(5)人気小説家にも歴史あり
金曜日、アネットは解放された気分で庭のテーブルセットに座り、母と祖母と庭で朝のお茶を楽しんでいた。手にはもちろん本を持っている。今読んでいるのは、南洋の国の神話集だった。その国の神話では、大変嫉妬深い火の女神が強い力を持っており、その国のあちこちで様々なエピソードがあって面白い。南洋の国は一体どんな国なのだろうか、とアネットは思いを馳せた。
空は青く澄み渡り、緑色の小麦畑が広がり、遥か彼方には山がうっすらと見える。どこからともなく小鳥のさえずりが聞こえる。
今朝、出勤する兄に「暁の巫女アイシャ」最終回の原稿を預け、初めての連載執筆を終えたのだ。掲載されるのは大衆紙「グレートリバー」の今度の日曜版だから、掲載されるまではそわそわと落ち着かない気分だが。
これまでは書き下ろしの本ばかりだったので、毎週毎週家族や読者の感想が聞ける、新聞連載は新鮮な体験だった。しかし、プロットを前もって考えていても、毎週毎週必ず書くというのはなかなかに大変で、アネットは、いやジョー・サンドは、誰に頼まれてもしばらく連載はやりたくない、と心の中でぼやいた。
「やっと夏休みが来てよかったわねえ」
と祖母がアネットをいたわるように言う。
「しばらく落ち着いて本も論文も読めてなかったから、この夏は思う存分読むつもりよ。授業の準備もしたいし、次回作も下調べしないといけないし。テッドを海辺にピクニックに連れて行ってあげたいし、王都の友達にも会いたいわ」
アネットは盛りだくさんの夏休みの計画を宣言した。
「『ひよことこむぎ』を一生懸命お話してたのが、昨日のことのようなのにねえ」
「そうですねえ」
祖母のお得意の昔語りに、母が刺繍をしながら相槌を打つ。
アネットの創作の歴史は長い。初めてお話を作ったのは四歳の時。「ひよことこむぎ」と題した、親とはぐれてお腹をすかせたひよこと、たわわに実った小麦の物語である。祖母がそれをいまだに語り草にするのはさすがにもうこそばゆいのでやめてほしいのだが、とアネットは思う。
「アニーは小さな頃から文字が書いてあれば何でも読んでいましたからね。キャシーやジェイミーの本まで読んで」
と母。
「それが当たり前だと思ってたけど、学校で生徒を教えてると、そうじゃないんだと知ったわね。私も数学が苦手だし、人それぞれね」
とアネットは授業を受け持った生徒たちの顔を思い浮かべた。
お話を作るだけではなく、アネット自身が本を読むのも大好きな子どもだった。絵本に始まって、物語、図鑑、歴史書、詩集、法律書、料理のレシピ、雑誌、新聞、広告、家にあるもので字が書いてあれば何でも読んだ。祖母や母、嫁いだ姉や兄も本好きで家にいろいろな本があったことも幸いした。
「でも勉強できるのは幸せなことよ。私の娘時代には、いくら勉強が好きでも学校に通うことや許されなくて、家で家庭教師から詩や植物の名前やマナーを教わっただけなんですからね」
祖母はもう何度聞かされたかわからない話を始めた。
アルタイル王国でも女子の高等教育が始まり、こぞって女子大学が設立されたのが、アネットが生まれる数年前だった。学べる機会があるなら学びなさいという祖母と母に薦められ、アネットは女子の中等教育機関であるクイーン学院から国有数の女子大学、ガーデン女子大学へと進んだ。文学を専攻するかたわら、短編小説や軽い随筆を書いて学内の文芸誌に投稿していた。
その前にクイーン学院の寄宿舎に入った十三歳の頃から、アネットは物語を書いていた。処女作「妖精の冒険」を寮で友人たちに読んでもらい、みんなが自分の頭の中にあった物語を楽しんでくれることに感動で打ち震えたのを今でも覚えている。
「大学に行けて本当によかったと思うわ。いろんな出会いがあったし、書いてるのをスコットに見つかってなかったら、出版されることになんてなってなかったもの」
アネットに転機が訪れたのが十九歳の夏休み。母の妹の嫁ぎ先、マクファーソン伯爵家に数日滞在した時にも原稿を持参して小説を書いていたところ、年上の従兄スコットに見つかったのだった。読んだスコットは「小説のことはよくわからないけれど」と言いながらも絶賛し、アネットをスコットの大学時代の先輩の出版社に紹介したいと言い出した。
半信半疑でスコットに清書した作品を託したアネットだったが、ちょうど出版社も新人作家を求めていたところだったのが幸いした。「腕輪をめぐる物語」は出版社の若き社長アッカーマンのお眼鏡にかない、若干の修正は入ったものの半年後に出版された。
「大学に入ってから、ずいぶん難しいことも書くようになりましたからね。アニーも大人になったと思いましたよ。今は、口の端にジャムをつけていますけれどね」
「あらごめんなさい」
アネットは口をナプキンでぬぐった。祖母と同じく長年のアネットの読者である母は、簡単には誉めてくれないがそこが励みになる。
「子どもの頃はお話を思いついたらすぐ誰かに聞いてほしかったし、読んでほしかったのよ。でも大学で教授の話を聞いてたら、面白さだけじゃなくて表現することの責任も考えるようになっちゃって。書いたけど人に見せられない原稿もいっぱいあるわね」
「もったいないわねえ」
「いつか日の目を見る時が来るかもよ」
とアネットは祖母に向かって微笑んだ。
「腕輪をめぐる物語」もそのようにして何度も何度も書き直してようやく日の目を見た物語だった。一見神話や伝説をモチーフにした子どもや女性向けのストーリーのようで、確かな古典の教養に裏打ちされ、人間の生き方など骨太のテーマにも切り込んだ、大学生となったアネットの野心作だった。
「教えてる生徒たちが社会に巣立つ頃には、もっと女性が自由になっていたらいいと思うのよ。もっと女性作家が増えたり」
「それと口にジャムをつけるのとは別の問題だわねえ」
「おばあちゃん!」
アネットに甘いがマナーには厳しい祖母も見逃しはしなかった。
アルタイル王国でも女性の社会進出が進んではいるが、まだ女性の選挙権は認められず、女性を受け入れる高等教育機関は少ない。女性が文章を書くことへの偏見も多い。アネットが保守的な住人が多い郊外に住んでいることもあって、祖父母はアネットの独身の娘としての評判を懸念した。そこで、「ジョー・サンド」という男性とも女性とも判別しがたいペンネームで、素性を伏せて「腕輪をめぐる物語」を出版することになったのだった。もちろん名付け親はアネットの大ファンの祖母である。
出版された当初は無名作家のデビュー作として平凡な売れ行きだったが、次第に女性だけではなく妻や恋人から薦められて読んだ男性からも好感を得て、ついにはその年のベストセラーとなった。二十歳の人気作家の誕生である。と言っても、年齢、性別を含めて作家の素性は隠され、謎のままである。
彗星のように現れた人気小説家ジョー・サンドの正体を探る人間は大勢いるが、今のところは公式代理人のアッカーマンが完璧に対応してくれて、情報が漏れる気配はない。
しかし、人間の思い込みとは面白いもので、文章から窺われる作者の教育レベルや小説に描かれる貴族のリアルな様子などから、実は名前を明かせない王族や貴族などのやんごとなき方なのではないかという噂まで立っているらしい。
「まさかジョー・サンドが口にジャムをつけてるこんな田舎娘だとは誰も思わないでしょうよ」
とアネットが内心つぶやくと、丘の向こうから二つの人影が見えた。