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客間にて

 永遠にも思えた道のりの果てに、二人は先程の待合室とはまた違った内装の部屋に辿り着く。顔を上げる気力も無く白亜の床を眺めていた少女の視界に、天蓋のついたベッドの薄布がちらつく。肩を貸しながら女性は天蓋を捲り上げ、再び誘導した。


 少女はベッドへ腰を下ろす。材質のわからない弾力が僅かに尻を跳ね返した。


 少女の足元に女性は屈み込む。靴を脱がせようとしているようだ。それは申し訳ないと手を伸ばす少女を制する。四苦八苦しながら女性は何とか片方を脱がせて、容体を尋ねた。


「まだ眩みますか」

「ごめんなさ……」

「さあ、横に」


 滑らかなシーツの上に、促されるまま倒れ伏す。天気の良い日に干した後の匂いがほんのり漂った。


「水を持ってまいります。すぐに戻りますから、ご安心を」


 少女の胸元まで布団を引き上げ、女性は部屋から出ていく。天井を見上げると何故か回って見えたので、もう一度目を伏せた。


 首元で何かが蠢く。弾力が離れていったのを感じて、薄目を開けた。


 海産物がベッドの縁から下りていった。ひらひらと揺れる鰓が消えていくのを眺めて、少女は布団に包まる。ほんの少し肩が軽くなっただけで、割りかし気が楽になった。


 うとうととしかけた頃、部屋のドアが開く。薄らとした影が近付き、少女の額に濡れたタオルを置いた。


「ありがとう、ございます」


 目を開き切ることも出来ずに呟く。影は安堵したような溜息をついて、先程の女性と同じ声音で静かに尋ねた。


「この地に来てから、食事は取りましたか」

「……夕方になる前。がりがりした、何かを」


 虚げに呟く少女の言葉に影は頷く。


「少し、胃に食べ物を入れた方が良いかもしれません。その前にお水を」


 水を注ぐ音が響く。よろめきながら上体を起こすと、先程と同じ手が背中を支えてくれた。コップを取り、口をつける。ぬるい水が流れ込んだ。


 ひと心地つき、僅かに冴えた目で辺りを見る。ベッドの側にホテルで見るようなワゴンが着けられていた。水差しとスープで満たされた皿が置いてある。


「食べられそうですか」


 どうしようか、と悩む間も無く腹が鳴った。女性はスープの皿を盆に乗せ、少女の膝の上に配膳する。とろみのついたスープをひとすくい、口元へ近づけた。


 赤ちゃんみたいだ、などと思いながらもスプーンを迎え入れる。


 祖父がよく買って来る缶詰のクリームスープに似た味だった。


 一口、もう一口とスプーンが運ばれる。半分ほど嵩を減らしたところで、女性は尋ねた。


「すべて食べられそうですか」


 小さく頷いてスプーンを譲り受ける。


 時間をかけて、少女はスープの皿を空にした。


 食器を片付けた後、再び横になるよう促される。見上げた天井は、もう回ってはいなかった。


「他の、みなさんは」


 ふと気になって問う。サイドテーブルに水差しとコップを置きながら女性は答えた。


「他のイジンの皆様は別室でお休みになられています。貴女も一晩、ゆっくりお体を休めてください」


 はい、と答えると女性は微笑んだ。布団の端を整え、少女の額に再度濡らしたタオルを置いて礼する。


「何かありましたら、枕元の鈴を鳴らしてください。すぐに伺います」


 声が密やかなものになった。


「明日は、加護を御示しになる必要があります。そのためにも……お休みなさいませ」


 そう告げるなり、部屋が薄暗くなった。


 扉が閉まる音を最後に、一切の音が無くなる。


 ぼんやりと少女は天井を見つめる。待合室や廊下と同じ白亜の材質が、静けさをより一層引き立てた。


 ここは静かすぎる。


 少女の住む家は、夜になるとヤモリの鳴き声がよく響いた。小さい頃はその鳴き声が怖くて、祖父に泣きついていた。


 今、あの家はどうなっているのだろう。


 少女は目を閉じる。目蓋の裏に、家の天井が浮かび上がった。


 仏壇と台所に供える水は変えているだろうか。食事はちゃんと食べているだろうか。昼には畑仕事や釣りを切り上げて帰っているだろうか。


 他愛もない心配事が次々と湧く裏で、必死に「それまで考えないようにしていたこと」を押し込める。


 それも、あえなく決壊した。


 少女と祖父は二人暮らしだった。唯一の肉親だった。


 少女が此処にいる今、祖父は独りだ。


 両腕を掲げて顔を覆う。熱が頬をつたい、枕を濡らした。


 祖父を置いてこんな所に来てしまった。今頃自分は失踪でもした事になっているのだろうか。あの島に、あの家に、祖父を独りにしてしまった。元の目的地に辿り着けていればどんなに良かったのだろう。少なくともそこは同じ世界だった。


 毎日電話もするなんて、間をとって週一なんて言ったのに、公衆電話すら見つけられていない。


「ごめん」


 ごめん。


 何度も呟く。布団を握り込み、声を押し殺した。悪い夢なのだと、頰の内や唇を噛む。血の味と痛みが広がるばかりで、いつまで経っても少女は布団の中にいた。


 たふ、と枕元に何かが沈む。布団から顔を離すと、海産物の襞が視界を覆った。腫れた瞼に冷たい闇が被さる。その冷えが心地良くて、切なくて、少女は嗚咽を漏らした。


 溢れた涙は海産物に吸い込まれるように消えていく。一頻り泣いて、少女の意識は次第に泥濘のような眠りに落ちていった。

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