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朝餉にて

 海に沈む。


 潜在的な青を秘めた海面を見つめ、少女は揺蕩っていた。


 うつろう偏光の煌めきに、何処かの景色を垣間見る。浮かぶ泡に手を伸ばせば、指先をくすぐりすり抜けて行った。


 何処の海なのだろう。少女が慣れ親しんだ礁池の水色ではない。その先、サンゴ礁の境界を越えた黒潮の深い碧によく似ているような気がした。


 ほんの少しの懐かしさに少女は身を委ねる。


 このまま溶けてしまいそうだった。


「駄目だよ」


 誰かが囁いた。水底に向かって体を反転させる。


 海溝が口を開けていた。


 遥かな深淵から、巨きな存在が浮上する。


「君の海に、還るんでしょ」


 その声と共に、少女の体が輪郭を取り戻す。世界との境目を再び得て、覚醒した。






 跳ね起きる。


 は、と鋭く息を吐いて、辺りを見回した。周りの調度品に一瞬混乱して、就寝前の出来事を思い出す。


 そうだった。


 布団をめくる。覚えている限り少女の顔の上にいた海産物は、足元で真珠母色の腹を天に向けて蠢いていた。


 海産物をひっくり返し、囁く。


「昨日は、ありがとね」


 なんのことやら、とでも言うように海産物は再び腹を見せた。


 靴を探して突っかける。昨晩、女性がサイドテーブルに置いて行った水を頂戴して渇きを癒す。昨日手渡された水筒の水とは違い、こちらは真水だった。


 ノックの音が響く。


「はい」


 上擦った声で返事をする。細く開いた隙間から誰かがちらりと覗き、次いでワゴンを引いて入室した。


 昨晩と同じ顔を見て、少女は僅かに安堵する。


「おはようございます」

「おはようございます。あの、昨日はありがとうございました」


 礼を告げると、女性は慌てふためくように手を差し出した。


「当然のことをしたまでです。さあ、朝食をご用意しました」


 そうして布団の上で蠕動する海産物を一瞥する。


「……こちらのお食事は」

「水をあげると、喜びます」


 海産物には水を用意するだけに留めて、女性は少女の朝食を準備し始めた。具の多いスープに塊から削ぎ落としたような肉を数切れ、パイのようなもの。当然ながらご飯と味噌汁は上らなかった。


 昨日とは見た目も味付けも違うスープを食し、スプーン以外の食器を探す。辺りを見回している少女の様子に気が付いたのか、女性は肉の皿を手前に配した。


「あの、フォークとかは」


 おずおずと少女は尋ねる。女性は聞き慣れない言葉を耳にしたかのように怪訝な顔をした。


「ふぉーく?」

「お肉を食べる、あれです」

「そのまま、手では」


 女性の言葉に少女は恥じ入る。そういう文化なのだろう。郷に入っては郷に従えとばかりに少女は肉を一切れ摘み、口に入れる。


 血の風味が強い。今まで食べてきた家畜の中では、豚の味が一番近いように思える。食べ慣れた味に紐付けした途端、食欲が湧いてきた。昨晩のスープがすっかり無くなった腹に肉を納める。


 肉を平らげたところで、水で満たされた銀の深皿を差し出される。恐る恐る受け取ると、女性は申し訳なさそうに囁いた。


「手を洗ってください」

「あ、はい」


 そういうものだったか。


 ちゃぷちゃぷと指先を泳がせる。水の音に反応したのか、海産物が膝の上に這い上がってきた。


 女性が深皿を手に背中を向けた隙に、海産物に飛沫を散らす。波打つ海産物にコップを差し出すと、伸び上がって手を包み込んだ。少女は情けない声をあげる。


「いかがしましたか」


 女性が振り向いた時には、海産物は既に布団の上に滴り落ちていた。空になったコップを見つけて、女性は水差しを持ってくる。


「お代わりは」

「あ……いただきます」


 海産物を注視しながら、コップを差し出す。再び水で満たされたコップを海産物に近付けると、今度はそっぽを向いた。


 一度女性は退室し、水盆を持って戻ってくる。湯気のあがる水面を見て少女が首を傾げると、女性は微笑んだ。


「お手伝いしましょうか」

「へ」

「お体を清めましょう」


 思わず自身の髪を一束引き寄せる。すん、と匂いを嗅ぐと僅かに潮を感じた。


 ひとまず、一人で問題ないということを伝える。盆とタオルを置いて女性が部屋を離れた後、服を脱ぐ。


 タオルを湯に浸して体を拭う。一通り汚れを落とした後、少し悩んでもう一度制服を纏った。少女が身なりを整える間、海産物は盆に近づく。湯に滑り込むと姿が溶けるように見えなくなった。驚いて手を突っ込み掻き混ぜる。確かな感触と共に色鮮やかな外套膜がぷかりと浮かび上がった。透過するのは水中にいる時だけのようだ。


 不思議な生態を目にして観察にふける少女の耳に、複数人の足音が入る。ドアに顔を向けると、何やら話し声が聞こえた。


「イジンの支度は」

「司祭も騎士団も既に集まっている」


 強い語気の合間に、女性の哀れげな声が挟まる。耐えかねて、少女は海産物を抱えてドアをノックした。


「あの、今出ます」


 ドアの向こうで、何か気まずげな動きがあった。そっと押し開いて廊下に出る。


 昨日も見た衛士が数名、居並んでいた。怯みつつ少女は一歩足を踏み出す。


「お待ちしておりました」


 一人の衛士が告げる。それに習ってか、他の衛士も一斉に爪先を揃える。


「他のイジンの皆様は、既に神子の元へ集っております。向かいましょう」

「次は、何をするんですか」


 少女は問う。


「貴女の後ろ盾を選びます。此処では庇護者が必要です」


 衛士は淡々と返答をする。その答えを聞いて、少女は安心した。何か施設に収容されるらしい。


 きっと、寮と大して変わりはしないのだろう。

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