城門にて
無数の泡沫に包まれ、沈みゆく。
水面には光と闇が踊るばかりで、先程までの喧騒を窺い知ることはできない。そんな明暗のモザイクも遠く離れてゆく。
伸ばす手が水の本質的な色に染まる。
海だ。
でも、何故だろう。
足掻くべきなのに、ただただ力が抜けてしまう。揺蕩う身体を、潮流が微かに撫でた。くるりと反転して、垂直に浮かぶ。
海底の地形は見えない。足元には深淵、そして水ばかりが満ちている。
その遥か彼方に、少女は何かを見つけた。黒い点のようなそれは、ゆっくりと肥大化し、形を変える。点は無数の点の集まりとなって、少女の目に一つ一つの輪郭を映す。
魚群だ。
その一塊の向こうに、巨きな影が一つ。
影に追い立てられるように魚群は少女に迫る。鰭に切り刻まれそうになりながら、群れが通過するのを待つ。無論、流血沙汰になることなどなかった。
流血。
そういえば、あの棘はどこへ。
途端、縁を掴んだように少女の身体は急浮上した。水面が捲れ上がり反転する。
重力の赴くままに投げ出された少女は、再び青を目にする。
今度は空の青だった。
は、と息をつく。
痛みはない。辺りを見回すと、倒れた少女の傍で男と衛士が上空に目を向け立ち尽くしていた。ぼやけた視界に焦点を当てる。
降り注いできたはずの棘が、空に突き立っていた。
目を細め、よくよく空を眺める。ミジンコの鰓脚は不自然に捻じあがり、己の単眼を貫いている。身悶えするでもなく、しかし確実にミジンコは遠ざかって行く。漣のような世界の揺らぎが、先程よりもずっと穏やかに体を揺らした。
「今」
三人、同時に口を開く。偶発に口を閉ざしたのも束の間、男は少女に手を差し伸べた。
「痛みとかは」
「は、はい。ひっくり返っただけです」
「……なんか心配だけど、門までは行けそう?」
頷く少女から、目的地へと視線を向ける。
「棘の動き、変わった。今のうちでしょ」
「は、はい!」
衛士が即座に返事をする。筋張った手が少女を引き上げた。
「行くかぁ」
締まらない掛け声の後、再び一行は駆け出した。
竜巻のように空へと昇り消えて行く棘を見上げる。棘の先にある曖昧なミジンコの輪郭に一瞬気を取られ、再び今現在の目的を思い出す。
白亜の門は見る影もなく崩れ、昨日通り抜けた場所には衛士が一人立ち呆けていた。
追い上げるように男は速度を上げ、衛士に向かう。
「他の人達、どこいったの」
そんな言葉の後に何やら右手を動かした。少女と共に駆けてきた衛士が頷き、男から荷物を受け取る。
「イジンサマ」
少女を見つめ衛士は門の上を指し示す。
「先に向かいましょう」
そう告げて門に添うように進む衛士の後を追う。白亜の石積みの一角で、不釣り合いな木の戸を衛士は開けた。冷えた空気が流れ出る。
門の内部に通じるのだろう。荷物の分足取りも重く、少女は段を登る。
会話も無く進む二人の対向から、何やら衛士の一団がやってきた。
「ゆっくり運べ」
耳に入った言葉に気を引き締める。怪我人だろうか。
一団は布のかかった桶のようなものを運び、少女達とすれ違う。僅かに血が匂う他は、少女が想定していたものとは違っていた。僅かに安堵して再び足を進める。
階上では、幾人かが窓から身を乗り出し空を眺めていた。多種多様な人種を見て、少女は彼等もまた「イジン」である事を直感する。
「皆さま、物資です」
衛士が声を張った瞬間、イジン達は此方を見つめる。
「もう、終わり?」
上擦った声で誰かが告げる。
「物資ってことは、持久戦なの?」
「もうこれ以上は」
神官服を着たイジンが数名、衛士を取り囲む。衛士は暫し視線を泳がせた後、空を指さした。
「魔獣は遠ざかりつつあります……じきに、神殿も開くはずです」
衛士の言葉に、憤るイジン達も一先ずは矛先を収めたようだ。その様子を遠目に少女は物資を下ろす。
「またカリカリみてーなやつだろ」
髭を生やした男性が男から物資を奪い取る。少女に近づいてきた別のイジンが、手荒く荷を解いた。
「……新入りか?」
「は、はい」
目の前のイジンの問いに頷く。目があった瞬間、息を呑んだ。
針のような瞳孔が、じとりと少女を見つめる。
「どっち派?」
またも唐突に問われる。
「え、どっち……ですか」
「神子か、騎士か。どっちか」
成る程、と納得したのも束の間、少女はそのどちらでもない事を思い出す。答えあぐねる少女を他所に、衛士が声を荒げた。
「イジンと言えど、敬意は払ってほしい」
針の瞳を持つイジンは衛士を一瞥する。途端、衛士の頬に赤い筋が入った。衛士は目を見開き、頬を手で隠す。
「はいはい」
イジンは投げやりに答えて、物資を一つ取る。そうして階下へと向かった。その後ろ姿を、忌々しげに衛士は睨む。
続々と人が集まり、我先にと物資を取る。一人一人の顔を見ていると、どうも加護の影響か肉体の一部が変貌している者が目立つ。茫然としている少女の傍らに、何かが舞い降りた。
「クレ」
にゅっと鉤爪のついた脚が伸びる。反射的に身を捩り、鉤爪の主を見下ろす。深紅のコンゴウインコが器用に物資を引き寄せていた。
しっかりと掴み、窓枠に跳び上がる。
「ンメ」
包装を破き、中から溢れた「カリカリ」をインコは貪る。その頭越しの空には、もう微生物の影も形も無かった。




