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(3)小説家の舞台裏

ディックのアパートメントを出たアネットは人混みをかきわけながらずんずんと通りを歩いていた。何かが体を突き動かしていて、足を止めようにも止まらなかった。

ふと、一時の鐘が聞こえてきて、アネットは足を止めた。


「あーまいったなあ…」

アネットはぼやいた。気づけば一時間以上は歩き続けていたようだ。冷静だと思っていても、やはり怒りにかられて冷静でなかったらしい。

アネットは近くのマディソン公園に行くことにした。出版社との約束までベンチに座っていよう。胸のあたりが重苦しくて、昼食が食べられる気がしなかった。

アネットはベンチに腰掛けて、親子がおもちゃのヨットで遊んでいる様をぼんやりと眺める。


アパートメントにいた時は困惑と怒りしか湧かなかったが、だんだん悲しくなってきた。学生時代の二年と教員になってからの一年、決して短いつきあいではない。社会に出てからは、王都を中心に国内を飛び回るディックと王都郊外に住むアネットの生活はすれ違っていて、結婚したら自分が王都に行くしかないのだろうと考えていた。三か月の予定だった新聞連載が来週終われば、当分連載は引き受けないつもりだったので、かなり時間のゆとりができるはずだった。ジョー・サンドのことも打ち明けなければと思っていた。

つもりだった、はずだった、ばかりで話し合えていなかったのかもしれない。でも友人と二股をかけられるほど悪いことをしただろうか。いくら考えても答えは出なかった。


「どうしたんだ。ひどい顔をしてるじゃないか」

出版社の社長ヘンリー・アッカーマンは、直々にアネットを出迎えるなり、挨拶もなしに叫んだ。顔色は悪く、風に吹かれたのか、肩より少し長い髪はぼさぼさだ。

「すみません。いろいろありまして」

「悪いものでも食って腹を壊したか?学校の期末試験か?あいつらの試験を採点するのはさぞかし大変だろうな。それとも幽霊でも見たか?」

「お腹も壊してませんし、期末試験は無事終わりましたし、幽霊も見てませんよ」

アネットはふっと微笑んだ。


「今日は全員休みだからな。俺が淹れる紅茶で我慢してくれ。うちの妻のミートパイはうまいぞ。今日は社員はいないと言ってるのに昼飯に大量に持たされた」

アッカーマンは、手際よくダージリンを淹れ、紅茶とミートパイをアネットと自分の前に並べる。大学ではラグビーの代表選手に毎回選ばれていたという大男のアッカーマンが、大きな手でちまちまと作業をする姿は何ともユーモラスだ。手伝わなくていいかしら、と思いながら、動く気にもなれずアネットはその姿を見ていた。

狐色に焼けた美味しそうなミートパイを目の前にして、アネットのお腹がぐうと鳴った。

「いただきます。お昼は食べられなかったので」

アネットは、ヘンリーの妻お手製のミートパイを堪能しながら、午前中に起こった出来事をかいつまんで話した。アッカーマンはさえぎらずに聞きながら、アネットが食べた倍以上の数のミートパイを優雅に平らげた。


「それはまた…情けない男だな。そんな奴はレーヌ河に放り込んでアヒルにでも追いかけ回されていればいいんだ」

話が終わると、愛妻家のアッカーマンはそう切り捨てた。

「レーヌ河にアヒルはいませんよ」

と笑う。お腹もいっぱいになって、アネットは少し元気が出てきた。人間、睡眠不足と空腹が一番精神に良くない。


「さて、ジョー・サンド先生」

アッカーマンが真面目な表情になった。仕事の話をするサインだ。アネットもお皿とカップを脇へやった。

「昨日『暁の巫女アイシャ』の原稿は受け取って、新聞社にも回しておいた。あと二回で完結だな」

「ありがとうございます。結末は前にもお話した通りでいこうかどうするか迷っていて」

「悪くないな。欲を言えばもう一捻りほしいが」

信頼する敏腕社長のアッカーマンにそう言われると、アネットも考えるしかない。

「やはりそう思いますよね」

いくつかアイデアを話し合ったが、結論は出なかった。

「連載は連載で書いておいて、出版する時に修正しても構わない。二つの結末を楽しめるのは読者も喜ぶだろう」

「助かります」

新聞と本の結末が違えば、本の売り上げも伸びるだろうし、とアッカーマンは抜け目がない。アネットも悩んでいた結末について話をして、頭が整理出来て気が楽になった。

初めての新聞連載は今のところなかなか好評だった。アッカーマンはジョー・サンドの公式代理人としての敏腕ぶりを遺憾なく発揮し、新聞連載を本にまとめたものをできるだけ早く出版したいという。


「ジョー・サンド先生に毎回わざわざ来てもらってすまないな」

「早くカラーディアにも電話が引かれるといいんですけどね」

「まだ王都でも一部だからな。居ながらにして遠くの人間と話ができるのは素晴らしい技術だ。頭の固い長老共が棺桶に入るより、電話が世界中に広がる方が先だろう」

侯爵家出身のジェントルマンのはずなのに、アッカーマンはなかなか口が悪い。ごく親しい人にしか見せないらしいが。

次回作のアイデアをとりとめもなく話したり、雑誌のインタビューの申し入れの話を聞いたりしているとあっという間に時間が過ぎた。アネットが雑誌や新聞のインタビューに直接答えることはできないので、質問集に文章で解答し、写真の代わりに主人公の挿絵を載せてもらうようにしている。

充実した打ち合わせを終えて、アネットは夕方出版社を出て、カラーディア行きの汽車に乗った。


アッカーマンと話している時は気を張っていたが、一人になるとやはり糸が切れたように疲れが出る。

とぼとぼと帰宅すると、母にも心配された。アネットがそっと今日の出来事を打ち明けると、母は目を閉じて首を振り、アネットの両肩に手を置いて、

「そのようなジェントルマンの風上にも置けないような男のことは忘れなさい」

と言った。将来良き母、良き妻になるよう口うるさく言っていた母がそんな反応をするとは、アネットには意外だった。


それからの数日、なんとなく元気が出ないまま、アネットは決まったルーティンに従って動き続けた。

昼間は学校で少女たちに古典を教えた。期末試験が終わって、学年が終了し夏休みに入る目前で、クリケットの校内対抗戦やサマーパーティーなど様々な行事があり、少女たちは解放されて浮足立っていた。アネットもいつも通りの授業ではなく、古典の好きな詩や物語の一節をそれぞれが披露する、暗誦大会をクラスで行ったりした。あまりしゃべらなくていいのが救いだった。来年度の契約についての校長との面談も、体調を心配されたが無事に終わった。


夜はランプの灯の下で残り二回の連載の草稿を書き、行き詰まると本を読んだり次回作の下調べをしたりした。毎夜力尽きて死んだように眠ったが、眠れた気はしなかった。この経験もきっと小説に活かせるに違いない、と頭では思うが、何が活きるのかわからなかった。何かをしていれば余計なことを考えなくて済む。登場人物の心情にのめりこんで、アネットは今の心の空虚さを忘れた。

学校が夏休みに入り、アネットの教師生活一年目が終わった。


そして、登場人物に導かれるように結末が降りてきて、「暁の巫女アイシャ」の最終回の原稿が完成した。

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