(6)王都への誘い
「テッド!キャシー!」
アネットが駆け寄ると、チェックのシャツの小さな男の子もぱたぱたとこちらに走ってきた。その後ろから、バスケットを抱えた女性がゆっくり丘を登ってくる。
「テッド!また大きくなったんじゃない?」
アネットが甥のテッドを抱き上げるとずっしり重い。
「ぼく、おおきくなった?かいぞくくらいおおきくなる?」
「私より海賊よりずーっと大きくなるわよ。でも一週間でこんなに重くなるはずないわね。やっぱり疲れてるのかしら」
アネットはテッドを下ろし、姉キャサリンを待った。
「アニー、あんたまた徹夜したの?大丈夫なの?」
「三時間寝たわ」
「それは寝た内に入りません。若いうちはいいけど年取ってからきついのよ」
母と祖母の元に向かって一緒に歩き始めると、キャサリンは挨拶もそこそこに眉をひそめる。五歳上の姉、キャサリンは結婚して隣町に住んでいるが、週に一回は息子のテッドを連れて実家に遊びに来るのだ。初めての連載を持ったこの三か月間、姉と甥っ子が遊びに来てくれるのが、アネットの何よりの癒やしだった。
「またかいぞくおうのおはなししてね」
「おやつを食べたらお話ししましょうね」
アネットは、今日はテッドの大好きな海賊王にどんな冒険をしてもらおうか、頭の中でアイデアを練り始めた。
「今日はルバーブのケーキよ」
と、キャサリンはバスケットを持ち上げて見せる。
「わあ、ありがとう。もうすぐルバーブも終わりね」
ルバーブは夏の味覚。ルバーブと聞くだけで、口の中が酸っぱくなってくるようだ。
「そうそう。さっき丘の下でレティ叔母様からアニー宛の手紙も受け取ったのよ」
姉は郵便配達員から受け取った封筒をひらひらさせる。白い地に品がいい花模様の型押しが入った封筒には、確かに母の妹、レティシア叔母の字でアネットの名前が書かれている。
流石に封筒を手で破るわけにもいかず、アネットは一旦家に入ってペーパーナイフで丁寧に封を切り、中身を読んだ。
「お母さん、大変!」
「何ですか、アネット。はしたない」
大声を上げて家から出てきたアネットに、母は刺繍の手を止めて眉をひそめた。
「レティ叔母様からよ。一年仕事を頑張った骨休めに王都に遊びにいらっしゃいって。マクファーソン邸に一か月くらい滞在したらどうかって」
郵便配達夫が先ほど持ってきた手紙の中身をアネットは母親に押し付けた。
「あらいいじゃない。夫が仕事じゃなかったら私も行きたいところだわ」
と姉はあちこち触って汚れたテッドの手を拭きながら賛成する。
「お父様とお祖父様に聞いてからになるけれど、レティから誘いがあったなら、こちらに断る理由はないでしょう」
「いい夏休みになるわねえ」
母も祖母も賛成のようだ。アネットは心から喜んだ。
カラーディアの自然を愛するアネットだが、都会の刺激的な良さも知っていた。クイーン学院は寄宿舎で寮生活を送り、女子大学でも学生寮に入り、平日は王都で過ごし週末はカラーディアに帰るという生活を十年間送っていたが、王都を嫌いなわけではない。大きな図書館や博物館、植物園や動物園、音楽会や朗読会に講演会、お芝居、ティーサロン。カラーディアでも催しはあるが、ごく小規模なものだ。
それにカラーディアの小さな頃からの友人はみな結婚と出産をしてカラーディアを離れたり、子育てで忙しくしておりなかなか会えない。クイーン学院と女子大学時代の友人たちはほとんど独身だが、みな王都にいる。それらがこの一年でちょっぴり恋しくなっていたのだった。
ついでにディックとシャーロットのこともちらりと思い出したが、人の多い王都でそうそう会うこともないだろうとアネットは楽観的に考えた。
「やっぱりこのワンピースは少し古びてきたわね。新しいのを作らないと」
午後の柔らかい光が差し込むアネットの部屋で、母マリアが薄緑色の柔らかな生地のワンピースを広げてアネットのほっそりした体に当てる。
「そんなに服が必要? 私は社交をしたいわけじゃないの。息抜きしたいの」
アネットは口をとがらせたが、王都の伯爵家に滞在するならそうはいかないだろうこともわかる。叔母には作家ジョー・サンドであることは隠しており、ただの親戚の田舎娘が社交の場に出る機会はあまりないだろうが、王都であちこち出かけるならそれなりに昼間の衣装はあった方がいい。
「ワンピースを一着と、ブラウスとスカートも二枚ずつ準備しておきましょう。イブニングドレスは大学に入学する時に作ったきりだけれど、きっと間に合わないわね。私も最近の流行りがわからないし、あの手紙の書き方だとレティが作るのを楽しみにしているでしょうから任せましょう」
アネットのクローゼットをざっと確認した母は、あれこれ迷わず結論を出した。いつも決断が速い母である。
「夜会に出ることはないと思うけど、レティ叔母様はセンスがいいから楽しみよ」
自分が着飾るのは得意でないが、綺麗なものは好きなアネットは、夢見心地にシルクやシフォンの鮮やかで美しい生地を思い浮かべた。あのウエストをぎゅうぎゅう締め上げるコルセットとやらは遠慮したいけど。
小説にはしょっちゅう書いているが、母が年に数度、領地のお祭りやお祝いの時にドレスを着る時や、叔母が嫁いだ伯爵家に滞在する時ぐらいしかシルクやシフォンに触れることはない。そういえば姉キャサリンの純白のウェディングドレスは見事だった。娘が生まれたら娘に受け継ぐのが姉の夢だが、その前にアネットの結婚式で着たらいいと薦められている。今のところ、そのあてはないけれど。久しぶりに胸がちくりとしたが、そうひどい痛みではなかった。
「あんたは細いからいいわね。アネット。私は出産してから太ることはあっても痩せることはないわ」
姉がため息をつく。テッドは今のところ階下の居間で祖母と積み木でおとなしく遊んでいるはずだ。
「原稿を書いてると食べるのを忘れそうになるせいかしら。ここにいればちゃんとみんなで食事を取るし、原稿が終わると食べるけど」
アネットは、大学生時代のひどい食生活のことはここでは言えないな、と思う。筆が進むと、昨日パンをかじって以来、今日はまだ食事をしていない、ということもざらだった。
「太っていても痩せていても、健やかであればそれで充分です」
「はーい」
「だらしない返事をしない」
「はい」
母と娘たちのお決まりのやり取りが繰り広げられ、服の次は、新しい服を作るなら、靴も帽子も日傘もバッグも、と母と姉が張り切って準備を整えた十日後、アネットはあの日以来に汽車に乗って王都に旅立った。