌。

これは、かなり長い期間、マッチンマンガ以外の地でヒトからヒトに渡って生きて来たらしい。


この点を指摘したのは、血統鑑定局だけだった。

宿礼院も細菌の違いに気付かない訳がないとヴェロニカは、考えた。


(とはいえ…。

 それで連中の()()と決め付けるような話じゃないな。)


宿礼院は、騎士団オーダーの支部である。

だが手を抜くことがあっても不思議ではない。

細菌の特徴に気付かなかったのは、隠匿ではなく単なる怠慢の可能性もある。


ボカルメ病は、普通の医者が研究するような病気だ。

宿礼院が意図的に広めて実験するような怪異ではない。


対して血統鑑定局は、部外者だ。

狩人の騎士団の成員ではない。

───厳密には、彼らは狩人ですらない


手伝ってくれるのは、特別な事情がある場合だけだ。


今回は、海外の病原体が持ち込まれた危険性である。

実際、むしろ血統鑑定局は、進んで協力したぐらいだ。

従ってこれは、彼らが宿礼院以上に熱心に調べた結果だろう。




「獣と全く関係ない事件を追ってるそうじゃないか。

 ええ?」


矢庭やにわにそんな言葉が降って来た。

ヴェロニカが振り返ると胸糞悪い顏がそこにある。


湾色ラグーンブルーの瞳に短く整えた薄灰色の髪。

人を食ったような若気にやけ面の女。


”毒蜘蛛”ギネスだ。


「………。」


ヴェロニカは、彼女を無視する。

それでもギネスは、ニタニタ笑っている。


「キヒヒ…ッ。

 返事ぐらいしてくれても良いだろォ?」


ギネスがそう言うとウンザリしたようにヴェロニカは、答える。


「…悪いけどあんたを殺す予定を入れる暇がなくってね。」


「ええーっ?」


ギネスは、ヴェロニカの隣の椅子にデカい尻を降ろした。

そして断りもなくテーブルの上の書類を手に取る。


「あんたは、特別?

 騎士団もなんであんたのために血統鑑定局や宿礼院まで使って調べてるのかな?」


「はあ。

 ………さあね。」


鬱陶しそうにヴェロニカは答える。


ギネスは、糞虫の巣(スカラベズ・デン)の狩人だ。

太陽の運行を司る黄金虫を象徴シンボルとする狩人の一派。

その起源ルーツは、遥かな東方の砂漠国、古代ザトラン文明にある。


糞虫の成員メンバーは、貧者、犯罪者、娼婦、下層の労働者である。

神話から紡がれる神秘的な起源と裏腹に、だ。


ギネスも夜の街で産まれた。

父親は分からず、母親同様、自らも娼婦となっている。


だが彼らは、確かに古い知識と伝説の後継者である。


ギネスは、話した。

ある日、本当の父親が現れて自分に獣狩りの技を伝えたのだ、と。


「こいつに近づきな。」


ギネスは、一枚の写真をヴェロニカの前に投げた。


富貴な若い貴婦人が夫であろう若い男と並んで写真に写っている。

二人は、幸せそうにカメラに微笑んでいた。


「……誰?」


ヴェロニカが問うとギネスが短く答える。


「ヴィクトリア・カーナヴォン。」


「…ネタは?」


「ボカルメ病の治療法を知ってる?」


「………。

 はあ…。

 話したくてたまらないようね。」


溜め息を吐いたヴェロニカがそう言うとギネスは、ニヤニヤして話し始める。


「ペニシリン系の抗生物質を使うんだけど。

 このカーナヴォン家は、大量にペニシリンを購入してる。

 定期的にね。」


「……医者に診せずに嫁さんの治療をしてるってこと?

 自分の屋敷で?」


ヴェロニカは、厳しい目で写真の夫を睨んだ。

男は、如何にも人畜無害という顔をしている。

だが写真で人柄など分かるものではない。


ギネスは、鼻先で笑う。


「キヒッ。

 少なくとも結婚して5年間、ヴィクトリアは屋敷から出て来ない。

 それまでの友人とも顔を合せてないらしいから…。」


「ボカルメ病ってそんなに治療に時間がかかるの?

 かなり重いってこと?」


「そこは、治療記録がないからね。

 でもボカルメ病には、何度でも罹患する。

 免疫が抗体を作らないからなんだけどさ。」


ギネスがそう言うとヴェロニカは、かなりの時間、黙り込んだ。

彼女の理解を超えている。


「………自分の嫁さんを…。

 ………定期的にボカルメ病に感染させてるってこと?」


「しかも細菌を保管するために生きた人間を利用してる。

 キヒヒヒ…いや、これは、まだまだ空想の話なんだけどねェ!」


ギネスは、そういって面白がった。


「…考えられない…。」


ヴェロニカは、頭を抑えた。

黒い髪がテーブルの上に散らばる資料に乗る。


信じられない馬鹿もいたものだ。


南洋の風土病を定期的に感染させる。

そんなことが一個人にできるとは思えない。

大掛かりな組織があるハズだ。


ひょっとすると、それこそシカに関わる何か。

謎を解き明かす糸口かも知れない。


だが獣ではない以上、狩人が立ち入る隙はない。

ボカルメ病の感染経路は、知りたい。

だが口実がない。


「…あんたは、無駄口を利きに来たの?」


ヴェロニカは、そう言ってギネスに顔を向ける。

悪戯いたずらっぽい湾色ラグーンブルーの瞳が見つめ返して来た。


「私がカーナヴォン家に用があるの。

 獣狩りだ。」


白状したギネスは、騎士団の指令書を見せる。

ヴェロニカは、封筒から手紙を抜き取って目を通した。


通常、魔女狩りの類型とも形容される獣狩りの狩人が社会に配慮する風習はない。

それがカーナヴォンのような資産家でも例外ではなかった。

獣とあれば文句なく押し入って調べるというのが当たり前だ。


しかしそれは、大昔の話だ。

獣の痕跡を探し回る所から狩人が一人でやっていては、キリがない。


騎士団本部の指令は、糞虫の調査に拠る。

家庭内使用人、煙突掃除夫、娼婦、屑漁り…。

糞虫の情報網は、社会の様々な所に及んでいる。


今回もその典型的な運びとなっている。


糞虫が獣の情報を掴む。

蒼天院セルリアンか新顔の狩人を送り込む。

そして前任者が失敗したところで古参の狩人に指令が出る。


「ふーん…。

 で、私に手を貸して欲しい訳?」


ヴェロニカは、指令書を読みながらギネスに訊ねる。


「いやあ。

 あんたがボカルメ病を調べてると思い出したんでね。

 一枚噛みたいと思うんじゃないかって。」


「ふん。

 …調子の良いこというなよ。」


指令書によれば2人の狩人が消息を絶っている。

一人は、蒼天院のホーガン中尉。

一人は、騎士団本部直属の”去勢人キャストレイター”セス。


本部直属というのは、特定の支部の成員ではないということ。

特別な狩人という訳ではない。

ヴェロニカも本部直属である。


「結局、獣について何か分かった?」


「そこにある通り。

 ホーガンもセスも何も情報を残してないね。」


その答えを聞いてヴェロニカは、肩をすくめる。


ホーガンは、()()()()セスは、腕の立つ狩人だ。

しかし獣の痕跡を辿るのは、得意ではなかった。


獣の多くは、知性も何もない化け物だ。

しかし中には、狡猾な獣もいる。

姿を隠し、狩人を逆に狩るような。


獣は、堂々と狩人の前に出て来て勝負を挑んだりしない。

従って獣を探す間に返り討ちに遭う狩人もいる。


また、ごく稀に人間の姿に戻る獣もいる。

そういった獣は、人間社会に溶け込んでいる。

もちろん本人でも獣化を制御できない方が圧倒的に多いが。


「…どう考えても人選を間違てない?」


「そこで”ソーベリックの人喰い鬼”に手伝って貰いたいなあ!

 ね、獣を探すの得意でしょっ!?」


ギネスはそう言ってヴェロニカの顔を覗き込んだ。

やおらウンザリしたようにヴェロニカは、首を縦に降る。


「………騎士団の指令じゃ仕方ないわね。」


素晴らしい(トレビアン)!」


ギネスは、喜んだがヴェロニカの表情は、憂鬱だ。




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