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お気に入りのお客さん

作者: ヒトリヨガリ

 あれ、そういえば、最近あの人見てないなぁ…


バイトの時間が始まって1時間あまりが経った頃だろうか、ふと私はそのことに思い当たった。

 もうどれくらいあの人を見ていないっけ?2週間?3週間? 詳しい日にちはもちろんわからないけれど、でもここのところトンと見ていないのはたしかだった。

  

 私は21歳、フリーター。家の近所のドラッグストアでアルバイトをしている。ここでアルバイトをしだしてもう2年ほどになる。これはきっと他の人でもあることだと思うけど、2年も同じ場所で働いていると、『お気に入りのお客さん』というのが、1人や、2人ぐらいはできるのものではないかと思う。私もその節で、お気に入りのお客さんというのが1人いるのだ。


 その人は30代くらいの男の人で、身長は170cmを少し欠けるくらい。体型は中肉中背で、少しO脚気味なせいか歩き方にどことなく特徴がある。髪型は長くもなく短くもなく、全体的に重めな黒髪マッシュという感じだ。顔はこのコロナパニックのせいで、常にマスクをしているこのご時世だからちゃんとはわからないけれど、目はキリッとした二重瞼だ。たぶんお店に来る時はいつも仕事帰りなのだろう、いつも決まって深緑色の作業着を着ている。どんな私服を着ているのかは知らない。仮に私服姿でお店に来たとしても、もしかすると私にもあの人だとはわからないかもしれない。それほどまでに私の中では、あの人はもう深緑色の作業着、というのが定着してしまっている。


 それと、その人の声は私はまだ一度も聞いたことがない。これは全くもって不思議な話なのだけれど、ウチの店はレジを2つ体制でやる決まりになっているのだけれど、その人はなぜだかいつももう片方のレジに判で押したように並んでしまうのだ。もちろんほんの数回くらいはその人のレジをやったことはまぁあると言えばあるのだけれど、その時はその人は声を出さずに頭を軽く下げたり、なんとなく手だけでリアクションをしたりしただけだった。

 

 これまで沢山のお客さんのレジをしてきた経験からすると、あまり愛想のある人ではなさそう、というのが私の一応の見解ではある。私としてはそれがまぁちょっと気掛かりなところではあるのだ。まだそう確定したわけではないけれど、これで本当に無愛想な人だったとしたら、私の〈お気に入りの人リスト〉からは即刻除外されることになるだろうと思う。このアルバイトをしてからというもの、礼儀を知らない無愛想な人が、私はものすごく嫌いになったのだ。


 そもそもなぜその人が私のお気に入りの人になったのかというと、それには明確な理由は特にない。さっきも言ったようにほとんどその人のレジもしたことはないし、声も聞いたことがないのだ。けれども、なぜだかいつもなんとなく目で追っている自分がいたのだ。でも時々そういうことってあるような気がする。なんとなく目で追っちゃう人。たぶんその人が醸し出す雰囲気なり、オーラなりがそうさせるのかもしれない。でもとにかくそのことに自分で気付いた時から、その人は私の中で『お気に入り人』ということになったのだ。

 

 あの人を最近見てないなぁ…、ということに思い当たってから、私はあの人のことが頭から離れなくなっていた。私は狭いレジの中に立ったまま、あの人のことをずっと考えていた。


 もしかしてコロナにでもなっちゃったのかな?それとも病気になっちゃったのかな? それとも引っ越した?それともそれとも最近この近所に新しいドラッグストアができたから、そっちの常連になっちゃった?

 

 まるで箇条書きみたいに次から次へとそんな思考なり、仮設が頭を過ぎる。もちろんどれだけ考えてみてもアンサーはなかった。当たり前だ。私はあの人のことを何も知らないし、知る術もないのだ。私とあの人の関係は、ただの店員とお客。あくまでもそれだけの関係なのだ。

 

 あの人のことをこんなにも考えるのはもちろん初めてのことだった。それだけに一旦考え始めると、止めどがなかった。しかしそれから私はもっと肝心なことにふと思い当たった。


 そういえば、あの人は結婚しているんだろうか?


 不思議なことに、あの人について()()()()を考えたことは私は1度もなかったのだ。まるで高校の同じクラスの同級性の男の子でも見ているかのように、頭から結婚はしていないものだとばかり思い込んでいたのだ。


 なぜだろう? 現在、私があまりにも結婚とは無縁の位置にいるからだろうか。そのせいで目に映る他の人も、私と同じとどこか思っていたのかもしれない。でも考えてみれば、私はともかくとしても、あの人は結婚していてもおかしくはないのだ。私の見立てでは年齢は30代くらいのようだし、愛想が良い悪いは別にしても、ちゃんとしたまともな人だ。だから別に結婚をしていても何も不思議はないのだ。なんなら子供だっていてもおかしくない。


 そう思うと、私はなんだか急に不安になった。少しのショックさえ感じた。絶対、結婚してる。絶対、結婚しているでいいや。絶対、結婚してるに決まってる。


 今度はそのことで私は頭がいっぱいになった。


 私は自分の記憶を辿ってみた。それはあの人が左手の薬指に指輪をしていたかどうかということについてだ。なんとなくいつも目で追っていたから外見の容姿は、ほとんど全部覚えている。だから左手の薬指に指輪があったかどうかもきっと覚えているはずだ、と思った。


 しかしそんな私の願いとは裏腹に、どれだけ思い出そうとしても、その部分だけがポッカリと穴が開いてしまったみたいに、あの人の左手の薬指に指輪があったかどうかということだけに関しては、私は全く思い出すことはできなかった。指輪をしていたような気もするし、指輪はしていなかったような気もする。いや、あの人は常に左手だけはポケットの中に突っ込んでいたような気もする。いや、それは本当にあの人の記憶なのか? もうメチャクチャだ。


 私は自分の記憶力の無さに心底ウンザリした。なぜあんなにもいつも目で追っていたのはずなのに、そこだけは覚えていないんだ? 若干の怒りさえ覚えた。しかし、ふとある疑念がまた私の頭を過ぎった。


 あれ、でも、私はあの人とどうかなりたいとそもそも思っていたのか?


 純粋な疑問だった。たしかにあの人は私のお気に入りのお客さんで、それについてはなんの疑いもない。けれどもあの人とどうかなりたい、つまり付き合ったりしてみたいのか、ということになれば、それは一体どうなのだろう? 自分でもよくわからない。話をしたことがないとは言っても、これまで何度も顔は合わせて来たのだ。私がその気になりさえすれば逆にこちらから声を掛けることだってできたはずだ。(仕事上、そんなことはきっとまぁダメだとは思うけど)けれども私はそこまではしなかった。つまり私にはそういう気持ちはなかった。だからあの人の左手の薬指に指輪があるかどうかなんて、特に意識して私は見ていなかったのかもしれない。いや、でも逆にあの人からそんな風な(てい)で声を掛けられたとすればどうだろう? きっと私はなんの迷いもせず、イエスと答えるはずだ、ともまた思う。


 私はあの人のことが好きなのか? 今日はなぜだかわからないけれど、あの人のことをこんなにも考えてしまって、そのせいで一時的な錯覚みたいなものを今は起こしてしまっているだけなのかもしれない。わからない。


 私はさらにメチャクチャになったようだった。


 狭いレジの中に突っ立ったままそんなことをずった考えていると、いつの間にか時間がだいぶ経過していた。気が付くともう19時を過ぎていて、仕事帰りのお客さんがポツリポツリとやって来るようになっていた。1日の、最後の、少しだけお店が賑わう時間帯だ。私はそこでようやく我に返り、ちゃんと仕事をこなさなければいけなくなった。


 5分に1度くらいのペースで新しいお客さんがやって来る。その度にレジの横の自動ドアが軽快に開き、私は「いらっしゃいませ」と少しだけ声を張り上げる。暇だったさっきまでがなんだか嘘みたいだ。

 

 「ありがとうございました」とレジを済ましたお客さんを見送ると、そのお客さんと入れ替わるように新しいお客さんがやって来るのがチラッと見えた。私はその新しいお客さんの顔をろくに見もせずに、「いらっしゃいませ」と機械的に言って軽くお辞儀をした。顔を上げると、そこにいたのはなんと例のあの人だった。


 私は完全に不意を突かれたような形だった。心の準備を全くしていなかった上に、ろくに顔を見もせずに適当に挨拶をしてしまったのだ。失礼じゃなかったかな?変な顔していなかったかな?


 一瞬のうちに色々なことを私は考えた。私が、あっそういえばマスクをしていたんだ、ということを思い出したのは、あの人が店の奥の方に行ってしまった後だった。少なくとも変な顔だけは見られずには済んだはず。今日ほどマスクをしていることがこんなにもありがたいと思ったことはなかった。


 けれどもそれよりも、もっと気になったことがその一瞬のうちに私にはあった。もしかするとそれは私の見間違いだったのかもしれないけれど、私が顔を上げて、そのお客さんがあの人だとわかって、私は一瞬、それは本当に一瞬のことだったはずだと思うけれど、私はあの人のことを直視してしまったのだ。それは後になって思い出してみても、我ながら不自然だったと思わざる得ない感じの不自然な直視だったと思う。しかしあの人は、そんな私に対してニコッ微笑んで軽く会釈をしたような気がしたのだ。


 全てはあっという間の出来事だったので、あまりはっきりとは覚えていない。それにあの人もマスクをしていたから、本当に微笑んだのかもはっきりはしない。けれども目はニコッと微笑んでいたような気がしたのだ。私があまりにも不自然にあの人を見つめてしまったから、それがおかしかったのかもしれない。でも1つだけはっきりしているのは、あの一瞬、私とあの人はしっかりと目が合った。それだけはたしかだった。


 私は言葉では上手く言い表せない、なんだかソワソワと落ち着かない気持ちになった。しかしその後のあの人の様子を知りたくても、あの人は店の奥の方に行ってしまったらしくて、レジからだとその姿を確認することはできない。ウチのお店は横には決して広くないのだけれど、縦には広くて結構奥行きがあるのだ。それにプラス、ウチのお店は食料品なども大量も扱っているから、お店の中はゴタゴタとしていて余計にあの人の姿を確認するのは困難なのだ。


 「依田ちゃん、ちょっとレジ1人で任しちゃっていい?」


 私が横目でチラチラと、ちょっと背伸びなんかしたりして、あの人の行方をこっそり探っていると、突然隣のレジの柴川さんに大きな声で声を掛けられた。柴川さんは、もう40代後半くらいの中年のおばさんで、私とはもう長年のレジパートナーなのだ。私は突然背中越しに声を掛けられたものだから、そんな様子を見られていなかったかちょっと心配になった。


 「大丈夫ですよ」と私はあくまでも平静を装って言った。


 「なんだか知らないけど、さっきからお客さん、連続で1万円札ばっかり出すんだもん。お釣りがなくなっちゃったのよ。ちょっと後ろに両替えしに行って来るからね。すぐ戻って来るから」


 柴川さんはハキハキとした声でそう言うと、〈レジ休止中〉という立札をカウンターの上に置いて、バックヤードの方に足早に駆けて行った。ちょうどお客さんの波は途絶えていたから、そんな柴川さんの後ろ姿を私はずっと見届けていたのだけれど、その先にあの人の姿を私は発見してしまったのだ。

 

 あの人を見つけた途端、なんとか落ち着いたはずの緊張が、また一気にブワッと高まったのが自分でもはっきりとわかった。自分の心臓の鼓動さえ聞こえた。


 あの人は買い物カゴの中にいくつかの商品をすでに入れ、奥の角のコーナーを曲がって、今まさにこちら側、つまりレジにやって来ようとしていた。

  

 私は、なんでこのタイミング!?と切実に思った。たしかにいつも、たまには私のレジにも並んでほしいなぁなんて思ってはいたけど、でも、今日じゃない。いや、特に今じゃない。このままだと私があの人のレジをすることになっちゃう。さっきは醜態みたいものをさらしちゃったし、目も合っちゃたし、とにかく今日は、今だけは、あの人とこれ以上面と向かうのは恥ずかしい。柴川さーん、早く帰って来てー!と、私は心の中で叫んだ。


 けれどもどう考えても柴川さんが間に合うはずはない。どんなに早くても最低でも5分は掛かる。私は半ば諦めた。あの人は、左右の棚を、まだ買い忘れたものがないかというような感じでチラチラと見ながら、でも確実に1歩1歩と私のレジに近づいている。さっきは私もテンパってしまっていたから、あの人のことをちゃんと見る余裕なんてなかったけれど、あの人は今日もちゃんと深緑色の作業着を着ていた。私は今になってそれを知ったのだ。


 あの人が5メートル、3メートル、と徐々に私の所に近づいて来る。私はそこであの人のことを見るのをやめ、レジの正面を向いて、お客さんがレジにやって来るのを()()()()待っているような姿勢と、そして表情をした。


 あの人が最後にレジの1番近くにあるパンなどの軽食が陳列されている棚から、何かひとつ、小さい物を手に取って買い物カゴの中に入れたのが視界の端でわかった。商品が買い物カゴの中に落ちる音も聞こえた。来る。来ちゃう。私の緊張は、今、完全にピークに達した。


 レジのカウンターの上に赤色の買い物カゴが優しく「トン」と置かれた。


 「い、いらっしゃいませ」


 私は、また早速しくじった。普通に、いつものように挨拶を…なんて変に意識していたら、1番肝心な最初の『い』を噛んでしまった。そして負の連鎖みたいに、ヤバイ!と思ってすぐにそれを修正しようとしたら、今度は声が変に喉に絡まってしまって、自分でも驚くくらい声が上ずってしまった。私はあまりの恥ずかしさから、そのままどこかに走って逃げてしまいたくなった。こんなの私の声じゃない。私は泣きたかった。しかし、私の失態はそれだけではまだ終わらなかった。それは助長に過ぎなかったのだ。


 けれどもあの人は私のそんな噛んでしまったことや、声が上ずってしまったことなんか特に気にも留めていないような感じで、なんともなしに金額が表示されるモニターなんかを見ていた。私はホッとしたような、ホッとしていないようななんとも言えない気持ちで、買い物カゴの中の商品を、もうそれ以上の醜態を晒さないようにと、ひとつひとつ丁寧にレジに通していった。レジをする手が震える。そんな震える手を悟られないように、私は両方の手にグッと力を込めた。


 「あっ、袋もお願いします」とあの人は言った。初めて聞くあの人の声は、低くて優しい声をしていた。


 「かしこまりました。袋は1枚10円になります」


 「はい」


 「お会計は、2021円でございます」と私は言った。今度はなんとか普通にちゃんと言えた。

 

 私はそう言うと、お腹の前で軽く両手を組んであの人の会計を待った。私はその時になってようやく顔を上げ、あの人の顔をちゃんと見ることができた。あの人が少し俯き、財布からお金を出そうとしていたからだ。近くで見るあの人は、やっばりいつものあの人で、キリッとした二重瞼が落ちる前髪の間からチラッと覗いていた。マスクの中に伸びる鼻筋も、くっきりと細く綺麗な直線をしていた。近くで見て初めてわかったのだけれど、両方の目尻の所に小さな皺が1、2本できていて、その皺が私にはなんだかとてもチャーミングに感じられた。そしてもう1つわかったことは、あの人は決して無愛想な人ではないということ。あの人が少しだけ発した言葉には、愛想が良くて優しい人特有の、優しい声の響きがあった。


 「じゃあ、2021円ちょうどで」


 あの人はそう言って、青いトレイの上にお金をのせた。そして顔をスッと上に上げた。私のこの日最後の醜態は、まさにそれからだった。


 あの人は小銭を取り出すのに少し時間が掛かった。あの人の財布は小銭の間口の部分が結構狭い造りになっており、おまけに小銭も結構あったらしく、そのせいでその中から21円を取り出すのに少し苦労していたのだ。私はそんなあの人の姿を、まるで磁石に吸い寄せられるみたいに、ついつい見惚れてしまっていて、あの人が顔を上げるタイミングをうっかり見誤ってしまったのだ。それでまた変な風に目と目が合ってしまって、それがまた不自然な感じだったのだから私は堪らない。それで私はまたグワっと一気に緊張してしまって、酷くドギマギしてしまったのだ。


 私は何事もなかったかのようにお金のトレイを急いで持ち上げ、お金を確認し、それを急いでレジへと流した。


 ウチのお店のレジは、きっと今ならどこもみんなそうだと思うけれど、お金の計算一切は全部レジの機械がやってくれるタイプのやつなのだ。その機械にお金を流すと、後は勝手に機械がお金の計算をしてくれて、お釣りがある時はお釣りを出し、お釣りがない時はレシートのみを出してくれる。つまり商品をピッピッと読み取りさえすれば、後はお金を流すだけでいいというわけなのである。


 しかしそんな簡単な作業を、私はやらかした。


 私は、ドギマギして焦った上に、急いでその場を済ませようとしたせいで失敗した。私がトレイのお金を、トレイから直接勢いよくレジに流したせいで、1円玉だけが上手く機械に入らず、こともあろうがそれが機械の縁の部分にぶつかり、そのままピューンとどこかへ飛んで行ってしまったのだ。私とあの人は、ほとんど同時に「あっ」という声を上げていた。


 私は1円玉の軌道をしっかりと目で追うことができなかった。でもたしかに1円玉が床に落ちた、チャンという軽い渇いた音は聞こえたのだ。しかしレジは狭く、色々な物が雑然と置いてあるし、それでもレジ周りの床をひと通り探してはみたけれど、1円玉は全く見つからない。もしかするとそのままコロコロと転がって、レジの下にでも入ってしまったのかもしれない。


 私は、なんてことをしてしまったんだ!、とすぐにあの人に「すいません」とまず頭を下げて謝った。それからその混乱した頭でもってどうすればいいのかをすぐ考えた。意外にも頭は冷静に働いた。こんな時のためにお店には緊急用のお金があるのだ。こちら側のミスでお金が紛失した場合には、その緊急用のお金でその場を補うことになっていた。しかしそのお金はバックヤードの金庫の中にあって、わざわざそれをバックヤードまで取りに行かないとならない。このレジはものすごく便利な反面、決まった額のお金をしっかりと流さないと開けることもできないのだ。レジの中にあるお金で今はとりあえず対処して、あとで…という融通は効かない。


 「すいません、今バックヤードにお金を取りに行って来るので、お手数ですが、少々お待ち下さい。こういう時の場合に備えて、緊急用のお金がバックヤードにあるんです」


 私はあの人に口早にそう説明して、深々と頭を下げた。


 「わざわざ取りに行かなくても大丈夫ですよ」と、あの人は間髪入れず言った。どことなく笑みが含まれている語調だった。


 「たかだか1円なんで。はい、もう1円」


 あの人はそう言って、新たな1円玉を私の手に直接渡してくれた。


 「いや、でも…」と私はその1円玉を両手で握りしめながら言った。本当に申し訳ないと思った。


 「大丈夫大丈夫。もし見つかったらアレに募金でもしといて下さい。レシートは大丈夫です」


 あの人はそう言うと、レジの横にある、商品を袋に詰めるためのテーブルの上の募金箱を指差した。そして私が何も答える間もなく、そそくさと行ってしまった。私はまだ戸惑ったままだったけれど、あの人が自動ドアを出て行く直前に、それでも「ありがとうございました」となんとか言った。


 あの人は、歩きながらもう1度私の方に振り返り、微笑みながら会釈をしてくれた。とんでもない、というように。そして完全に行ってしまった。


 しばらくすると芝川さんが戻って来て、放心状態な私のその姿を見て、


 「どうしたの、依田ちゃん。なんだか魂が抜けたような顔して。まさかこの短時間のうちに、そんなにレジ混んじゃった? 」と言った。


 私はどうにも答えるのが億劫で、「まあ」と曖昧に笑いながら答えておいた。


 あの人の左手の薬指の指輪を、また確認するのを忘れていたということに私が気が付いたのは、それからずっと後のことだった。バイトが終わり、家に帰って夕飯を食べ、それからお風呂に浸かっている時にそのことに私は気付いたのだ。私は「あっ」と思わず1人で言っていた。


 そしてまた、それがごく自然の当たり前のことみたいに、今日1日の私の醜態のことが頭の中にありありと思い出された。今思い出しても顔が真っ赤になる。私はその記憶を打ち消すみたいに、湯船のお湯でバシャバシャと何度か顔を洗った。それから私はあの人のことを考えた。あの人のこと()()を考えた。


 あの人の声。あの人の手。あの人の仕草。あの人の笑顔…。それらも頭の中にありありと浮かぶ。


 あの人にまた会いたいな、と私は思った。今度はちゃんとレジができるように。それから、今度はちゃんと指輪を確認することを忘れないように。私はそれを強く胸に思った。


 今度はいつお店に来てくれるかな?

 

 

 


 


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