(1)いつもの朝
初連載です。よろしくお願いします。
「アネット様、アネット様」
遠くからアネットを呼ぶ声がする。
「一体何時にお休みになったのですか」
メイドのマーシャが、勢いよくカーテンを開けてため息をついた。うら若い乙女のアネットの部屋の机の上にはタイプライターと散らばった紙と茶封筒が乱雑に乗っている。
「朝4時よ。大丈夫、3時間寝たから」
アネットは、ぼんやりする頭と今にもくっつきそうなまぶたでのろのろとベッドを出た。
タイプライターの周りの書き損じの紙をかき集めて捨てる。茶封筒を開けて内容を確認し、ひそかに自己満足と緊張を覚えながら再び茶封筒に入れて厳重に封をする。
「目の下のクマが酷くなると取るのも大変なんですから、ほどほどにしてくださいね」
「はあい」
と愛想よく答えてはみたが、それが土台無理なことはマーシャもわかっているだろう。
マーシャが持ってきてくれた冷たい水で顔を洗うと、少し頭がすっきりしてきた。鏡に映るはしばみ色の目の下はうっすらと黒ずんでいて、連夜の寝不足を物語っていた。今日は金曜日。今日頑張れば週末だ。
レースの白襟がアクセントの白いブラウスとくるぶしまである紺色のスカートに着替え、栗色の髪を一本の後れ毛もなくきっちり結いあげる。化粧っ気もなく、頭のてっぺんから爪先まで隙のない姿。授業に必要な本さえあれば、田舎の新米古典教師、アネット・オルランドの出来上がりだ。
朝七時を既に過ぎて、外は夏の日差しだ。朝食と夕食は家族で取るのがオルランド家の習慣である。
アネットが茶封筒を手に食堂へ降りていくと、廊下で兄ジェームズとすれ違った。
「ジョー・サンド先生、完成したのか」
「したわよ、たぶん。これよろしくね、ジェイミー」
茶封筒を渡すと、兄は恭しく受け取った。
「確かに預かった。気になるな。あと三回で終わりなんて信じられないな。アイシャとゴートはどうなるんだ」
「それはお楽しみです」
実はラストはまだ迷ってる、とアネットは内心つぶやく。
「じゃ、アッカーマンさんにしっかり渡してくるから、今日は頑張れよ」
「あと、明日の三時に打ち合わせにお伺いしたいってもう一回伝えておいてね」
「わかった」
七時十五分。兄の出勤の時間だ。王都の金融街に勤める兄ジェームズは、いずれ父の後を継いでここカラーディアに住むのにわざわざ引っ越すなんて面倒だ、と毎日汽車で通っている。アネットも王都より田舎暮らしを選んだが、自分たちきょうだいは似ているらしい、とアネットはくすりと笑った。
ジェームズが慌ただしく玄関を出て行くのを見送って、アネットは食堂に入った。
「おはようございます」
声をかけると、四組の目がアネットにやさしく注がれた。
祖父と父は何やら仕事の話し合いをしながら食後のコーヒーを飲んでいて、祖母と母はゆっくりとバターつきトーストとベーコンエッグを食べている。
「おはようアニー、顔色が悪いけど、大丈夫なの」
母が何かを問いただしたい顔でこちらを見ている。祖父と父は話し合いに戻った。
「大丈夫よ。ちゃんと眠れたし」
三時間だけど、と心の中で付け加えて、アネットは苺のジャムをたっぷり乗せたトーストにかじりつきながら考える。ロニーの最後の言葉はあれでよかったんだろうか。いや、きっといいはずだ…。
「アネット、手が止まっていますよ。食べる時は食事に集中しなさい」
「はあい」
「語尾を延ばさない」
「はい」
母の勘は鋭い。アネットが小説について考えていたことくらいお見通しだろう。貴族出身の母は厳しいが筋が通っているので、アネットは何も言えない。
「アネットの書く小説は何でも面白いから、好きなように書けばいいのよ。次回も楽しみだわ」
祖母がもう真っ白になった頭を振りながら、ひそひそ声で言う。
「おばあちゃんがそう言ってくれるから、気が楽になってありがたいの」
あっという間に朝食をおいしく平らげたアネットは、ミルク入りの紅茶をゆっくりと飲む。
「若い頃は、物語と言えば子ども向けのお話か固くてつまらない話ばかりで、あんなに楽しい小説が読めるようになるなんて思ってなかったのよ。ブロント姉妹の「ジーン・エール」「嵐の夜」なんかはよかったけど」
祖母の昔語りは止まらない。
「ジョー・サンドの作品は本当に素晴らしいわ。それが私の孫なんてね」
「お義母さま、それは秘密なんですから、外でむやみに口に出してはなりませんよ」
小声で母が祖母をたしなめる。
「それもそうね。あの四歳の時の『ひよことこむぎ』からこんな風になるなんてねえ…」
「これからもたくさん書くからおばあちゃんも元気でいてよ」
もう少しくつろぎたかったが、いつものように祖母の話が長くなりそうで、アネットは早めに朝食の席を立った。天気もいいし、歩いていくには絶好の日和だろう。
アネットは本とノートを抱えて、玄関を出た。オルランド家の屋敷は町を見下ろす丘の上にあり、町まで下りて行かなくてはならない。ゆっくり三十分ほど歩いたカラーディアの町中に、アネットが勤めるカラーディア女子中等学校があった。
赤い煉瓦づくりの建物が並ぶ町の周囲には、緑色の小麦畑が広がり、澄み渡った青空に白い雲が浮かんでいる。この丘の上から町を見下ろす景色が、アネットは好きだった。爽快な気分で歩く。でも少し夏の日差しが目にまぶしくて、やっぱり寝不足はよくないわ、とアネットは反省した。
「オルランド先生、おはようございます」
町中に入り、元は貴族の別邸だったという煉瓦造りに蔦がからまった門をくぐると、口々に生徒たちが口々に挨拶してくる。
「本、持ちましょうか?」
「重くないから大丈夫よ。昨日の宿題のブロウニングの詩はちゃんと覚えた?」
「妹にもうやめてって言われるほど練習したから覚えました。数学の宿題もあったから、おかげで、ジョー・サンドの本を友達に借りたのに読む暇がなくって」
「先生、ジョー・サンドって知ってます?」
「もちろん知ってるわよ」
あなたたちの誰よりもね、とアネットは心の中でつけ加える。
「先生もジョー・サンド読むんですね」
授業では古典の作者や登場人物の裏話が止まらないのに意外、と騒ぐ生徒たちと別れてアネットは職員室に向かった。
乙女の園はいつも賑やかだ。うるさいほどに元気な少女、おとなしい少女、大人っぽい少女、理屈っぽい少女、ちょっぴり意地悪な少女、いろんな少女がいるが、みんないい子たちだ。
田舎の新米古典教師であるアネット・オルランドの秘密、それは、アルタイル王国きっての人気小説家、ジョー・サンドであることだった。