(9)昼食会はほろ苦い味
「きゃ」
扉が閉まると黒いかごが動き出して、薄黄色の真新しいワンピースを着たアネットは小さく悲鳴を上げた。
「エレベーターは初めてだったか。慣れると大丈夫だから」
「そうなの、ね?びっくりした」
エレベーターはあっという間に五階に着き、スコットはアネットの手を取って歩き出すと、慣れた様子で五〇二号室のドアをノックした。
ドアが開いて、執事が出迎える。やがてアッカーマンとふっくらしたお腹の小柄な女性が現れた。まるでリスのようにくるりと大きい目が愛らしい女性だ。
「ああ、スコットにオルランドさん、よく来たね」
「ヘンリー、今日はありがとうございます。アイリスも聖母のようにますます光り輝く美しさですね」
とスコットが女性に花束を渡す。青と白を基調にした爽やかな色合いの花々だ。
「大事な話だからな。それにアイリスが美しいのは俺の妻だから当たり前だ」
スコットの通常運転に慣れているアッカーマンは妻に返答させる隙も与えず、アネットに女性を紹介した。
「オルランドさん、妻のアイリスです。アイリス、こちらがスコットの従妹のアネット・オルランドさんだ」
「アイリスです。とても可愛らしい方ね」
「はじめまして。お招きありがとうございます」
アッカーマンが真面目な顔でアネットを紹介するのがおかしかったが、アネットは何とかこらえて挨拶をした。
令嬢の噂を知った翌日の日曜日、スコットとアネットはヘンリー・アッカーマン夫妻の住む高級アパートメントでの昼食に招かれていた。
侯爵家に連なる一族ともなると、ごく内輪の客との昼食でもこんなに立派なグラスやカトラリーが並ぶものらしい、とアネットはテーブルをちらりと見てくらくらとした。テーブルに飾られた夏の花々とシックなテーブルセッティングのバランスも見事だ。
「素敵ですね」
それ以外に言葉が出ない。執事がワインを注ぎ、目にも鮮やかな夏野菜のテリーヌの前菜が運ばれて食事が始まった。このアパートメントには専属のコックがついていて、あらかじめ食事の注文をしておくと、階下のキッチンから専用のリフトで運ばれてくるのだそうだ。
アッカーマンの妻のアイリスは、アネットがジョー・サンドであることを知らない。内容には気をつけながら話さなくては、とアネットは素敵な料理にわくわくしながらも内心気を引き締めた。
会食が始まってみると、今日の天気から今日の料理の見事さなど、当たり障りのない話題から始まり、アッカーマンと妻の結婚のいきさつなど、聞いたことがない話もあり、アネットは料理に舌鼓を打ちながら、興味深く聞いた。
アッカーマン侯爵家の三男であるヘンリー・アッカーマンは、大学を卒業してしばらくは生家の製紙会社の経営を手伝っていたが、文学好きが高じて、小さな出版社グリーンハウスの設立に踏み切った。初めは大人向けの風刺ものなどを扱っていたが、経営は綱渡りだった。スコットがアネットの作品を持ち込み、作家ジョー・サンドが生まれてようやく経営が軌道に乗り、二年前に幼馴染のアイリスとようやく結婚できたのだった。今はアイリスも身重となり、幸せそうな二人である。
「じゃあ、ジョー・サンド先生様様なんじゃないですか」
「ほんとうにその通りね。お会いしたことがないのが残念だけど」
アイリスは残念そうに言う。アネットは少し申し訳ない気分になった。
「そういえば今度のパーティーにジョー・サンド先生をお呼びするわけにはいかないの? ヘンリー」
アイリスが思い出したように言う。
「何かパーティーがあるんですか?」
アネットは何気なく尋ねた。
「今度出版社の設立五周年を祝うパーティーをやるんだ。ジョー・サンド先生のおかげでうちも安定してきたし、本の著者や印刷会社や書店協会とかまあその辺りの取引先への日頃のお礼だな」
スコットとアネットにも招待状を送る、とアッカーマンは何気なく言った。
「まあジョー・サンド先生は出ないだろうが、何かコメントをもらえると盛り上がるかもしれないな」
「そうね。私も聞きたいわ」
アイリスは無邪気に言い、アネットはそんなパーティーへのコメントなど何を書けばいいのか、と頭を悩ませた。後で相談しよう、と決める。
やがて話題はアネットの仕事の話になり、この前学校の校長との面談で「古典について面白おかしく話しすぎる」と注意された話を披露したが、アイリスに学生時代にそんな授業を受けてみたかったと言われてアネットは安心した。
デザートのアイスクリームとコーヒーに移る頃に話題は本題に入った。
「ジョー・サンドの新作をドーバー夫人のサロンで披露するらしいですね。何でもジョー・サンドはどこかのご令嬢だとか」
とスコットがさりげなく切り出した。
「ジョー・サンドってあなたが代理人をしてる作家なんでしょう。その方がジョー・サンドなの?」
アイリスは怪訝な顔で夫に尋ねたが、
「いや、素性は明かさないと聞いている。そんな話はあるはずがない。」
とアッカーマンはコーヒーを一口飲むと、そう断言した。
「うちの母がウィンター子爵夫人から聞いたって言うんですが、怪しいので、ヘンリーに報告した方がいいと思ったんですよ」
スコットもいつになく真面目な顔だ。
「ウィンター子爵夫人、ねえ」
「アイリスが知ってるご婦人か?」
アイリスが言葉を濁し、アッカーマンは優しく尋ねた。
「私もそんなにお話したことはないけど、とてもお話しやすくて親しみやすい方よ。でも、何ていうか、少々思い込みが激しいところがおありになるかしら」
アイリスが困ったように答える。
「じゃあ、あまりあてにならない情報の可能性もあるな」
「でも、きっとウィンター子爵夫人ならあちこちでその話をなさってるんじゃないかしら。そのご令嬢の名前も出ているんでしょう。それはその方にご迷惑になってないといいけれど」
「もし事実でないのに巻き込まれたなら可哀そうですよね」
アネットは香りのいいバニラのアイスクリームを堪能しながらそう相槌を打った。今までジョー・サンドの側でしか考えていなかったが、そのご令嬢も被害者もしれない、という思いがちらりと湧く。
「そのお嬢さんは何て言う方なの?」
アイリスも心配そうだ。
「母は名前を覚えていなくて。でもウィンター子爵夫人は知っているようでしたよ」
サロンには出入りしているんですが、文学の方はよくわからなくて、とスコットは付け加えた。
「スコットは今もドーバー公爵夫人のサロンに出入りしているんだな。俺は昔あそこで詩人のやつと論争になって、こっぴどく喧嘩して行かなくなったから」
アッカーマンは過去の過ちを暴露した。アイリスも思い出したのか微笑んでいる。
「今のアッカーマンさんなら、むしろ後援者として大歓迎されそうですけどね」
とコーヒーが苦くて進まないアネットはつい口を挟んでしまう。
「僕はウィンター子爵夫人には面識がないし、母上に令嬢の名前をわざわざ聞いてもらうのも怪しまれるでしょうかね。サロンは今度の木曜日だから、あまり時間もありませんしね」
スコットも考えがまとまらないようだ。
「もう噂がある程度広まっている可能性が高いと考えた方がいいだろう。事前にできることもないし、スコットがサロンに参加して確認してくるのがいいんじゃないか」
アッカーマンの提案にアネットがうなずくと、思いがけない話が出た。
「オルランドさんも連れていくといい。オルランドさんもせっかく王都へ遊びに来ているのだし」
「それはいいですね」
アッカーマンの提案に、スコットも乗り気だ。
「私なんかが行ってもいいんですか?」
アネットは怖気づいた。
大学生の頃のアネットは、学生や教授とのサークルでの刺激的な議論に満足して、王都の文学サロンには参加したことがなかった。大学生活の後半は、授業の傍ら、ジョー・サンドとして原稿を書くのに忙しかったせいもある。同級生でもかなり積極的な学生は、時折学外の文学サロンに参加していたようだが。
貴族でないアネットには、ましてや公爵夫人が後援するサロンなど、敷居が高いにもほどがある。
「サロンは貴族限定じゃない。ガーデン女子大の文学専攻の卒業生だろう、立派に参加資格があるさ。それに、スコットもいる」
アッカーマンの中では決定事項のようだ。
アネットはコーヒーカップに隠れてため息をついた。やっぱりコーヒーは苦い。