浜辺にて
波の音が聞こえる。薄く目を開けると、曇天を背景に海産物がこちらを覗き込んでいた。
ハッ、と息を上げた途端、塩辛い水が逆流する。砂の上をのたうちまわり、体内に満ちた水を吐き戻した。灼けた喉を冷やすように這いつくばったまま深く息をつく。幾分か呼吸が落ち着いた頃、上体を起こして辺りを見回した。
灰色の砂浜。
淀んだ海。
謎の生き物。
ここは何処だ、などと考えるよりも早く、少女の体が動いた。数歩駆け出しよろめく。湿った砂の上に膝をつき、背後を振り向いた。
海産物は少女が横たわっていた場所で、ぶるりと蠕動した。足跡を尾けるように這い出したソレを見て、再び少女は駆ける。
息を上げ、震える足を動かしながら何度も肩越しに追手を確認する。海産物は鈍重そうな外見とは裏腹に、着々と少女との距離を詰めてくる。
あと数歩、というところで不意に海産物は跳躍した。悲鳴をあげる少女の背中に、冷たく程よい質量を持った何かがのしかかる。
今度こそ。少女は覚悟を決め、手足を砂浜に放る。背中の海産物は首元まで這いずり上がり、そのまま溶けるように動きを止めた。
ふと、脳裏にかつての思い出が蘇る。熱を出した時に祖父が用意してくれた氷嚢が、丁度こんな感触だった。束の間少女は、現在自身が置かれている状況を忘れる。潮の香りが微睡む意識に拍車をかけた。
体が重くなる。
意識を完全に手放す寸前、少女は辛うじて危機感を思い出した。
「は、離れろ!」
海産物を鷲掴む。割合固めの弾力が指を押し返した。しかし即座に弾力は弛み、柔らかな体が手を包み込んだ。しばし格闘して、どうにもならないことを悟る。
うつ伏せのまま海産物の感触を確かめる。いくらか時間は経ったが、海産物は首筋にへばりついた以外何の行動も取らない。痛みも痒みもないことに少しばかり余裕を取り戻して、少女は立ち上がる。
気が済んだら勝手に離れていくだろう。
それよりも、気になることはたくさんある。
改めて周囲の景色を眺める。たぶん、海岸だ。もっとも少女の知る海とは何もかもが違う。生まれてこの方、「青い海」以外を知らずに生きてきた少女にとって、目の前の昏い海は現実味のない風景だった。
随分と遠い所まで流されてしまったようだ。
ため息をついて、改めて現在の異常事態を確認する。制服のポケットを探ると、しわくちゃになったフェリーのチケットと祖父からもらったお守りが出てきた。
何を、していた。ここで目覚める前。フェリーに乗っていたはずだ。甲板から、どんどん遠ざかる島を見ていた。でもその後は。
「……」
記憶はそこまでだ。立ち眩みに似た感覚に襲われ、少女はこめかみを軽く押す。漂着の二文字が脳裏を過ぎった。風に煽られるか日に中てられて、甲板から落下したのだろうか。だとしてもこんなにスッポリと記憶が抜け落ちるものなのだろうか。
いや、記憶の有無はどうでもいい。問題は此処が何処なのかがわからないことだ。兎も角少女は散策する事にした。砂の質からして少女が暮らしていた島とは地理がまったく違う場所のようだ。
有人島だといいけど。
無人島だった場合はどうなるか、という事は考えないようにして、少女は歩き始めた。
無論、海産物も同行する。
闊歩する少女の首元で騒ぎ立てる事もなく、海産物は外套膜を弛緩させる。濡れたタオルか何かと思えば不快感も無かった。
疎らな芝を踏み、海岸林の縁を歩く。落ちていた枝を拾い上げてみたが、見慣れた植物ではなかった。少女の住んでいた島とは植生もかけ離れているようだ。
潮風が制服を乾かし、疎らにまとまった髪をはらはらとそよがせる。一つくしゃみをすると、海産物が驚いたように萎縮した。
「ああ、ごめん」
伝わるはずもないが謝罪する。ゆっくりと元のように伸びていくのを感じながら、少女は林の中に足を踏み入れた。植物は違うが、海岸林ならすぐに抜けることが出来るはずだ。そしてその先には集落がある。おそらく。
落ち葉を踏みしめ歩く。数分も経たないうちに、少女の想像通り林は開けた。
丘陵の向こうに赤い町並みが広がる。
足を止め、少女は困惑しつつ息を整えた。一先ず無人島ではなかった。それは嬉しいが、次いで疑念が浮かぶ。目の前の風景は、あまりにも異国情緒に溢れていた。
立ち止まってもしょうがない。煉瓦造りの町から目を離せないまま、再び歩き出す。一段高い海岸林沿いを下り、どうも人の手が入っているような草地を進むと、程なく煉瓦造りの建造物が見えてきた。
西洋じゃん。
立ち止まり、辺りを窺う。人影がちらりと見えたような気がして、町外れで手を振った。
「あのー」
思いの外大きく響いた少女の声に気がついたのか、ぽつぽつと人影が増える。灰色や亜麻色の衣服は、おそらく洋服に区分されるのだろう。工場で大量に縫製されるような衣服とは思えない、どこか古めかしい格好だった。
そして何よりその顔立ちが、少女の焦りを増幅させる。
明らかに日本人ではない。
「えっと……えすおーえす?へるぷみー」
両手を振り、無難そうな言葉を選ぶ。近付くにつれ人々の訝しげな顔がよく見えてきた。滲む不信感に気圧されて立ち止まる。
人混みを割って、一人の老人が現れた。周囲と比べて小綺麗な身なりの老人は、よろよろとこちらに走り寄ってくる。その様に親近感を覚え、少女もまた近寄る。
「あの」
通じないとは思うが、何か声をかけようとした。しかしその前に、老人が口を開く。
「もしや、イジンサマでしょうか?」