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倫敦 時折、春 外伝〜紅時〜  作者: 木村空流樹


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紅時16 お歯黒溝

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 数日が過ぎた。空蝉は蒲団部屋に居続ける日々。

 紅時達は一時の平穏を取り戻した。


 忙しくする毎日に追われ、紅時だけが空蝉にあさげを出しに行く係になった。一日に一食である。

 だが、誰も可笑しいとは思わなかった。此の時代は食べられるだけましなのだ。


 布団部屋に慣れた空蝉が、紅時に微笑みかけた。

 両手足は縛られた侭である。


 御飯を食べさせるのが、紅時の日課になった。


「周りの皆は何と噂しているの」


 空蝉が口を開きながら、云う。


「もう、忘れたかのようにしています」


 紅時は無表情で答えた。女の裏の噂話が収まらないのも事実。裏では酷いものだが、表面は何もないようだった。


「食べて下さい。まだ、ねえさんの髪結いが残っています」


「若紫の髪結いね。まだ、怒っているでしょ……」


 空蝉の眉毛が苦痛で曲がった。彼女なりには後悔しているのだろう。


「怒っていません」


 太夫は吹っ切れた顔をしている。嘘ではない。


「嘘をおっしゃい。若紫の気性は皆が知っているわ。どうよ」


「空蝉には怒っていません」


 空蝉は口惜しそうな顔をした。

 其処からは黙って飯を食った淡々とした時間が流れる。食べさせ終わると紅時は、盆を持って立ち上がった。


「本当にねえさんは怒ってません。」


 空蝉が悲痛に顔を歪ませた。


「こんな事になるなんて、思わなかったのよ。旦那さんはバレなければ問題ないって……。魔が差したの」


「庭に女郎が見せしめに木に括り付けられてるのを見た事があるでしょう。皆、男がらみで掟を破ったモノ達です」


「私は売られて間もないから、見ていないわ。古いねえさんも庭には降りるなと云われていたもの……」


「だから、たがら、若紫ねえさんの言葉を信じなかったんですか……。客の取り合いは掟破りだと……」


「知ってたわ。だけど、奪わずには居られなかった」


「女の(さが)ですか……」


「若紫だって、私が昔仕えていた第5位の女郎の旦那はんを寝取った事がある……。先に手を出したのは若紫だ」


「存じ上げてません」


「此の店も若紫で繁盛したような物さ……。お咎めは庭に吊るされた位だったよ」


「やっぱり知らなかったんだね。紅時。女郎とは醜いものさ……」


 紅時が盆を持って立ち去ろうとした。




「紅時。逃げて。空蝉を連れて御逃げ……」

 部屋の外から末摘花の叫び声がする。



 紅時は鋏を胸元から出し、手と足の紐を切った。

 何故、(はさみ)があるのかと云うと、紅時は太夫から懐に入れられる裁ち鋏を預かった。

 若紫が禿の時にねえさんから裁縫道具を一式貰ったのだ。彼女は手先も器用で裁縫をねえさんから習ったのだ。其の一式を紅時が預かったのだ。


『裁ち鋏を持ち歩きなさい。役に立つ時が必ずくる……』


 意味深な言葉だったが、太夫の言葉を受けて、晒しに巻いて紅時は持ち歩いた。なので、空蝉に会う時も隠し持っていた。

 言葉の意味を理解した紅時。


「逃げますよ……。付いて来て下さい」


「何処に……」


「炊事から逃げて、庭に出ます。其処からは使用人ようの通用口があります。其処を抜ければ大通りです。夜見せ迄、時間を潰しましょう。姉さんが金を握らせている茶屋があります。其処で待ちましょう」




「紅時。早く……」

 夕顔の声も聞こえる。

 直に立ち上がると、紅時は手を引っ張って、洗い場迄走った。食事を出す為と女郎が逃げられないように高い敷居に木の板が長い机のようになっている。

 大柄の男の喜助を末摘花が押さえ込み。小柄な男を夕顔が抱き着いて身動きを取れなくしているのを、横目で見た。

 紅時は、木の長い机を軽々飛び越し机に乗った。空蝉が難儀して、紅時が上から引っ張る。



「足抜けだ。誰か取り押さえろ。」


 男の声が木霊する。末摘花が頭ごと抑え込んだ。


「行け。紅時。」


 末摘花が叫ぶ。裸足で、炊事場に出ると一目散に庭を駆け出した。


 夕顔が男に振り払われる。ベタンと地面に叩きつけられ、体を捻り男の足に縋り付いた。

 喜助が末摘花の手をひっぺ返す。

 喜助が空蝉を追い掛けようとする。其の時、一人の年増な女郎が大柄な男に飛び掛かった。

 振り払われないように必死でしがみ付いている。

「空蝉の元の姉さん……」


 末摘花が驚いて、直に我に帰り、喜助の足にしがみ付く。


「あんた達も手伝いなはれ。お京が殺されるかもしれないんよ。私の妹弟子に酷い事は辞めておくれやす」


 空蝉の5番目人気のある姉さんの声で、空蝉の元の姉妹達が喜助の手を握り締めた。


「お末さん、夕顔さん。早く空蝉の元へ……」


 末摘花と夕顔が頷くと、炊事場の机を飛び越えて行く。



 案の定、庭にある出入り口の木で出来た戸の錠前で紅時達は止まっている。


「退きな。紅時」


 末摘花が叫ぶ。

 其の声で二人は振り返り、其の場を離れた。

 末摘花が蹴りを入れると、戸が開いた。慌てて空蝉が出ようとすると、喜助が怒鳴り声を上げながら、近付いてくる。


「足抜けや〜。折角、朝から楽しめると思ったのに……。残念だ。空蝉は首を折るしかない。無理だな。お歯黒溝(おはぐろどぶ)に涅槃時に捨てに行くつもりだったのにな」


「馬鹿をおっしゃい。空蝉は死なせないよ。」


 末摘花が炊事場から持ち出した竹の箒を、喜助に向けた。夕顔もスリコギ棒を握っている。

 紅時と空蝉は腰を抜かしている。


「足抜けか……。俺も混ざりたいな……」


 小柄な男ではない喜助と体格の似た下男が近付いてくる。

 末摘花が舌打ちする。大柄な男を相手に夕顔ではキツイ。

 喜助が末摘花の箒を掴み引っ張る。びくりともしない。夕顔が持っていたて棒を喜助に投げた。頭に当たって甲高い音がする。喜助は怯んで、箒を離した。


「此の尼が……。下手に出てれば良い気になりやがって……」


 喜助が夕顔を睨む。だか、紅時達の前から離れない。奥歯を噛み締めて睨みつける。

 喜助が夕顔に殴りかかろうと、間合いを詰めた時に、末摘花が左腕を掴んで関節を後ろに回した。


「ぐう」


 喜助が痛みで地面に両膝を付くと、夕顔が箒を拾い牽制する。


「ふざけやがって」


 もう一人の下男が、箒ごと夕顔を払い除ける。彼女は、左に払われ、木にぶつかった。痛みで身動きが取れない。


 下男が近付いてくる。殴られると紅時が思って、空蝉に被さった。

 ゴンと音がする。だが、痛くない。


「堪忍な。堪忍な……」


 紅時より上に年増な女郎が覆い被さっている。

 空蝉が悲痛な叫びを上げる。


「姉さん。私は良いですから、其処をどいて下さい。」


 下男が又、腕を振り下ろす。ゴスと肉にめり込む音がする。


「堪忍。堪忍な……」


 空蝉の昔の姉さんは動こうとしない。

 数発殴られる音がする。辺りが静まり返る。




「待ちな。阿呆どもが……。」


 後ろから声がする。

 太夫が包丁を持って、裸足で立っていた。













京遊郭にはお歯黒溝はありませんが、敢えて作内には登場させました。女郎の苦しみの象徴としてです。

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