死体
死体が二つ。
一人は、診療所の主、アンリ・ド・フェルエール医師。
銃で撃たれた後、首を持ち去られていた。
これは、犯人の異常性を示すものか。
あるいは、捜査を撹乱する目的と判断された。
もう一人は、カタリナ・ベックという若い女だ。
ここに通っていた患者である。
だが彼女は、地元の人間じゃない。
どういう訳かフイユーから引っ越していた。
───東海岸、大ヴィン島の反対側からである。
しかも賃貸住宅に届けた名前は、偽名だった。
「…物盗りの犯行か。」
年配の刑事が疲れたように力なく溢す。
彼に見立て通り、診療所からは、金品がゴッソリ持ち出されている。
だが、もう一人の刑事が首を振って片眉を釣り上げた。
「おいおい。
俺は、このカタリナ・ベックが関係してると思うがね。」
それを聞いて最初の刑事は、鼻で笑う。
「ふふっ。
お前は、探偵小説の読み過ぎだ。」
最初の刑事は、そういって診療所の床を睨みながら話した。
さっきまでそこにカタリナ・ベックの死体があった。
まだ血の跡がべったり残されている。
「東海岸からどうしてこの街に来たのか知らんが。
引っ越して来ただけだぜ、きっと。
何も問題ないだろうよ。」
「わざわざ名前を偽ってか?」
「…なあ。
あくまで探偵ゴッコをするつもりか?」
「かなりの美人じゃないか。
逃げた商売女に違いないぜ。
でなきゃ、男だな。」
「馬鹿言え。
こんな娘と俺は、寝たこともねえ。
もし新顔が入ってくれば店の連中が紹介しに来るわな。」
と、このようなやり取りがあった。
異常な殺人現場。
謎の女の死体。
誰もが物語の始まりを想起する場面だ。
何か、裏に他の事件がある。
しかし州警察は、真面目に捜査する気になれなかった。
それというのも被害者の評判が悪かったためだ。
アンリ・ド・フェルエールは、医師の腕はともかく賭博で借金があった。
親戚とも相続問題で争っている。
借金を返す充てにしていたのに思うように行かなかったらしい。
金に困っている男の所へ強盗が押し入る。
アンリがまとまった金を手に入れたという話でも聞きつけたのだろう。
州警察は、そう考えた。
女の方も余所者だ。
しかも厄介事を抱え込んでいるのは、明白。
売春組織だの余計な問題に関わりたくない。
ともかくこの被害者ふたりは、忌むべき者たち。
この事件を放置しても住民は、不満に思わないだろう。
警官たちがそう値踏みしている時だった。
「……なあ、あんたら。
ボカルメ病って聞いたことあるか?」
不意にそんな声がした。
刑事たちは、声のした方に向き直る。
「なんだ、お前は…!?」
警官たちは、はじめ新聞屋でも潜り込んだと思った。
物凄い剣幕でそいつを睨みつける。
だが、すぐに彼らは、次の台詞を飲み込んだ。
凄む相手を間違えたからだ。
たちまち刑事も警官も総毛立った。
声の主は、背の高い女だった。
短いケープマントが着いたボロボロの外套は、不潔で血と泥に塗れている。
時代がかった三角帽子、膝まである長い狩猟長靴。
きちがいでもなければこんな恰好は、”獣狩りの狩人”しかしない。
獣狩りの狩人とは、額面通りの猟師ではない。
人が獣に変身する怪異、”獣化”と呼ばれる現象。
この怪異を追って獣狩りの狩人は、夜の闇を歩いていた。
獣になった人間は、二度と人間に戻らない。
狩る以外にない。
だが例え姿が変わっても、獣が人間であった事実は変わらない。
故に獣狩りの狩人は、人々から尊敬と共に忌諱の対象となった。
「…聞いたことあるかって言ってるんだぜ。」
狩人は、さっきから指で摘まんだ紙をペラペラと弄んでいる。
カタリナの診断書らしい。
刑事たちには、読めない。
いわゆる医者の走り書き、蚯蚓が野田潜ったような文字で書かれていた。
やがて恐怖を抑えて年配の刑事が狩人に訊き直した。
「すまな…いや、申し訳ない、狩人様。
…もう一度言って下さいますか?」
狩人は、乾いた夜の風のような声でさっきの質問を繰り返した。
「ボカルメ病さ。
この辺りで流行ってたりするのか?」
「し、知りません…。
…聞いたこともない病名ですな。」
「本当か?」
「え、ええ……。」
慌てて年配の刑事は、首を縦に振った。
すると狩人の目が鋭くなった。
「適当に答えるんじゃないぜ。」
狩人が念を押すと刑事の顏が土色になる。
「う……あ。」
彼は、仲間の顔を順番に祈るように目線を走らせた。
全員、目を丸くして不安そうに頷くだけだ。
「し、知りません。」
「自分も聞いたことはないです。」
「知りません、知りません!」
「…み…も、戻って調べさせますッ。」
「そうか。」
狩人は、そう言って小さく頷いた。
その様子から見てあまり答えに期待していなかったようだ。
「…差し支えなければ…。」
恐る恐る刑事が狩人に声をかける。
まるで人食いライオンを前にしているような怖がり方だ。
「こ、こちらも狩人様の御用件を伺いたいのだが?」
それが最大の関心事だ。
狩人が地元をウロウロしてるなんて寝つきが悪い。
馬鹿なことを。
そんな顏で狩人は、答える。
「獣を狩るためだ。
狩人に他の用事などないよ。」
「ぶっ。
そ、それは、仰る通りです………。」
刑事たちも顔を見合わせる。
だが、それを言われると鮸もない。
「…心配しなくてもこの街で獣は狩らない。」
狩人は、そう言って刑事たちを安堵させた。
(ったく、それを先に言ってくれよ…。)
などと刑事たちは、内心毒づいた。
とはいえ不気味な狩人を見なくて済むならどうでもいい。
夜ごとに出る獣の犠牲者。
家族を獣として狩られた遺族の悲愴な叫び。
住民同士のいがみ合い、中傷、集団ヒステリー。
若い者ならともかく年配の者なら獣狩りを覚えている。
金輪際、獣狩りになど関わりたくないのが彼らの心境だ。
狩人は、一頻り診療所を調べて立ち去った。
警察も何か新しく分かったら伝えると約束した。
その話をしている時である。
「どうやって連絡すれば良いでしょうか?」
警官が狩人に質問した。
すると狩人は、時計を気にしながら答える。
「…少し待て。」
「え?
は、はい……。」
狩人がそういうので警官も黙って従った。
やがて5分ぐらいすると10歳ぐらいの男の子が駆けて来た。
その身なりは、貴族が狩猟で連れて行く少年従僕らしい。
「狩人の騎士団の従僕だ。
何かあればコイツらに持たせろ。」
狩人は、そう言って少年従僕の首根っこを乱暴に掴んだ。
襟に騎士団の紋章が刻まれた銀バッチが着いている。
狩人の騎士団とは、獣狩りの狩人が伍する組織である。
しかし警官は、ビックリした。
背の高い狩人に掴まれて少年は、爪先立ちになっている。
「そ、そんな乱暴なことしなくても分かったよ!」
警官が咎めると狩人は、少年従僕を放してやった。
だが謝罪の一つもない。
少年従僕も一言一句、苦言を漏らさない。
狩人から乱暴を受けるのは、日常茶飯事なのだろう。
それを警官は、気の毒に思った。
(美人は、冷酷っていうけど…。)
などと思いながら警官は、狩人の美しい顔をチラッと盗み見た。
端麗だが疲れ切った目をしている。
殺人鬼の眼だ。
すぐに黙ったまま狩人は、手紙を突き出す。
少年従僕は、それを受け取ると挨拶してまたどこかに駆けていった。
「あ、あの…。
狩人様、騎士団に手紙を預けろと言われましても…。
その騎士団とどうやって連絡をつければいいんでしょうか?」
警官は、困った顔で狩人に媚びたように質問する。
次の瞬間には、首を斬り落とされそうだ。
「その時が来れば分かる。」
「はあ?」
狩人は、それだけ言うと警官に背を向ける。
残された警官は、首の後ろを手で掻いた。
(まったくふざけるんじゃない。)
と口に出して文句を言えればどれだけ気が楽か。
狩人は、ボロボロの恰好で街に繰り出した。
道を行き交う人は、一斉に彼女から離れて歩く。
それなのに警官は、蒸気機関四輪車の蒸気で狩人の姿を見失った。