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夜の街にて

 硬質な足音が近づいてくる。自分でも驚くほどに上手く、少女は寝息を立てた。気配が寝台の横で立ち尽くす。


「食事は摂ったか。もっと上等なものを用意出来たら……」


 姫騎士の声で気配は呟く。足音が数歩離れ、部屋を周る。


「健気なことだ」


 騎士が告げた途端、海産物はゆっくりと波打つ。身じろぎしそうになるのを堪えて、狸寝入りを続ける。


「魔獣はどうしますか。罠にもかからなかったようですが」


 使用人か誰かの言葉に騎士は答えることもなく、部屋の入り口へと向かう。


「納める準備を」

「はい」


 使用人の返答を最後に、扉が閉まる。二人分の足音が遠く離れていくのを確認したように、海産物は顔から滑り降りた。


「……」


 天井を見つめる。


 呼吸を整える前に、体が動いた。シーツを跳ね除け窓に近付く。日中に四散したはずのガラスは、既に傷一つないものに変わっていた。縁を叩き継ぎ目を探す。厄介なことにはめ殺しの窓だった。


「ど」


 どうしよう、と告げようにも案を出してくれそうな存在は一体しかいない。海産物を探すと、酸で満たされたタライの周りを這いずっていた。


 咄嗟に思いつき、すぐに消沈する。酸でガラスを侵すことは出来ない。途方に暮れる少女の目の前で、なおも海産物は訴えるように円舞する。


 悪あがきだ。


 そう思いつつも、タライの前で腰を下ろす。慎重に抱えて、窓を見据えた。


 勢いよくかけようとして少し日和る。たぷんと水玉が飛び出した。


 煙と刺激臭が生じる。顔を背け、数歩後ずさった。恐る恐る目を開くと、煙の向こうに爛れた窓枠が現れた。


 上手くいった。


 驚きつつ、タライを静かに寝台に下ろす。ガラスとばかり思い込んでいた透明な板は、発泡しながら白く濁っていく。水差しの中身を溢して、爛れた窓に打ちつけた。


 呆気なく、窓は崩れる。暫く無心に窓を叩き、ようやく少女が通れるそうなぐらいの穴を開ける。


 再び辺りを見渡して、シーツを穴に通す。布が残った酸を吸い取り窓枠の切先に体が触れないことを確認して、上体を突っ込んだ。


 バルコニーとも言えない窪みに這い出る。ようやく体全体が外に出たところで、海産物を呼んだ。


「おいで」


 少女の声に応えるように、海産物は寝台に這い上り窓枠から腕の中へと飛び込む。しっかりと海産物を抱えて、少女は辺りを見渡した。


 暗い。


 深呼吸をして、バルコニーから階下を見る。高い建物ではない。二階ぐらいなら、きっと大丈夫だ。だとしても安全工程で。


 縁に足をかけ、取っ掛かりを探すように右足をぶらつかせる。


 その顔に冷たいものが襲いかかった。


 バランスを崩し、縁から落ちる。


 真っ暗な視界の中、妙な浮遊感と永遠にも思えるような時間を感じとる。


 背が、水面に打ち付けられた。


 一つ呼吸をする間、少女の体は沈み行く。しかし即座に吸い上げられ、浮上した。


 顔から海産物が剥がれた時には、少女は路上で大の字になっていた。


「?」


 混乱したまま起き上がる。腹の上でのたくる海産物を抱え、今しがた落下してきた神殿を見上げた。溶解した窓枠が目に入り、慌てて駆け出す。


 逃げなければ。


 どこに。


 どこまで行っても、きっとあの島には帰れないのに。


 それでも、もつれそうな足を必死に動かす。暗い街を遮二無二走って、闇の中にぼんやりと聳える門に辿り着いた。


 人影を見つけて、半壊した家屋の影に隠れる。ミジンコの影響か門は開いたままだったものの、門番がランプを片手に仁王立ちをしていた。


 素通りできるとは思えない。


 注意深く周囲を窺う。物資を運び入れた階段を見つけて、視線を上げる。見張り台のような空間には明かりが灯り、影が揺らいでいた。人がいるのは当然か。少女は落胆し、他の抜け道を探す。


 街の造りについてはよくわからないが、出入り口が一ヶ所だけということは無いだろう。


 影から影へ渡る。不気味なほどに出歩く人間はいない。突如日々の暮らしを壊され、皆疲れ果てているのだろう。


 テントの並ぶ通りを横目に、再び白亜の壁沿いに至る。緩やかな曲線がどこまでも続いているのを見て、少女は肩を落とした。このままだと神殿に近付いてしまう。半ば諦めるように踵を返した。


 背後から足音がいくつか聞こえ、一瞬だけ足をすくませる。抜け出たことが知れてしまったのか。不安を煽られ、少女は足早に元来た道を戻る。


 再び門を窺い見る。屈強な衛士は変わらず微動だにしない。少しでも気を逸らせば、数歩でも歩けば、上手くすり抜けられるだろうか。


 動き出せずに悩んでいると、突如衛士が礼をした。


「イジン殿」


 ギョッとするのも束の間、通りを堂々と歩いてきた人影に気付く。衛士の礼は彼に向けられたものだった。


 見覚えのある放送禁止用語のTシャツは、街並みの中で異様な存在感を放っている。


 衛士とは対照的に男はごく小さな声で何事か問いかけた。門番は頷き、内部に続く階段へ消えていく。


 イジンの男が振り返る。


 一瞬、目があったような気がした。


 しかしすぐに男は目を逸らし、辺りを見回した後自身も門上へと向かう。後には誰一人として残っていない。


 今だ。


 そう察した瞬間、少女は暗がりから駆け出した。

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