(7)貴公子との遭遇
「とはいってもこの前来たし、ジェイミーが毎日通勤してる距離なのよね」
アネットがカラーディアから汽車に乗って一時間。いつもながらあっという間の汽車の旅だった。アネットはジークスピアの戯曲を読みながら、ちらちらと車窓を見た。緑の小麦畑が広がる景色が、徐々に家が増え、大きな工場が立ち並び、都会の景色へと変わるのは何度見ても胸が高鳴る。
夕方なので人が多いが、ジェームズはこの人ごみの中からちゃんと自分を発見してくれるだろうか、とアネットは若干心細さを覚えて二つのトランクと共にホームに立っていた。
母と祖母と姉とで選んで整えた衣装は綺麗だったが、自分はどうも化粧も髪型も洗練されていない、おのぼりさん丸出しの田舎者らしい、と行きかう人たちを観察しながらアネットは考える。学生の時はそれでもよかったし、田舎の女子中等学校の新米古典教師としても隙なくひっつめた髪に、落ち着いた服装で過ごすのがアネットの気分に合っていたが、一年の時の流れは大きいようだ。
自分が着飾るのは苦手だが、いつか作品の舞台を古代や中世ではなく現代にするなら、化粧や髪型の整え方は知っておいて損はないし、と考えたところに、見慣れた栗色の頭が見えた。
「ジェイミー!」
アネットは大きく手を振る。兄のジェームズが近づいてきた。王都で見るスーツ姿の兄は、家で見る時よりぱりっとして見える。
「アニーを送ったら、そのままカラーディアに帰るよ。叔父さんも留守らしいし」
「きっと夕食に引き留められるわよ。ジェイミー兄さんはスコットに会いたくないだけでしょ」
兄は肯定も否定もせず、アネットのトランクを持って歩き始めた。とその時、兄が誰かに呼び止められた。
「オルランドさんじゃないか」
「エドワードさん」
兄の目の前には、輝くような金髪碧眼で仕立てのいいスーツを着こなした麗しい男性が立っていた。そう、まるでアネットが「腕輪をめぐる物語」で書いたロニー・オイゲンのような。アネットが目をぱちくりさせていると、その麗しい人と自分の兄が話し始めた。
「アニー、こちら同僚のエドワード・モーガンさん」
と兄に紹介されたが、アネットの耳にはよく入らなかった。
「こちらは妹のアネットです。王都の叔母の家に招待されて今から送るところです」
「はじめまして、アネットさん。お兄さんにはいろいろとお世話になっています」
「はじめまして。こちらこそ兄がいつもお世話になっております」
王都にはこんな麗しい人が兄の同僚として存在しているのか。挨拶しながらだんだん正気に戻ったアネットは、じっくり観察を始めた。このチャンスを逃してはいけない。
まるで古代グリーシアの彫刻のようだ。長いまつ毛に縁どられ、湖水のように青い瞳。高いがすっと通った鼻筋。薄く引き結ばれた唇。眉はさりげなく意思の強さを主張する。夕暮れ時にもきらきらと目立つ金髪は綺麗にセットされている。それから、それから―。
「僕の顔に何かついてる?」
「いえ、ロニー・オイゲンのようだと思ってつい見てしまいました。申し訳ありません」
「ジョー・サンドの『腕輪をめぐる物語』の?それは光栄だな」
エドワードは朗らかに笑った。麗しい人が笑うと男性でもぱっと大輪の花が咲くようだ、覚えておこう、とアネットは頭の中にメモをする。
「アニー!…いや」
「有名ですものね。エドワードさんも読まれたんですか?」
焦る兄を尻目に、アネットはすまして言う。覆面人気作家たるもの、これくらいの腹芸はできなくてはいけない。
「家族に薦められて読んだけど面白かったよ。じゃ、僕は北部の親戚の家に行くところなので。王都を楽しんで」
とエドワードは颯爽と去っていった。
「友達なの?名前で呼んだりして」
立ち去る姿まで絵になるエドワードの背中を遠くに見ながら、アネットは兄に尋ねた。
「いや、モーガン一族の息子なんだ。銀行の上の人間はモーガンばかりだから、みんな名前で呼ぶことになっている」
なるほど。あれがエドワード・モーガンか。アネットは女子大の同級生の噂話に時々上がっていた名前を思い出した。まさに貴公子、チャーミング・プリンスな侯爵家の令息。ゴシップに興味がないアネットは、「腕輪をめぐる物語」が出版され主人公のモデルはエドワード・モーガンではという噂を聞いて初めて、彼の存在を知ったほどで、実際に顔を見るのもこれが初めてだった。
「貴公子じゃない。さぞかし人気なんでしょうね」
「ロニー・オイゲンほどじゃないな」
「当たり前でしょ」
夕方の喧騒の中、兄と乗り合い馬車に乗り込むと、アネットは王都でやりたいことの計画を立て始めて、それきり、きらきらしい貴公子のことを頭から追いやった。
「なんだあの目は。俺は珍獣なのか」
一人になったエドワードは汽車を待つホームでくすりと笑う。
オルランドの妹。これまで、エドワードの美貌と家柄に憧れる女性たちの熱っぽいまなざしは腐るほど受けてきたが、そのどれとも違う。オルランドの妹は、最初こそ驚きの視線だったが、次第に落ち着いて、まるで珍獣でも観察しているような興味津々、かつ冷静な視線へと変化していた。絵描きもああいう目をする。絵でも描くのだろうか。オルランドにはなかなか面白い妹がいるらしい。
親戚の面倒な用事をしばし忘れて楽しい気分で汽車に乗り、誰もいないコンパートメントに座ったところでエドワードは我に返った。
いや、オルランドの近くにはジョー・サンドがいる可能性があるのだった。十日前のカフェでの出来事を思い出す。カラーディアから王都へ通うオルランドが原稿らしきものを預かる相手……。詮索するのもどうかと思い、あれから特にオルランドにそのことを聞いたわけでもないし、オルランドも自分がいることに気づかなかったようだが。
中性的なジョー・サンドのイメージとさっきの愛らしくておかしな田舎娘の姿が結びつかないが、それにしてもあのオルランドの妹の視線は、よけいな感情を交えない冷徹な観察者のものだった。
「別に素性を暴き立てたいわけではないんだが」
エドワードは言い訳めいた独り言を口にすると、目的地に到着するまで、またもやぶり返した疑惑について考え続けていた。