表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/30

樹洞にて

 脇目も降らず荒野を走る。


 村人に連れてこられた時とは違う、月面のような風景がいつまでも代わり映えなく続いている。


 きっと、向かう先は最初に辿り着いた村ではないのだろう。ただ足を動かし、背後の白亜の街から遠ざかる。


 息を切る音ばかりが充満する。抱えた海産物が滑り落ちそうになって視線を落とした。


「あっ」


 蹴つまずく。海産物の抜け落ちた腕で顔を庇い、地に伏せる。途端、足元から痛みと疲れが這い上がってきた。


 呼吸を整える。ほんの数回息をついただけなのに、星が動くほどの時間が経ったように思えた。焦りが胸を早く打つ。その反動を使うように上体を起こして、海産物を探した。砂まみれでこちらを伺っていた海産物を抱え、再び駆ける。


 吐息が白い。荒野の夜は寒いという知識を思い出して、一層強く海産物を抱きしめた。当然温もりなどはなく、ただただひんやりとしていただけだった。


 う。


 声が漏れる。感情を吐き出すような叫び声が出そうになって、歯を食いしばった。


 自身の体で響く音だけが聞こえている。静謐な世界を駆け、段々と、速度を落としていった。


 遠くに黒い輪郭が見える。「此処」に来た時に見た海岸林の遠景に近しいものを感じて、立ち止まる。


「……あっち、行こ」


 誰に告げるでもなく……強いて言えば海産物に意思表明するように呟いた。ゆっくりと地を踏みしめ、木々へと向かう。


 一画、線引いたように森が現れる。枝垂れた植物の群落の合間に、通り道とも虚ともつかない空間がある。蔓をかき分け足を踏み入れた。潮と土の匂いが立ち込め、息を詰まらせる。


 夜目がこんなに効くとは思っていなかった。それでも十分に足元に気をつけて、深部へと向かう。木々に紛れたら衛兵にも、同じイジンにも、ミジンコのような怪物にも、見つからないだろうか。


 ぷるんと海産物が蠢く。


 緩んだ腕から滑り落ちた海産物は、木々の間を縫うように地を這う。何かを探しているような動きに、少女も木を巡るように後をつける。


 一際胴回りの巨きい木の周囲を、海産物は三周ほど這って裏側に消える。覗き込むと、ぽっかりと虚が口を開けていた。


 虚の中で、手招くように外鰓がそよぐ。足を踏み入れると柔らかな木の葉の堆積が沈み込んだ。


「隠れろってこと」


 枯葉の上に腰を下ろし、海産物に問う。無論返答はなく、ただ海産物は足の甲の上でとろけるように身を委ねた。


 体育座りのまま虚空を見つめる。時折木の葉が擦れる音が聞こえる以外は、何も聞こえない。夜行性の動物が彷徨いているわけではないのは、幸いだろうか。


 規則正しい自身の吐息に、視界がぼやける。目を伏せると、そのまま飲み込まれるように意識を失いそうになる。


 眠っていいのだろうか、この状況で。


 頬をぺちぺちと叩くと海産物が訝しげにのたくった。真珠母色の腹を見せた後、ひっくり返って虚の入り口へと這う。


 どこ行くの。


 そんな情けない言葉が出そうになる前に、海産物は陣取るように虚の縁に外套膜をかけた。


 そのまま、外を眺めるように微動だにしなくなる。


 見張り番か何かのようだ。


 能天気な考えに吹き出しそうになって、少女は膝に顔を埋める。そのまま無言で、鼻を啜った。


 鼓動が耳を突く。無意味にその音を数えていると、何か引いては寄せるような波長が入り混じった。ミジンコが現れた時の揺らぎを思い出して、顔を上げる。


 何事も無い。暗い虚の中で、海産物と二人きりだ。


 ふと、薄闇を背に海産物が伸び上がる。何かを伝えたいような踊りにも似た動きから、少女は何も汲み取ることが出来なかった。


「ごめん」


 謝る。


「ごめん……」


 もう一度呟く。滲んだ視界で、ぼやけた海産物は落胆するように転がった。


 再び膝に顔を埋める。


 また、波の音が聞こえてきた。


 心が騒つくのにどこか懐かしい音を聞いて、今度こそ、少女は泥のような睡魔に呑み込まれた。


 生暖かい眠りに落ちる。


 体と世界の境目が溶けていく。


 シームレスな夢の中で、少女は希薄になっていく。かき混ぜられるような海流に逆らうこともなく、ただただ自我が拡散する。


 また海の中だ。


 遠くの魚影にも見覚えがある。


 煌めく鱗に羽衣のような鰭。追い立てられる魚と付き従う魚。


 あれは、何なんだろう。


 とても巨きな気がした。あの魚が鰭をほんの僅か動かすだけで、少女は千切れそうになる。揺らぐ海流に身を任せて、少しでも身を守ろうとする。


 あれが、もし此方に来るのなら。


 少女も世界も泡のように消えてしまうのだろう。


 追い立てられた魚が、薄れた少女を貫く。以前もこんな事があった。ミジンコと出会った時。あれも夢だったのだろうか。


 魚群が捌け、巨大な魚が躍る。


 滑らかな上体が、僅かな光の中で妖しく照り返した。


 人魚だ。


 その姿を把握した瞬間、溶けた身体が凝固する。浮上していく意識の外で、誰かが囁いた。


 目を合わせないで。

 今はまだ遠い虚像だけど、見つかると真っ直ぐ此方に向かってくる。

 呑み込まれたら、横切られるよりも酷い目にあうよ。


 少女は海面に引き上げられる。は、と鋭く息を吹き返した。


 そうして、目が覚めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ