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燃える森にて

 頬をひやりと撫でられた。


 目を見開いたはずなのに薄暗い空間に一瞬困惑して、此処に至るまでの経緯を思い出した。冷えた空気が腰にまとわりつく。制服の裾を抱え込むように、少女は自分の体の暖を求めた。


 視界の隅の海産物は、仰向けになって膨張と萎縮を繰り返している。呼吸、というよりはそういう真似事のように思えた。


 異世界なら、呼吸は必須でも無いのだろう。


 そんなことを考えながら、海産物に手を伸ばした。


 柔らかな腹に手を埋める。


 やっぱり、「息」を止めた。


「あ、ごめん」


 手を引っ込める。もぞもぞと海産物は蠢きながらひっくり返る。極彩色の背面にくっついた枯葉を取ろうか迷って、声をかけた。


「葉っぱついてる」


 再度手を伸ばす。今度は呼吸の真似事を止めることもなく、おとなしく触れさせてくれた。


 枯葉を摘んだ後、気落ちする。


 物凄く自然に海産物に声をかけていたが、これはいかがなものか。


 そう考えた途端、何かが鼻を掠めた。


 考えるより先に、頭の中で警報が鳴り響く。海産物を抱え上げ虚の外に目を凝らした。仮眠を取る前と様相に変わりはない。だが、確かな異変を少女は嗅ぎ取っていた。


 燃えている。


 虚から這い出る。視界を遮るほどではないが、微かに烟った空気を吸わないように二の腕で口を押さえた。


 自然に起きた山火事だとか、誰かの失火だとか、そうは思えなかった。少女と同時期にやって来たあのイジンは、確か炎を操ると言っていた。そしてまだ彼は女騎士の傘下にいる。


 森ごと少女を焼き殺す気なのだろうか。


 どこにいるともしれない追手から逃げるため、少女は再び駆ける。


 こんな状況だというのに、脳裏をよぎるのは近所の農家が野焼きをやって駐在に怒られている光景だった。


 走れば走るほど息が切れ、煙が流れ込む。懐にハンカチを入れっぱなしにしていた事を思い出して、取り出した。海水やらなんやらで揉みくちゃになった布切れを広げる暇もなく、鼻と口に当てる。


 走る。走る。


 暗い森は益々闇を色濃く、少女の行く先に滲ませていく。その闇の淵が、一瞬赤く輪郭を持った。


 海産物が頭を振る。弾みがついたのか予想以上に重い質量が腕の中で暴れ、少女はよろめいた。


 灼熱が頭上を通り越す。一瞬の出来事に思考と動きを止め、前方を見つめる。明らかな指向性を持って飛んできた火の玉は、目の前の大木を焦がした。


 舌打ちの音が響く。


「外した」


 振り返った先の視界が熱と光を帯びる。


 来た道が燃えていた。燃え盛る炎の壁の向こうで、いくつか人影が揺れる。


「イジンサマ、足止めさえ出来れば後は我々が」

「いいや、俺がやる。俺の手であの人の前に引き出してやる」


 炎が割れ、見覚えのある少年の姿が垣間見えた。衛士達と同じ鎧を纏い、出会った時と同じ不信感のこもった瞳で少女を睨め付ける。


「まさか、逃げるなんてな」


 芝居がかった声音だと思った。黙する少女の前で、少年は練習した台詞を読み上げるように淡々と告げる。


「みんなが世界を救おうとしているのに、見捨てて魔獣と何処に行くんだ」

「家に、決まってんでしょ」


 当然だとばかりに少女は言った。


「それに、逃げたのは危険だと思ったから。だってあの人」

「危険ね。加護がないって不憫だなあ、何も出来ずに逃げるしか出来ないなんて」


 齟齬を感じた。


 おそらく少年の中で、少女はミジンコの侵攻に恐れをなして逃げ出したという配役なのだろう。


 無性に腹が立って、言い捨てる。


「神殿の廊下であった時、どこ行こうとしてたの。君も逃げようとしてたんじゃないの」


 少年の目の色が変わった。


 怒号が何かの代わりのように、少女の目の前で火柱が立つ。


 顔を覆い後ずさる。


 多分、向こうも腹を立てた。


 火柱の向こうで少年が右手を伸ばす。猛烈に嫌な予感がして、少女は背を向ける。


 背後で温度がいくらか上昇した。倒れ込むように左折する。


 死角で炎が一直線に走った。少女が方向転換する前にかけていた場所を焦がし、赤々と燃える。


 殺す気か。


 肩越しに見返りつつ、少女は走る。共にやって来た衛士達の言葉も、自身の発言も、どうでも良いのだろうか。あるいは少女の一部分でも残っていれば良いと思っているのかもしれない。


 何故、踏み切れるのだろうか。


 逃げながら少女は考える。同じイジンで、同年代で、同じ価値観を持っているとばかり思っていた。


 暴力を振るう人間だとは、思えなかった。


 それがただの思い違いなだけだったのか。


 熱が頬を掠める。真横を炎の帯が通った。炎は木々を潜り、倒し、舐め尽くす。


 眩しい。どこを見ても目が焼けそうだ。がむしゃらに走っても、炎はどこまでも追いかけてくる。


 白い視界の中、身を隠す木々も紛れる影も見失ってしまった。炎から目を逸らそうとして空を見上げる。


 赤い夜空が、遠い。


 それでも束の間、少女は視力と息を取り戻した。


 炎の何処かで少年が笑う。


「逃げるのも下手なのか」


 火の粉を纏いながら、イジンは炎の壁を抜ける。円い延焼が二人と一体を囲んだ。


 再び、少年は腕を伸ばす。少女を指差し、何事か告げた。


 何事か、告げようとした。

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