(4)三人の男
エドワード・モーガンは一昨年大学を卒業して、一族が経営するモーガン銀行の頭取の補佐として働いている。今日も昼休みは近くのお気に入りのカフェで取るために出ようとすると、見事に化粧を整えた女性事務員たちに声をかけられた。まただ。毎回断っているのに、飽きないものだろうか。
「エドワードさんも今からランチですか。ご一緒にいかがです?」
「いや、人と約束があるから」
それだけを口にすると、また今度と社交辞令を言うこともなく、足早にオフィスを出る。隙を見せてはいけない。本当に約束があるわけではないが、急いでいるふりをして歩く。
やがて、重厚な作りのカフェの入り口が見えてくるとほっとした。
エドワードにとって、そのカフェの何がお気に入りかと言えば、コーヒーの味もさることながら、一番はうっとうしい女がいないことだった。中年の夫婦らしき男女がこじんまりとやっているカフェは、王都の金融街という立地と、その流行遅れの重々しく昼間でも暗い内装もあいまって、若い女性には全く人気がない。客はこの辺りに勤めるビジネスマンばかりだ。銀行の女性事務員やすれ違う女性たちからの熱い視線をほんの束の間避けることができる、エドワードにとってのオアシスだった。
しかし今日ばかりは、エドワードの平穏なオアシスとはならなかった。カフェに入ると、意外な組み合わせの二人の男が談笑する姿が目に入ったのである。
「オルランド、とあれはヘンリー・アッカーマンじゃないか」
エドワードは戸惑った。
ジェームズ・オルランドはエドワードが勤めるモーガン銀行の同僚だ。個人的にそこまで親しいわけではないが、エドワードの一歳上と年が近いので、スタッフの中ではよく話をしている。物静かだが誠実な男だ。
アッカーマンはある出版社の社長である。しかし、モーガン銀行とは取引がないし、そもそもオルランドは外貨担当で融資担当ではない。なぜこの二人が?
にわかに緊張したエドワードは用心しながら、二人から姿が見えない近くの席を何とか確保した。
サンドイッチとコーヒーを待ちながらもエドワードは考える。あの二人に何の関係があるのか。モーガン銀行とアッカーマンの出版社が取引を開始するならそれはそれで喜ばしい。しかし、それならこんな場所で話をしないし、相手はオルランドではないはずだ。運ばれてきたコーヒーの香りを楽しむ余裕もなく、サンドイッチを口に運びながらなおも考えるが、答えは出ない。
エドワードがアッカーマンを気にするのには理由があった。
アッカーマンの経営する出版社で三年前に発表された、新進気鋭の作家ジョー・サンドのベストセラー小説「腕輪をめぐる物語」の主人公、ロニー・オイゲンのモデルがエドワードではないかと一部でしきりに噂されているのだ。輝かんばかりの金髪と碧眼の強く賢い男。その横顔は、まるで古代グリーシアの彫刻のように強くたくましく美しいその姿に、誰もが魅了されると言われている主人公。
それだけの特徴なら、この広い王都を探せば貴族にも舞台俳優にもざらにいるだろう。しかし、モーガン銀行をはじめとする多数の企業を経営する侯爵家の令息であるエドワード・モーガンは、その麗しい経歴と外見で、大学に入学した頃からゴシップ紙のえじきになってきた。家族や友人、教授が守ってはくれたが、それでも年に数回は婦人誌やゴシップ誌の「憧れの貴公子特集」といった記事で取り上げられる。
見てくれだけでモデルにされるなら問題はない。むしろあれだけのベストセラーのモデルとされるのは光栄だ。エドワードも読んでみたが、文章は粗削りな面もあったが、面白くて読みごたえがある小説で、それ以来ジョー・サンドの新刊が出ると読むようになった。今新聞に連載している小説も、日頃読まない新聞だがわざわざ取り寄せて読んでいる。
だが問題なのは、ロニー・オイゲンのモットーである「物事に万全の備えはない」はエドワードの口癖と同じであることだった。容姿と口癖、どちらかだけなら似たような人間はいるだろうが、二つの要素が重なるとなると気になる。
ジョー・サンドはエドワードの知り合いなのだろうか、とエドワードは疑った。しかし、一族にも大学やパブリックスクールの友人にも思い当たる人間はいなかった。親戚に何か書いているらしい少女がいるが、流石に若すぎる。直接の知り合いではないとすると、範囲が広がりすぎてお手上げだった。
ジョー・サンドは、名前からして女性か男性かもわからず、素性を伏せている正体不明の謎の作家だ。自分がプライバシーを邪魔されたくないのと同じように、その作家も邪魔されたくないのかもしれない。
正体を探るのは紳士的ではないと思ったが、エドワードはどうしても気になって、人を使ってジョー・サンドの本を手掛ける出版社に探りを入れた。すると、出版社でジョー・サンドの正体を知るのは社長のアッカーマンのみであることがわかった。正体を探ろうとする有象無象の動きに辟易したのか、最近ではアッカーマンが公式代理人と名乗って、インタビューや新聞連載なども引き受けているらしい。
では、ジョー・サンドはアッカーマン本人なのではないか、という考えも当然浮かんだが、それは本人が経済紙のインタビューで「文学を愛しているが、自分の才能は経営の方にあった」とあっさり否定していた。
それが一年半前の話で、それ以来、エドワードはジョー・サンドの正体について探ることを止めたが、今ここにそのアッカーマンがいる。忘れていた疑念が再び湧いてきた。
昼食のサンドイッチはすっかりエドワードの腹の中に納まったが、よみがえった疑問はとどまるところを知らない。そこへ、カフェの喧騒が途切れて、さっきまで聞こえなかった問題の二人の男の声が耳に飛び込んできた。
「では、確かに預かった。大切な預かりものだからな、寄り道しないで帰らないと」
会計を済ませたアッカーマンが、茶封筒を大事そうに抱えて立ち上がる。大男のアッカーマンが立ち上がるといやでも目立った。
「日曜日が楽しみですよ。読ませてもらえなかったんでね」
オルランドも安心したような声色で答え、席を立った。
預かる?日曜日?読む?
カフェの心地よくざわついた雰囲気に眠くなりかけていたエドワードの頭が、急速に回転を始める。まさかあれは原稿なのか。社長のアッカーマンが直々に受け取りに来る原稿。今ジョー・サンドが大衆紙「グレートリバー」の日曜版に小説「暁の巫女アイシャ」を連載しているが、ひょっとしたらあれが―。
エドワードは、和やかな表情でカフェのドアを開けて出て行く二人の男の姿をじっと目に焼き付けた。