(2)すれ違いと裏切り
ようやく週末を迎えたアネットは、出版社のアッカーマンとの打ち合わせの前に、王都に住む恋人ディックとランチの約束をしていた。あまりおしゃれが得意ではないアネットだが、いつかディックが可愛いと言ってくれた水色のワンピースを着て、ふんわりと髪をおろすくらいはできる。打ち合わせ用の紙ばさみと執筆ノート、鉛筆も忘れない。
カラーディアから汽車に乗って王都まで一時間。駅からさらに乗合馬車に乗り、ディックのアパートメントに向かう。ディックとは学生時代からのつきあいだが、ディックは製薬会社の営業で王都を起点に出張が多く、アネットは田舎の教師と人気小説家の二束の草鞋にてんてこまいで、すれ違いを重ねた二人は月一回会えればいい方だった。
それでも、大学生の頃、毎日のようにとりとめもない話をしていた絆が二人をつないでいる、とアネットは信じていた。
軽やかに水色のスカートの裾をひるがえして階段を上り、ドアをノックして声をかけると、中から焦ったようなディックの声が聞こえてきた。
「アニー?今日だったっけ?」
「そうよ、ディック。開けるわね」
「いや、…ちょっと開けないで、くれるかな。片づけてないから」
ディックの歯切れがいやに悪い。ドアを開けようとしても、向こうからディックが押さえているのか開かない。
「片付いてないなんて、いつものことじゃない」
「いや、あの、風邪もひいてるからさ。アニーにうつしたらいけないし、悪いけど今日は帰ってくれるかな」
おかしい。今までにない嫌な予感がして、アネットは無理やりドアを開けた。
「ディック、大丈夫なの?」
できるだけ落ち着いた声で聞く。
「アニー、開けるなって言ったじゃないか」
ディックはシャツがはだけさせて憮然とした表情をしている。その唇付近にべったりと赤いものがついているのをアネットは目にした。
「口紅ついてるわよ」
「あっ」
ディックが慌てて唇をぬぐい、シャツの袖に赤い痕跡が残った。
生まれて初めての状況なのに冷静な自分がおかしい。まるで自分が書いた小説の登場人物のアイシャみたいな落ち着き方だ。そんな風に場違いなことを考えながら、アネットは薄く開いたドアの隙間から寝室を見やった。
「寝室にお客様がいるのね。寝室に通すようなお客様って誰かしら」
「じ、実は同僚のやつがうちに泊まって、まだ二日酔いで寝ててっ」
ディックが寝室のドアの前に立ちはだかる。
「お昼前だし、ランチに行く前に起こしたほうがいいんじゃない? 私もご挨拶しないとね」
アネットは譲らない。ディックも動かず、二人は無言で向かい合った。
「…もうやめましょう。ちゃんと話しましょうよ」
中から高く細い声がした。ドアを開けて、薄緑のブラウスに深紅のスカートで金髪のすらりとした女性が出てきた。
「…シャーロット」
アネットの声がかすれた。
出てきたのは、アネットのクイーン学院とガーデン女子大学時代の同級生、シャーロットだった。
おろおろしているディックを尻目に、座って話しましょう、とアネットとシャーロットは二人でソファーに座った。いつも座っていた布張りの緑色のソファーが、まるで石のように固く感じた。ディックは所在なさげに居間の隅に立っていたが、女二人に座るように促されて、観念したようにその向かいに座った。
「久しぶりね、シャーロット。研究順調なの?」
「まあまあよ。アネットは元気?」
「まあ、元気かな。学校ももうすぐ夏休みだし」
二人は硬い表情で、まずは再会を喜ぶ言葉を述べ合った。
「シャーロット、学生時代から私がディックとつきあってるって知ってたわよね。なんでこんなことになってるの」
とアネットが切り出した。
「…ディックは卒業してからアネットと別れたって言ってたのよ」
「そんなことないわ」
アネットが断言すると、シャーロットは茫然とした表情だ。化学専攻のシャーロットはおとなしくてあまり我が強いタイプではない。クイーン学院の時はあまり関わりがなかったが、丁寧に実験を積み重ねて結果を出していくシャーロットの話を、アネットも大学の寮で聞いたことがあった。自分とは全く領域が違うが、誠実なシャーロットの姿勢が好きだった。
話の筋が見えてきた気がして、アネットはだんだん腹が立ってきた。
「ディック、私たち別れてたの?私がお邪魔虫だったの?」
「あ、いや…そんなことは…ない…」
アネットがディックに詰め寄ると、ディックは言葉を濁してうつむく。
「…じゃあ、私を騙したの?」
シャーロットもおずおずと切り出した。
「いや、騙したわけじゃ、ない…」
「二股かけてたってこと?」
アネットが追い打ちをかけるとディックは何も言わなくなってしまった。アネットはため息をついた。今朝のうきうきした気分はどこかへ消え失せて、虚しさが漂っていた。
大きく息を吸って、アネットは切り出した。
「わかった。私は二股かけるような人とはつきあえないから、お別れしましょう。今後一切あなたとは会いません」
「アニー!」
「愛称で呼ぶのはやめてください。クリスフォードさん。気持ち悪いから」
そう言い捨てるとアネットは立ち上がった。ディックはうなだれている。
「…アニーが構ってくれないから」
「え?」
ディックの言葉がよく聞き取れず、アネットは聞き返した。
「アニーが田舎に帰って遠いからなかなか会えないし、長期休みがあっても小説を書くからって閉じこもってるし。売れない小説ばっかり書いててどこが面白いんだよ」
顔を赤くしてディックはまくしたてた。
そうだった。大学三年生の時、まだつきあいはじめたばかりで小説家デビューするとディックに伝えるのが気恥ずかしくて言えず、ジョー・サンドの本が売れてからも、ディックは小説に興味がなくジョー・サンドを知らなかった。アネットは伝えるきっかけを失い、ディックはアネットが売れない小説を趣味で書き続けている愛すべき変わり者と思い込んでいたのだった。今書いている小説が売れるか売れないかは書いている時にはわからないので、アネットは小説に興味がない人の意見として聞き流していたけれど。
「そうね。ディックは恋人といつも会いたい寂しがり屋だし、私は田舎で教員をしたいし、売れない小説でも書き続けたいの。やっぱり私たちは別れたほうがいいのよ」
静かにアネットは告げた。ディックはもう何も言わなかった。
「シャーロットはどうするの?」
最後にシャーロットに尋ねると、シャーロットは顔を青くしたまま唇をかんだ。
「私は…」
そういえば、シャーロットとディックは幼馴染で、シャーロットがきっかけでディックと知り合ったんだった、とアネットの学生時代の記憶がよみがえってきた。ひょっとしたら、自分よりずっと前からシャーロットはディックを好きだったのかもしれない。だとしても、こんな仕打ちをする男をお勧めできないけど。
「私には関係ないから、どちらでもいいわ」
そう言い残して、アネットは振り返らずにアパートメントを出た。