寝台にて
あ、と小さく声を漏らす。姫騎士はイジンに冷たく視線をくれた後、片膝をついた。
「貴君は確か」
目を逸らすことが出来ない。少女の貧困な知識上のどの国の人間とも違う美貌が、ずいと近づく。
「やはり。あの、魔獣に引き取られたイジンか」
騎士の口元が弧を描く。
「迷子かな」
頷けるような余裕もない。何か弁明するべきような気がして、上擦った意味のない言葉を放つ。
「えっと、その」
「ここは」
肩に手が置かれる。金属ともまた違う材質のガントレットが、布越しに冷えを伝えた。
もう片方の手が、口元に人差し指を立てる。
「ここは、静かな眠りの場だ。騒がしくしてはいけない」
一瞬、姫騎士は真摯な眼差しになる。しかしすぐに元の冷たい瞳に戻り、立ち上がった。
手が差し伸べられる。
「部屋まで共に」
躊躇があった。少し間を置き、少女は手を重ねる。
「ありがとうございます……すみません」
「何か用があったのだろう。食事が足りなかったのかな。まだ広間にいくらか残りがいるはずだ」
エスコートするように姫騎士は手を引く。咎めるような雰囲気が微塵もないのが、逆に居心地が悪い。
「給仕させよう。部屋で待っていてくれ」
「……はい」
首筋を海産物がなぞった。思わず背筋を伸ばすと、隣で鈴を転がすような苦笑が溢れる。
「君の後見人も何か御所望かな」
そもそもの彷徨いでた理由を思い出して、怖気付きながらも頼む。
「えっと、水を出来れば」
「水か。わかった、タライいっぱい用意しよう」
朗らかな声に安堵して、騎士の顔を真っ直ぐに見つめる。声音とは裏腹に先程と変わりない目が、少女を見下ろした。そこにどうにも壊せそうにない壁を感じて、少女は騎士の肩口に視線を落とした。
抜け出した時よりも随分と短い時間で、元の部屋に戻る。把手に手をかけようとして、先に騎士がドアを開け放した。
「さあ」
「あ、ありがとうございます」
「待っていてくれ。すぐに用意させる」
きびきびとした会釈の後、ドアが閉まる。足音が離れていくのを聞き届け、少女は寝台に腰を下ろした。
血の臭いが、離れない。
両手で顔を覆う。より濃密になった臭いにむせ返りそうになって、身を後ろに投げ出した。
あの壺はなんだ。
あの顔は。
質問をする勇気は出なかった。姫騎士自身、少女に余計な口を利かせないよう会話を誘導しているようでもあった。
ただ一つ、「部屋」の機能を示唆するような言葉を囁いていたことを思い出す。
静かな眠りの場。
そんな穏やかな場所ではない。あの肉片は、眠ってなんかいなかった。どう見たって生きているはずもないのに。
ドアを叩く音に肩が跳ねる。
「食事をお持ちしました」
返事をする前に戸が開く。ワゴンを押す給仕は知らない顔だった。
「失礼いたします」
小さなテーブルの上に所狭しと皿が並べられる。最後に床に大きなタライを置いて、給仕は素早く立ち去った。
「ありがとうございます……」
間に合わず、閉まるドアに礼を告げる。料理に手をかざしても温もりは特に感じられなかった。
首から海産物を剥がして掲げる。
「水、用意してくれたよ」
タライに漬けるべく立ち上がる。途端、海産物は液状化した。
「ひっ」
滴る海産物だったものから数歩離れる。海色の液体は即座に形を取り戻し、テーブルの脚を這い上がった。
茶色い煮込みを観察するように静止する。唐突に外套膜を広げ、皿に覆い被さった。
「た」
食べるんだ。
咀嚼音もなく消えていく煮込みを見つめる。そんなに腹が減っていたのなら、昨日の乾パンも食べたらよかったのに。
少女の目の前で海産物は皿を綺麗に舐め取り、床に降り立つ。タライの横にぴたりと張り付いた後おもむろにそそり立った。
どこからか肉片が飛び出る。先程の煮込みに入っていたと思わしき茶色の欠片は弧を描いてタライに落ちた。
焼け付くような音が響く。
僅かな泡が浮いた後、肉片は跡形もなく消えた。
え、と思わず声を出す。呆ける少女を窺うように海産物は身を捩った後、もう一度肉片を放る。
再び消えた肉片とタライを見つめた後、少女は察する。タライから離れ、部屋の隅に収まった。
「なんで」
動揺する少女の目の前で海産物はベッドの上に這い上がる。シーツの真ん中で体の縁を波立たせ、触角を忙しく動かした。
知能があるような振る舞いは多々あったが、ここまでとは思わなかった。いや、それ以前に、この悍ましい罠を知らしめた上で何を伝えようとしているのか。
次第に動きが激しくなっていく海産物を観察する。寝台の上で仰向けと腹這いを交互に繰り返す海産物の傍ら、少女も確かめるようにアクションを見せてみる。
寝台の周りを彷徨き、腰掛け、寝そべってみる。納得がいったのか海産物は横たわる少女の目を覆うようにのしかかった。妙に心地の良い重さと冷たさを感じつつ、息を潜める。
僅かに身じろぎをすると、海産物は顔の上で批難でもするようにもがく。動くな、ということなのだろうか。少なくとも黙って横になっている分には海産物は静かだった。
体感的には数分経った。
唐突にドアが軋む。
体が跳ねるのを何とか押さえつけ、少女は静かに息をつく。
僅かな間視線が体を這う。その感覚が不意に途切れ、廊下で誰かが囁きを交わした。
「効いているようです。魔獣は無傷のようですが」
「構わない。どちらにせよこの神殿は脈の上にある。魔獣が暴れることは出来ない」
一人は聞き覚えのある声だった。冷たい眼差しが脳裏をよぎる。
「彼女はまだ転化もしていません。他にも用途が」
「しかし加護を見せなかった。それが故意であるかはわからないが……あれは彼女がいきる術でもあるんだ」
心臓が跳ねる。シーツが水没してしまいそうなほどの冷や汗が噴き出した。
碌でもないことを話している。それだけはわかった。
「まだ壺は空いている」
その言葉を最後に、扉は先程よりも大きく開け放された。




